第15話 心層世界と二人の少女

 ――これは、とある少女の心の世界を描いたお話です。


 無限に広がる物寂しい世界には、二人の少女がいました。ここは二人だけの世界です。


 だけど、二人はお互いの顔を知りません。たった一つの願いなのに……たった一つの望みなのに……たった一つの光なのに会うことすらできません。


 この世界には魔女が作ったルールがありました。雨を対価にすることで、空の表情を変えることができたのです。


 茜空の少女の雨は、蒼天の空を夕焼け模様に変え、やがて夜を迎えることができます。

 夜空の少女の雨は、漆黒の空を朝焼け模様に変え、やがて蒼天に帰すことができます。


 こうやって、この世界の空模様は巡り巡って移り変わり、そして回り続けます。


 しかし、このルールには大きな綻びがありました。夜空の少女は、雨を降らせることができなかったのです。


 それは残酷で悲しい結果をもたらしました。時経たずして、茜空の少女は夜の世界に永い時間縛られてしまいます。


 夜空の少女は閉じ込められた茜空の少女を救うため、ルールを作った世界の魔女と一つの契約を交わすのでした。


「自分の眠りと引き換えにあの子を蒼天に帰して――」


 魔女はその契約を認め、一本の苗木を夜空の少女に渡します。大地に苗木を植えると、みるみると根を張り幹は育ち、少女の十倍近く伸びた木には無数の青い果実が実りました。


虚夢きょむの果実』


 その果実を食べると、決して夢を見ることのない深い眠りへと誘われます。それが夜空の少女の対価となり、少女にとって決して明けない夜が始まります。少女が蒼天の下に立つことはありませんでした。景色も変わらない孤独の夜でひたすら眠り続けます。


 一方、蒼天に帰った茜空の少女は世界を分かつ境界で、夜空の少女を待ち続けます。世界のどこかにある虚夢の木で眠り続ける少女を、ただひたすら待ち続けます。


 しかし、秩序が変わった世界では、尚のこと二人が会えることはあり得ません。少女達二人が同時に存在する時間は、あまりにも短いのです。


 茜空の少女が雨を降らす刻限――蒼天の空が茜色に染まり、夜空が広がる十分間、少女は虚夢の木を探し続けます。


 この無限に広がる草原の夜は暗く、淡いオレンジの微光を放つ原始星と、天色あまいろの青花が咲き落とす光彩の綿毛だけでは、深い闇の先までは見通すことができません。


 それでも世界の至る所へ飛んでいく綿毛を追いかけながら、仄暗い寂寂たる道を茜空の少女は歩き続けます。何日も、何ヶ月も、何年も、虚夢の木で眠る少女を探し続けます。


 しかし時が経ち、茜空の少女の心は孤独に押し潰されます。少女が意図しない時でも雨が降るようになりました。少女の心は脆かったのです。


 ――どちらの世界でも孤独なら……心層しんそう世界にいた方が……幸せなのかもしれない。


 深淵を覗いて混沌に呑まれた日を境にして、少女の心は歪んでいきます。


 今度は、茜空の少女が魔女と契約を交わします。


「私が永遠の夜に縛られる代わりに、虚夢の木を枯らして――」


 それは空模様が移り変わらない限り、心層世界で永遠に存在し続けることを意味しています。もう茜空の少女は現実世界を拒絶していました。



『お願い、生きることを諦めないで』『お願い、強くなることをやめないで』『お願い、孤独に負けないで』『お願い、孤独と思わないで』『お願い、自分を大切にして』『お願い、自分を捨てないで』『お願い、自分を信じて』


『お願い……………………』

『お願い………………』

『お願い…………』

『お願い……』

『お願い』


 夜空の少女の想いは、茜空の少女届きません。



『弱くて……ごめんね』『強くなれなくて……ごめんね』『孤独に負けて……ごめんね』『いつも頼ってばかりで……ごめんね』『ダメな私で……ごめんね』『自分が嫌いで……ごめんね』『悲しい想いばかりさせて……本当にごめんね』


『ごめんね……………………』

『ごめんね………………』

『ごめんね…………』

『ごめんね……』

『ごめんね』


 茜空の少女の想いは、夜空の少女に届きません。



 茜空の少女は草原のベッドで横になり、夜空に浮かぶ原始星に手を伸ばします。手に収まる大きさなのに届きません。握り込んでも手の中には星はありません。まだ星とも呼べない偽物の星は、まるで少女の存在を否定するように欺瞞の光を放ちます。


 流麗な微風が髪を揺らし、光の綿毛に囲まれた少女は永劫えいごう夜刻よるどきを、草が掠める音と共に過ごし続けるのでした。



  ~心層世界と二人の少女~ おしまい




⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅




 草原に横たわる銀髪の少女。運命を達観したような寂しげな表情で空を見上げている。その傍らで少女を俯瞰して見ながら、ノラは握りしめた拳を胸に押し付けた。


 急に胸が押し潰されたように苦しくなり、声が出せない。眉間に力が入り、目元から押し出されそうな熱い何かを留めている。


 絵がコマ送りで動いているとは思えない。繊細なタッチで描かれた風景は、草原の波打つ動きをリアルに表現し、光る綿毛と闇が調和した仄暗い色合いは、真に迫る切なさを感じさせる。


