第3話 小さな待ち人

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。


 時は永遠の旅人。過ぎゆく年は人生であり、旅そのものである。松尾芭蕉の人生観のように、これからの自分の人生も旅の中で過ごすべきかな、と考え始めた頃合だ。


 とにかく、旅人は無情で冷たい。待てど暮らせど重要なイベントが発生することもなく、あれから三日が経過した。


 つまり、ずっと始まりの屋上で停滞している。


 今では拠点と呼んでいるこの場所に執着しているのは、もしかしたら誰かが迎えに来てくれるのではないか、と淡い期待を抱いていたからだ。


 だけど、人生そんなに甘くはないようで、屋上にやって来るのは大量のカラスだけだった。どうやら、初手から詰んでいたらしい。


 男を囲むのは飛車、桂馬、歩でもなくカラス。明らかに警戒もされてないので、いつか脳髄をくちばしで突かれ、人生が投了しそうだ。


「カァ……カァ……カァ……カァ……」


 これは男が出した自嘲的な声である。


 精神はかなり摩耗しており、腐りかけのレタスのようにしなしなと萎れつつ、フェンスに体を預けている状態。空腹のカラスに死肉と判断されても、おかしくはない。


 しかしながら、この劣悪な状況下で唯一幸いというべきなのは、男は全く腹が空かなかった。食欲不振なのかは不明だが、公園の水だけで生きている今日この頃。


「やっぱり……俺って霊なのかなぁ」


 超エコロジー体質かもしれないが、それが男の積もる不信感に拍車をかけていた。明らかに普通じゃない、と。


 寂しさを紛らわすための独り言もすっかり板についたが、この三日間ずっとここでカァカァ鳴いていた訳ではない。周辺の探索、状況を整理して色々と成果は得た。


 未だに戻らない記憶についても、明らかになったことはある。


 意味記憶というべき、日常生活に支障がないようなレベルの記憶は残っているようだ。それは義務教育で習った一般教養であったり、局所的な専門知識だったり、はたまた仕様しょうもないウンチクだったりと。

 

 その一方、消失したのはエピソード記憶。思い出に纏わる情報が全てデリートされている。それはもう清々しい程に。


 気掛かりなことは、男の知識と世界の様相に齟齬が生じていることだ。

 霊を日常的に受け入れている人々、純白の景観、空を飛ぶ謎の飛行物体、街中にはチェスでいうポーンのような形状のロボットがそこらを徘徊している。


 そのロボットは二種類の色、発見した限りではあるが白と黒がいる。白の方はベテランの主婦勢の如く、普通に買い物や会話をしているが、黒が実に厄介だ。


 なにせ警告音を鳴らしながら、追いかけてくる。屋上で籠城している理由の一つはそれだ。




 そんなこんなの屋上サバイバル三日目の夜のこと。

 毎晩変わらず、月が屋上を覗き込んでいる。


「……今日もあの女の子、ベンチに座ってるな」


 フェンス越しに見下ろしながら、男はそう呟いた。


 このビルから約百メートルほど離れた先にクリーム色をした球状の建物がある。その正面に置かれたモニュメントを囲むベンチには、赤いワンピースを着た小さな少女が座っている。


 その少女を初めて見かけたのは、最初の夜に周辺を探索していた時だった。

 少女は、迎えに来た親らしき中年の男性と手を繋ぐと、闇に溶けるように街へ消えていく。一見して不自然さはなく、特に気に留めることもなかった。

 

