第10話 クラムボンは静かにその時を待つ

 古今東西あらゆる人々が求める癒しは、時代の特色と共に片鱗を見せるが、共通的な要素はあまり変わらない。

 見聞覚知――自然の癒し、音楽の癒し、子供の癒し、笑いの癒し。


 ――ならば、癒しの代表格は? 


 人の好みに口出しするつもりはないが、その問いに対して真っ先に『癒し系アイドル』などの、願望という生地に欲望のホイップクリームを塗りたくったような甘い考えを示す者は、今一度、田舎のおふくろの顔を拝んで、幼少期の無垢な自分を振り返った方がいい。かなり疲れているに違いない。


 そう、言及するのはペットの癒し。


 人々の廃れきった心を癒す愛玩動物。ペットが飼い主に齎す効果として、近年では実証的な心理療法すら確立されている。あまつさえ、ペットセラピーという単語がある程だ。


 動物視点で立つならば、三食昼寝付で一日中ゴロゴロしていても、ご主人の帰りを玄関で待てば、癒しの効果は成立する。後は自然と触れられ、モフモフされればいいだけ……毛があればの話だが。


 そして、癒し系の動物は時代と人々のニーズに応えるように様々な形の流行へと変化した。

 例えば、ある時代は猫が暴走族風の身なりをしたり、またある時代は青い猫型ロボットが未来から来たり、またある時代は赤い猫が地縛霊になったり。

 猫だけのキャラクターだけで、泉のように湧き出てくる。数え出したらそれこそ切りがない。


 ――おっと、但し書きを忘れていた。


 以上の前提はの話に限るのは言うまでもない。


 詰まる所、ウーパールーパーの流行りなど一種の麻疹はしかのようなもので、一度過ぎ去ってしまえば、頭の片隅にも置かれないのが世の末である。


 案の定、紅空くれあはその生物の存在すら知らなかった程だ。だが、ルウさんにとっては、ペットとしてのハードルが低い分、それが丁度良かった。


 ウーパールーパーなどダイナミックに泳ぐ訳でもないし、観賞用にするならばアロワナの奴の方が迫力がある。決して嫉妬ではない。

 お洒落コーディネートの一役を買いたいならグッピーに高演色系の照明を景気良く当てればいい。再三言うが、嫉妬ではない。


 割れた鉢の中で、ぬくぬくと笑わないクラムボンを演じればいい。法の支配下で、何食わぬ顔で無風に生きることが最善だと思っていた。あの日までは……。


「(紅空のあんな笑顔は初めて見たな)」


 ルウさんは生まれつき表情筋が弱いため、顔に変化は生じない。だけど、二人の和やかな雰囲気に胸は躍り、心の中ではカプカプ笑っていた。

 昨日、拾われてきたノラという浮遊霊が、紅空の何かを変えてくれるのではないかと期待していたからだ。


 ノラには、の霊と人が交流を持つことは、この世界の法に触れることだと既に伝えている。

 紅空の怒涛の推しで、今日も泊まることになったが、律儀なヤツのことだから、おそらく、明日からは公的機関に泊まることになるだろう。つまり、紅空の家に泊まる最後の夜。


 願わくば、この安らぎの一時で紅空の心に変化が生じてほしい。彼女の光にノラがなってほしい。


 そう、ルウさんは切に願った。


 だが――。


 楽しい時間は過ぎ去り、二人が深い眠りに就いた頃合――丑三つ時。


 この辺りは大通りから離れているため、人の喧騒や自動車の騒音に悩まされることはない。かなり静かなものだった。


 カチャン――。


 ルウさんは微かな物音を感じて、居城の鉢から首辺りまでを外に出す。すると、次に耳に入ったのは、蛇口から流れる水の音だった。


「(…………ダメだったか)」


 エアポンプから出る気泡と、ドア向こう側のキッチンの明かりが交わり、視界は悪くなっているが、確かに彼女がそこに立っている。

 手の平に幾分かの薬を乗せ、一気に咥内に放り込むと、蛇口から汲んだ水道水をゴクリと飲んだ。


 そして、リビングへ戻るとソファーで寝ているノラを一瞥し、静かにベッドに潜り込む。窓側に顔を向けているため、枕元から見えるのは後頭部だ。


 一部始終見えた無表情の奥底には、あたかも夕食時の団欒が幻であったかのように儚く、温かさは一切存在してなかった。


 それは息を殺して覗き込んでいたルウさんのみが知る事実だった。




⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅




「おい、朝だ。起きろ寝坊助!」


「――ふあっ」


 目覚まし時計としては荒々しいノラの一声が、紅空の鼓膜を揺さぶる。謎の奇声を上げつつ、ばっと起き上がると欠伸交じりに口を開いた。


「ふえっ、えっ!? アラームは? もうこんな時間なの? 学校に遅刻しちゃうよ――!!」


「目覚ましのアラーム音は容赦なく鳴っていたぞ。よくあんな騒音レベルの音量で起きないな」


「あぁぁぁぁぁぁ――――!! 今度遅刻したら、女子トイレで強制労働させるって担任に言われてるんだよ!」


「なんだ遅刻の常習犯なのか? 惰眠を貪ってばかりいるからだ。自業自得だな」


 お寝坊さんが半狂乱。サービスカットとして、紅空が節度なく下着姿で慌てている。