 絵本の少女は自分が知っている人物よりも幼く見える。だが、誰がどう見ようと紅空くれあの姿だった。


 絵本の紅空に手を差し伸べた瞬間、オーロラのように輝く光の奔流が空に上流し、天の境目から幻想的な光が降り注いだ。そして、光と白が渦巻き、世界が真っ白に染まるとノラは同化し、意識が暗転した。



 ………………

 ………



「――――――か!?」

「―――大丈夫か!?」

「ノラ、大丈夫か!?」


 瞼を開くと、最初に視覚よりも聴覚が働いた。ルウさんの声だ。やがて、ぼやけていた視界がはっきりすると、部屋のリビングに倒れていることを理解する。


「良かった……無事だったか……」


 ルウさんの声はこもっているが、それでも安堵の色がしみじみと伝わる。ノラは徐に上体を起こすと、自身の変化に戸惑った。


「――――あれ?」


 熱いものが真っ直ぐと頬を伝い、顎から滴が落ちるのを感じた。


「ルウさん……俺……どうして泣いてるんですか?」


 あの光景を見て、何一つ理解できなかった……なら、なぜ泣いている? 少女達の機微に触れた、その苦しい程の痛みが残滓のように溢れてくる。


 きょとんとした表情で涙を流すノラの姿を見たルウさんは目を閉じる。そして、潮目が変わったと判断したのか、俯き加減でゆっくりと語り出した。


「ノラが読んだのは、魔法の絵本だ」


「魔法の絵本?」


 ノラは涙を拭い、居住まいを正して「魔法の絵本って?」と訊きながらリビングに胡坐をかいた。


「未知の啓示が具現化される『賢者の遺産パルデンス』の一つだ。ワタシは見たことはないが、絵本を開いた者は描かれた世界を追体験できるらしい」


「追体験ってレベルじゃなかったですよ……。絵本の少女……紅空はずっと泣いていました。あいつの痛みが直接心に流れ込んできた感じでした。未知の啓示って何ですか?」


「未知の啓示は森羅万象の全てを悟る賢者の力だ。それを物質化したのが魔法の絵本で、『過去』『現在』『未来』の三つ存在する。ノラが今見たのは『未来の絵本』――所持者の未来が見えた筈だ」


「所持者……って紅空のことですか?」


 首肯したルウさんを見ると、ノラは唇を噛み締めた。追体験した物語を頭の中で反芻し、不貞腐れたように小さく舌打ちをする。


「見渡す限り草原と花しかない無機質な世界で孤独で終わるとか。あんな胸糞悪いエンドロール……今まで見た事がない。どう評価してもバッドエンドでした。あの未来なら、無い方がマシです」


「無い方がマシ……か。それが叶うならどんなに幸せなことなんだろうな」


「どういうことですか?」


「ワタシがこの部屋で初めて絵本を見た時はだった。毎日、紅空はその絵本を大事そうに眺めていたぜ。何せ紅空が心から待ち望む情報だからな」


 エアポンプから出る気泡が水面でプクプクと鳴る音が妙に静かに感じた。


「『未来の絵本』は所持者の運命が確定した時、絵本の色が変わる。つまり今、描かれている内容は絶対的な未来なんだ」


 ルウさんの口から出た小さな水泡がブクブクと水面に上がるのを、ノラは静かに見守ることしかできなかった。先程、帆稀から忠告された言葉が、ふと脳裏に蘇る。


『――そんな鳥にお前は何ができるんだ?』


 ノラは勢いよく立ち上がる。何かと葛藤するように放たれる言葉は徹頭徹尾、全て荒々しい。


「―――ッ。俺はそんなこと絶対信じないっ! 魔法とか賢者とか、いい加減なこと言うのはやめてくれよ、ルウさん! それにあんな絵空事のような話、何一つ信憑性がないだろ!」


「なぁノラ……本当は分かってるんだろ? 絵本で見たのは紅空だけだったのか?」


「…………」


 ノラには紅空の忘れられない顔が二つあった。


 一つ目は初めて公園で会った顔だ。


 強気勝ちな半面で、ノラが感じたのは凛とした欺瞞の強さだった。自分の弱さを自己欺瞞という牢獄に閉じ込めた姿。まるで満ちた負の感情が表面張力を作っている状態で、今にも溢れだしそうな……そんな弱弱しい印象を感じた。


 二つ目は夜中に偶然見た顔だ。


 ソファーで寝ている時に物音がしたので、目を覚ました時だ。ウトウトとしていたが、あれは夢ではなかったのだ。


 ――目の前に居たのは間違いなく紅空だった。だけど……


 空色の瞳――その奥に映っていたのは、闇と同化したような漆黒の空だった。少し口元を歪ませ、それでも無と変わりない表情に背筋がゾッとした。


 表現するなら暗黒の発露――見てはいけない彼女の深淵を覗いた気分だった。


 ノラの脳内でそんな考えがひしめいていた時だった。



 ガコ――ン――!!


 突如、風呂場から大きな音がしたので、我に返ったノラはルウさんと会話する間もなく、風呂場に全力で向かった。

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