第14話 黒表紙の絵本
「――
ノラの張り上げた声が
「……少年、紅空のことを知ってるのか?」
「ああ。……怪我していた俺を助けてくれた。命の恩人のようなものだ」
帆稀は肩に置かれた手をゆっくりと
「にゃはは。あんな若くて元気な子が死ぬ訳ないだろ。今の話はそこの酔っ払い達の
「…………」
「冗談では済まされない陰湿な悪口だったのでな。帆稀さんがチョチョイのチョイで片付けてやったのさ。剥きになるなんて、オレもまだまだ子供だな」
「…………」
そう言いながら帆稀はカウンター席に座ると、「酔いが覚めちまったぜ」と愚痴りながら酒のおかわりを注文する。残った客はそそくさと入口のレジに立ち、チョビ髭マスターが会計を済ませている状況だ。
――ふざけるな。冗談のレベルで……人間があそこまで取り乱すかよ。あの怒っていた表情は、紅空を馬鹿にされた怒りだけじゃなくて……
まるで自分の無力さ。非力さ。悔しさを他人にぶつけているみたいだった。
「……帆稀さん、頼むよ。俺に知っていることを全て話してくれ」
ノラは先刻よりも小さく見えた帆稀の背中にポツリと語りかける。だが、帆稀は何も語らない。ノラが飲み残していたグラスの氷がカランと音を立てて動く。
「……帆稀さん」
「鳥は……」
酒焼けでカスカスに枯れた帆稀の声が、一拍経った後に紡がれた。
「鳥はなぜ群れで行動するか知ってるか?」
突飛な内容だったので、ノラは眉を寄せながら逡巡した。含みを持たせているのか、真意が全く読めない。
「コロニーの定着があるからだろ。外敵から身を守るために集団で行動しているとか」
ノラの答えに帆稀は座りながら振り返ると、ぐいっと酒を呷った。テーブルに置かれたグラスの音がトンと鳴る。
「それもあるだろうな。だが、そんなに難しく考える話じゃない。ただ、仲間と同じ行動をしたいからだよ。一緒に飛びたいだけなんだ」
そう述べると帆稀の目もとに翳りが生じたように見えた。
「ただ、稀に思うんだ。群れから外れた鳥が群れを必死に追いかける……そこに自由の真意はあるのかと」
「孤独で生きるよりはマシだ。自由を縛られてまでも、一緒に飛ぶことに意味がある」
「集団社会を
語気が強まっていく帆稀の言葉。この時、帆稀の真剣な表情を見てノラは悟ってしまった。鳥が何を意味しているのかを。
「そんな鳥にお前は何ができるんだ?」
「俺は……あいつに手を差し伸べて……」
その言葉は続くことなく、帆稀のトーンダウンした声が被さった。
「あいつは……紅空は差し伸べられた手を掴まない。中途半端に差し伸べた手は逆にあいつの心を傷つける」
彼女の少し潤んだブラウンの瞳は、澄んだ水が徐々に濁っていくように暗くなり、何かに煩悶しているようだった。帆稀は再びノラに背中を向ける。それは一切の拒絶を意味していた。
「だから、オレはお前に何も語らない。これはただの忠告だ」
殊更にチッと舌打ちをすると、ノラは一目散に駆け出した。木目調にデザインされた扉を容赦なく乱暴に開けると、鈴の音が一際大きく鳴り響く。
「ちょ、ちょっとまだお会計が……」
「いいよマスター。迷惑料も含めて、オレの伝票に付けといてくれ」
忸怩たる思いを瞼の裏から蘇らせるように、目を瞑った帆稀はグラスに付いている水滴を静かに拭った。
「掴めないんだよ……あいつの羽はとっくに折れちまってるんだ」
そう独り言を呟いた帆稀は歯を食いしばりながら、グラスを力強く握り締めた。
⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅
転移端末集合エリア最寄名『リージョンG東』。
島の東側に位置するクリーム色をした球状の建物内には、
建物内にある窓口。駅にあるみどりの窓口のような景観だ。そこで外出許可を得ると、ノラは端末に向かって急いだ。
「ちょっと、危ないですわ! 美しい体に傷が付いたらどう責任を取るつもりですの? 前を向いて走りなさい!」
途中、ハーフアップの赤い髪をした少女とぶつかりそうになったので、ノラはすぐに頭を下げる。少女は不満げにこちらを睨んでいたが、すぐにその場を後にした。
たったこれだけの出来事だ。こんな些細な接触だけで運命は大きく変化してしまう。そのことを今のノラ当人が知る由もない。
⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅
「ルウさん、夜食だよ」
紅空が餌のペレットを三粒水槽に入れると、ルウさんの口に一粒ずつ吸引されていく。大体、お風呂前に夜食を与えるのが日課となっている。そして、紅空が小話をルウさんにするのもこのタイミングだ。
「ノラ、結局帰ってこないね。リージョンGで泊まってるのかな? ……弁当のお礼言いたかったな」
日課である二時間のランニングをサボった理由は、ノラが帰ってくるかもしれないと思ったからだ。
外字のロゴが書かれた大きめのTシャツとハーフパンツ姿の紅空。体育座りでルウさんの目を見つめている。
「もう会えないよね……霊と人間は関わり合って生きちゃダメだから」
寂しげな紅空にルウさんは、首元に付いたピンクのヒレをワカメのようにクネクネと動かす。彼女のツボを刺激する一発芸である。