 だが、次の日にまた少女が現れると、今度は別の若い男性と手を繋いでいた。その次の日も。しかも、少女の服装は毎回同じ。杞憂かもしれないが、犯罪の匂いを感じた。


 男は考え始めたら行動に起こさないと気が済まない性分だが、三日間はかなり慎重に呈している。

 根は堅実な行動派。しかしながら、石橋を叩いて渡りたい願望あり。あまつさえ、叩き過ぎて崩落するタイプである。


 首を突っ込まなくてもいい事案に触れること。それは今回の件も符号した話だ。


 男は屋上から地上へ降りると、事情を訊くために少女の元へと向かった。



 クリーム色の建物前の大通りには、周期的に人の波が訪れる。どうやら、その建物が駅のような社会の交差点となっているようだ。


 建物前に着くと、赤いワンピースを着た少女は、まだベンチに座っていた。


 おそらく、小学生ぐらいだろう。首には黒色のチョーカーが巻かれ、耳の高さで結われたツインテールは愛らしく、ベンチから垂れ下がった足をバタバタとさせている。


 一歩間違えれば変質者扱いされ兼ねないので、なるべくスマートに事を運ぶ必要がある。男はしゃがみ込み、ゆっくりとした口調で赤ワンピの少女に喋りかけた。


「こんばんは。一人みたいだけど、誰か待ってるのかな?」


「――うんっ、まってるよぉ!」


 手を挙げながら、笑顔で返答する少女。


「一人で待つなんて、お利口さんだね。毎日違う人が迎えに来ているみたいだけど、家族の人かな?」


「家族じゃないよぉ」


「…………んっ!?」


「おにいちゃんみたいに知らない人~」


 少女が無邪気な顔で発言した内容に、男は絶句した。ほんの数パーセント危惧していたことが、一気に頭の中から湧き出てくる。


「おにいちゃん、ちゃんと見ててくれてたんだねぇ。ごほうび、手ぇ出して!」


 少女が手を差し出してきたので、疑問符を浮かべながら、男は手を上に重ねる。


 その瞬間だった。肩に異変があったのは。何かが刺さるような激痛が走ったが、なぜかその痛みは一気に消えた。


「ねぇ、ここ痛い?」


「……いや、……最高に気分がいいから痛くないよ」


「バッチリだよぉ。さてと、じゃあ行こうかぁ。


「……そうだな。……行こうか」


 少女と手を繋ぐと、ふわふわとした感覚が神経を支配した。程よくお酒を飲んだ時のような高揚感が近いだろう。この数日の苦悩や絶望が晴れていくようだった。


 ――肩の痛みはなんだろう? 手を引っ張られているのか? 果たしてどこに行くんだ? すれ違う人々から見て俺はどう映っているのかな?


 そんな思考が巡ったが、もはやどうでもいいぐらい心地がよかった。


「……きっと、全てが夢だったんだなぁ」


「うん、そうだよっ。全ては夢だよ、お兄さん」


 目の焦点が定まらないまま、ネオンサインが光る歓楽街へと向かう。男は夢遊病患者のように、ふらふらと歩いている。


「そこまでです!!」


 突然、背後から勇ましい声が響く。


 男が振り向いた時には、もの凄い勢いで誰かに手をぐいっと引っ張られ、赤ワンピの少女から十メートルほど離れた場所に立っていた。


「い、いてぇ。肩が痛い……」


 止まった思考と感覚が動きだし、男は我に返る。痛みの在り処を手で探ると、肩辺りの服が破れ、そこから血が流れていた。


 そして、歓楽街内には人が誰もいない。この不思議な状況に、男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で棒立ちする。


「ホログラフィー《仮想幻装アバターコス》ですか。幼気な少女に成りすますとは、言語道断です」


 鈴が鳴ったような澄んだ声。青藍のショートカットが風で揺れると、茜色の瞳が赤ワンピの少女を睨みつける。


 真横で屹立しているのは、あの時、接触事故をしたセーラー服の女子高生だ。


「チッ、霊能官かっ。せっかく、獲物を確保したのに邪魔しやがってっ!」


「いいえ、霊能官ではありません」


 女子高生はゆっくりと竹刀袋から日本刀を取り出し、黒漆でコーティングされた鞘から抜刀すると、刀を振り下ろした。

 

「私は『泗水家』本家人――送り手、泗水しすい 千雨ちさめです。あなたはここで始末させて頂きます」


 その言葉を聞いた直後、赤ワンピの少女は表情を変え、反射的なバックステップで距離を取った。身を低くし、ナイフを前に突き出して戦闘態勢をとっている。


 当然、男はこの奇怪千万な状況を、固唾を呑んで見守っていたが、


「ちょっと待て! 子供に刃物向けて、なに危ない宣言してんだよ。てか君もナイフなんか持ったらダメだろ」


 全く状況が分からぬまま、二人の会話に介入した。第三者から見れば、どう考えても高校生が子供を脅迫している絵面なので、少女側を擁護した次第である。


 空気読めない割り込みに対して、千雨と名乗る少女は目を細める。


「……あなたは騙されていたんです。ふと比喩るなら、もの凄い豪華で美味しそうな、お菓子のパッケージに誘われたけど、実際食べたらそうでもなかった、といったところでしょうか」


「ややこしいから比喩らないでくれ! 実際、何回もやられたことあるけどさ」


「まあ、ここで動かず見ててください」


 そう告げると、千雨の姿が真横から消えた。


 刹那、千雨は少女の真後ろまで高速で移動し、斬り上げた刃先が闇空に向けられていた。


 その直後、じりじりとノイズのような機械音が鳴ると、少女の姿と周りの空間が歪み出した。


 そして、少女は悍ましい変貌を遂げた。

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