 年齢の割には発育した推定Dカップの胸が誇らしげに躍動しているが、上下区々の下着は女としての価値を下げ、男から見れば残念と思わざるを得ない。


 ――しかし、慣れって本当に怖いな……。


 もはや、同室で着替えられても何一つリアクションを取らないノラ。いや、両者か。同棲五年目のカップルぐらいの自然体であった。


 紅空は甲斐甲斐しく身支度を済ませると、朝ご飯も食べないまま、スクールバッグを手に掴む。


「それでは閣下。超特急で行って参ります」


「参る前に、これを持ってけよ」


 敬礼する紅空に差し出したのは、おかず五品目、炊き込みご飯が入った弁当箱だ。


「こっ、こっ、こっ、コケッ」


「落ち着け、ニワトリ女」


「こっ、この眩しい後光を放つ宝石箱……紛うことなき手作り弁当……でしょうか……?」


「流石に朝から弁当屋で買ってきたとかじゃ、締まらないわな。有り合わせで作ってるから、期待しないでくれよ」


 ゆっくりと弁当箱を受け取った紅空は、頭上に掲げながらバレエのような綺麗な一回転を披露した。


「~~~~っ、ついに弁当デビュー! 私、学校で弁当食べてみたかったんだよね!!」


 弁当一つでかなりご満悦の紅空。トトロのメイちゃんぐらいのテンションである。


「てか弁当作る時間があったら、早く起こしてよね」


「お前は天邪鬼か!」


「うそうそ。ノラ、ありがとうっ――凄く嬉しい!」


「お、おう。そこまで喜んでくれるなら、料理冥利に尽きるわ」


 その異常なまでの喜びは、まさに狂喜と表現してもいい。よって、ノラは若干戦いた。この会話のテンポにズレが生じたことこそが、ノラの敗因だった。


「――やばい。悦に入ってる場合じゃなかった! 行ってくるね!」


「あっ、ちょ――――――」


 それなりに重厚感のあるドアを軽々と押し開けると、紅空は一陣の風のように去って行った。ドアストッパーの効果により、ドアが緩慢に閉まっていく。


「……まったく。別れの挨拶ぐらいさせろよな」


 ノラの文句に対して、ガチャリとオートロックの音が返ってきた。




⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅




 場所は変わって、某浮遊霊のノラは近場の市役所にいた。


 市役所を訪問する理由。推定二十歳ぐらいのノラが提出する届出といえば、稀が無ければ『転入・転出届』が無難なところだろう。低オッズで『婚姻届』もしくは『離婚届』が脳裏を過ったのはノラだけの話。


 なので、今回の目的は彼にとって異例中の異例だった。


「大変申し訳ございませんが……必須記入欄が穴だらけですよ……『名前』と『男』に〇が付いているだけ、ですね」


「可能な範囲で記入したら、結局埋まる情報はそこだけでした」


「ちなみに……ノラって本名ではないですよね?」


「まあ、芸名的な位置付けだと思って下さい」


 ここぞとばかりにシュールな会話の応酬が窓口で繰り広げられていた。『除霊届』に関して、異例なのは先方も同じだった。事情を説明してみたものの、予想通りグダグダで手続きは大分滞っている。


 暫くすると一向に進まなかった異例の手続きは完了し、ようやく正規ルートを歩むことができる訳ではあるが、ノラの心境は複雑だった。なぜならば、世界の異物であることを認める存在証明書に、自らがサインをする行動に等しかったからだ。


 ――う~ん。もしかして、俺の倫理感に落ち度があるのか?


 ルウさんの話だと《霊観念措置法メビウスの理》といわれる宗教染みた法律を生前から知っている霊は、挙って規範に従った行動をする。即ち、謀反は決して起こさないのが現状らしい。


「一先ず、登録は完了致しました。現世滞在中は、この黒い指輪識別端末を常に身に付けておいて下さい。証明書の役割、または各所機関のシステムをご利用できます。まずはリージョンGのインフォメーションセンターへ案内します」


 そう女性職員から事務的に説明されると、ノラは渡された指輪を右手人差し指に嵌めた。そして、まるで学習塾に無理やり通わされる子供のように渋々と、職員の後についていく。


 途中、ポーン型のロボット二体と通路をすれ違いつつ、案内されたのは小さな部屋だった。


 中央に筒状のガラスケースが一つポツンと佇むだけの簡素な部屋。そのケースの横には郵便ポストぐらいの大きさの石板モノリスが立っている。


「この部屋は?」


「空間転移用の《転移端末テレポス》が置かれた部屋です」


 女性職員は石板モノリスに手を翳し、出現した空間画面を操作している。


「準備が整ったので、どうぞアンプルの中へ。転移後はナビゲーターが案内しますので、ご承知おき下さい」


 恐る恐る内部へ侵入するノラ。


 ガラスケース内は、標準体型の大人が四、五人程入れるスペースが確保されていた。外部と内部を隔絶するマジックミラーのようなもので、外側からは内側の様子が窺えなかったが、内側からは可能のようだ。


 やがて内側に浅く彫られた紋様が、神秘的な発光をみせると、ノラはタンポポの綿毛のような光に変わり、その場から消えていった。

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