「ふふふ。ルウさんありがと」
しかし、本日の紅空に笑う気力はなかった。この何日間は嘘のように楽しかった。だからこそ、その反動で彼女は消沈している。
そんな時だった。
ピンポーン――――。
現在、夜の十時だ。夜遅くの来訪者など滅多にいない。紅空はおずおずとドアスコープを覗くと、即座に鍵を解除してドアを開けた。
「ノラ!? こんな時間にどうしたの?」
玄関前には額に汗をかいたノラの姿があった。息を吸い、呼吸を整えている。
「お別れの挨拶してなかったからな」
「……そっか。無事に死後カリキュラム受けられるだね」
お互い微妙な表情で向き合うと、暫く空白の時が生まれる。先に声を出したのは紅空だった。前に手を組み、モジモジしながら、
「部屋にあがっていく?」
少し上目遣いでノラを見つめる。ノラがすぐに首を縦に振ると、お互い相好を崩した。
「おかえり?」
「ただいま」
変な空気感でリビングまで進むと「私、すぐにお風呂入ってくるから絶対に寝たりしないでね」と紅空が言い、補足を付け足すように「出たら学校で昼ご飯食べた時の話聞いてね!」と満面な笑みを作った。
紅空が風呂場のドアを閉めるのを見届けてから、すぐにノラは行動に移す。水槽に顔を寄せると、ルウさんの円らな瞳を直視した。
「ルウさん教えてくれ! 紅空の秘密を知ってるんだろ!? あいつが死ぬってどういうことだよ!?」
ノラの切羽詰まった様子を見つめるルウさんは、ハードボイルドな渋めの声で一言こう答えた。
「……何も知らない」
ノラは思わず水槽の両端を手でガッと掴む。そして、その反動で水面が波を打つと、ルウさんは水中で少しスライドした。
「ルウさん、笑えない冗談だわ。ずっと疑問に思ってたんだ。あんなに喋りたがりの紅空を前にして、どうして口を開かない? どうして式神の契約をしないんだ!?」
「…………」
「隠してることを全部話してくれよ!!」
つい大声をあげてしまったので、浴室の方向を見る。シャワー音がするので、紅空には聞こえなかったようだ。紅空は浴槽にお湯を溜めないが、きっちり30分はシャワーを浴びる。ああ見えて意外と規則正しい、ルーティン的な行動を取るのだ。
――待てよ。そう言えば紅空の奴、風呂から出るといつも……。
ノラが振り返った視線の先にはベージュ色の本棚が置いてある。三段タイプで下段、中段は参考書やハードカバーの本が置いてあるが、上段には占い関連の書籍がびっしりだ。九星気学が多い。
上段はブックスタンドで区切られ、少し多めに空けられた隙間には二冊の本が置いてある。ノラは一冊の本を手に掴んだ。
「ノラ、止めろ!!」
ルウさんの反応で確信した。紅空が毎日欠かさず書いているこの日記を見れば何か秘密が分かると。
「他人の日記。見ちゃいけないのは分かってる……けど」
ピンクのカバーがされた少し厚めの日記を真ん中辺りから開いた。日付毎に各ページがある。ノラはパラパラと捲り、流しで読み始めた。
――別に普通の女の子が書く日記って感じだ。おかしな箇所なんてどこにも……
ノラの顔が一瞬強張り、手がピタっと止まる。そして、視点は壁に映っているマッピングクロック横にあるホログラムカレンダーにシフトした。
程なくして日記に目を戻すと、ページを捲るスピードが徐々に速くなる。強張った顔でペラペラと捲る。
「……なんだよ、これ」
弱弱しく放った言葉には、恐れに近い疑問が含まれていた。自然と鳥肌がたった。
…………………………………………
◇10月15日
○ハルミナ先生の九星運勢歴
『(運勢▼小凶)家の中でもケガをし易いので要注意。雑事に追われると目先も見えない。悪い友人との仲が親密になりやすい日』
○絶対行動
『家の中は危ないので、今日は日付が変わるまで公園で過ごすね。学校に友達はいないから悪い友人の件は問題なさそうだけど、一応、休み時間は体育館裏にいることにするよ。他の占いを総合しても運気は南西。少し遠いけどスーパー
…………………………………………
こんな内容が延々と……三カ月後の未来まで記入されている。
「未来日記かよ……おかしいだろ……」
――こんなことして何の意味があるんだ? それに何だ? この誰かと対話してるような書き方は……。
ノラは本棚に置かれたもう一つの本に目を見張る。そして、それを掴んだ。限界まで叫ぶルウさんの声が聞こえる。
「ノラ止めろ、後悔するぞ!! それは開くな!!」
ノラは無視してその本の表裏を探るように確認する。
タイトルもない黒表紙の絵本――色鉛筆の質感で書かれた童話チックな表表紙には、草原にポツンと佇む少女の姿が描かれている。裏表紙には木の根元に腰を掛けて、スヤスヤと眠っている少女。
分からない……だが、何となく紅空の深淵を覗くような嫌な予感はしていたんだ。
ルウさんの叫び声のみが響くリビング。
ノラはゴクッと唾を飲み込み、恐る恐る絵本を開いた。
すると、ぐわんと浮遊感のような感覚が脳内を支配し、意識が暗転すると同時にノラは絵本の世界と同調した。
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