第16話 二丁目のペット探偵事務所

「おい、紅空くれあ返事しろ!!」


 浴室ドアの前で再三に渡たり呼び続けているが全く反応がない……シャワーの音が反響しているだけだ。


「この状況で『ノラさんのエッチ!』とか叫んだら訴えるからな!」


 止むを得ずドアを開けて強硬策を取る。


 すぐに視界に入った紅空の足は浴槽の淵から外に飛び出し、透き通るような乳白色の肌と白い浴室が同調し、湯気で覆い隠されていた。ちょうどお尻から浴槽に入ったような感じだ。ただ、浴槽にはお湯は溜められていない。


 目を閉じて微動だにしない紅空の頭が、浴槽の壁にもたれ掛かっていたので、緊急事態だと悟ったノラは、一糸纏わぬ姿にバスタオルを覆い被せて急いでベッドまで運ぶ。


「ノラ。紅空はどうしたんだ!?」


「多分、浴槽に頭をぶつけて気絶しているだけだと思いますが……119番は変わらないですよね? てか電話ってどうやって掛けるんだ……?」


黒い指輪識別端末に電話機能がある筈だ!」


「やべっ。ガイダンス中は寝落ちしてたから使い方が分からない!」


「そこはテストに出るぐらい重要な話だろ!」


 グダグダ、バタバタ、斯く斯く然々――そんな混沌カオスな状況の中。


「んっ……うっん……ぅっん……」


 紅空から艶めかしい声がすると、彼女の瞼がゆっくりと開いて、状況が飲めずにノラの顔を覚束ない目で見つめていた。


「……あれ……私……お風呂から出たんだっけ……?」


 そう呟きながらゆっくりと上体を起こすと、首まで覆っていたバスタオルがずるりと落ちて、お椀型の張りがある双丘の先端に引っ掛かる。紅空は「えっ?」と素っ頓狂な声を出すと、徐々に顔を赤らめていく。


「…………大丈夫か?」


「……えっとね。流石に心は大丈夫じゃない、かなぁ……」


 心配から気まずさへと転換するノラの胸中では「この正当なリアクションはなんだ?」と苦笑いをする一方で、それを悟った紅空は――、


「下着とね……裸は全然違うんだよ。プライベートゾーンは気軽に他人に見せたり、触らせちゃ駄目ってお母さんに言われてたし……」


 バスタオルを鼻まで覆う紅空の潤んだ瞳と、茹でタコのように真っ赤になった顔がノラの罪悪感を掻き立てる。


「……人類皆モヤシなのでは?」


「モヤシに裸を見せて、ワーイって喜ぶマニアックな女の子いると思う?」


「……そりゃ、変態さんだな」


 そもそも男性の前でワーイって喜ぶ女の子の方が変態な気がするが――などと突っ込むと話がややこしくなりそうなので、申し送り事項とした方が良さそうだ。


「どこか具合でも悪いのか?」


 眉尻を下げるノラに紅空はかぶりを振ると「ただ、滑って転んだだけだよ」と笑顔を見せた。


「ごめんね、心配かけちゃって。以後、気を付けます」


「……そうか。何も隠してないよな?」


「隠し事ナッシングだよ! あっ、このままじゃ恥ずかしいから洗面所に置いてある下着とパジャマ持ってきてくれない?」


「やっぱり下着は大丈夫なんだな……」


 紅空は洗面所から持ってきた下着とパジャマにすぐに着替えると、クローゼット内の収納ケースから一枚のTシャツを出した。江戸っ子のようなハチマキをした豆腐が腕を組んでいるキャラクターでロゴに『冷奴ヒヤ★ヤツ』と書かれている。


「服が濡れてるから風邪引いちゃうよ。これに着替えてね」


 罰ゲームレベルにダサいシャツを着る羽目になり、渋々と濡れた上着を脱いでいたのだが……


「――ちょ、ちょっとノラ! その胸の模様って……!!」


 紅空の吃驚に際して、場の空気はガラリと変化した。飛び付くようにノラの肩を掴んだ紅空の力により、さながら赤ペコのようにノラの首は前後にスウィングする。


「あぁこれか。タトゥーみたいだけど、趣味が悪いよな」


「……それタトゥーじゃない……黒勾玉の呪印……」


 深刻な話なのは雰囲気で伝わるが、丁度胸の真ん中にある呪印を触る彼女の小指が乳首に当たるので、如何いかんせん集中できないノラ。片や、そんな心中も察していない紅空は、未知の宇宙人を見たようなキョトン顔だ。


死霊グレッドが持つ呪力の印……もしかして生前のノラって……」


「…………」


 乳首に通じる神経が遮断されるぐらい悍ましい情報が出てきたので、ノラは眉を顰めた。呪力って言葉は、セーラー除霊師が言っていた気がするので、聞き覚えがある。


「……それだけじゃないよ。呪印の真下、薄っすらだけど白勾玉の玉印があるの……」


 紅空の言う通り、黒勾玉と対極するように白勾玉の模様が刻まれている。こちらは消えそうなぐらいの薄い白で、パズルのピースのようにちょうど二つの勾玉が密着して円を形容している。


「多分これって……。ノラ、今から一緒に行ってほしい所があるの」


「えっ? 今からって……もう十一時だぞ」


「つべこべ言わずに早く準備して!」


 ノラを急かす紅空は再び下着姿を晒しつつ、水色のニットワンピースに早着替えして、黒のベルトでウエストマークした。


 バタバタする彼女を尻目に、水槽を見ると水草の陰からルウさんがこちらを伺っていることに気が付いた。くるっとひねられたピンクの尻尾の裏側には、薄い白勾玉の模様が刻まれていた。




⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅




 転移端末集合エリア最寄名『新宿三丁目』。 


 紅空の住まい近くにある最寄りの転移端末テレポスから転移し、当建物から表に出ると、酔っ払いのサラリーマンと大学生らしき三人組に紅空は絡まれた。ノラは男除けの役目も果たさず、イモ程度にしか見られていないらしい。


 一方のノラは新宿二丁目方向へ歩く度に、オカマバーのキャッチに捕まり、冒険はスムーズに進行しなかったが、あれやこれやで目的地に辿り着いた。


「ここが目的地……?」


 怪訝な顔をするノラの前に建つのは、築数十年は経っていると予想される老朽化が進んだ5階建てのビルである。ネオンが浮かぶ大通りから路地裏の区画に入ったので、人気ひとけはあまりない。


 1Fに入ってるのは、看板まで油がギトギトした汚いラーメン屋。2Fは廃れた雀荘。3Fは高級クラブ。4Fは怪しいマッサージ店。5Fはブラック・イヴと書かれているので、おそらくキャバクラかガールズバーだろう。


 ――こんな夜中にコッテリ豚骨ラーメンか? それともリーチ一発ツモドラドラか……。


 何れにせよテンションが上がらないノラと、夜の街にも拘わらず能天気な紅空はエレベーターが故障していたので階段を上る。3Fの踊り場付近でノラの顔は更に曇っていく。


「紅空……まさか体験入店する気か? 流石に高校生がこんな店に入ったらヤバいし、嬢王目指すなら考え直せよ」


「んっ? ノラ何言ってるの?」


 そんな会話の中、到着したのは5Fフロアーである。『ブラック・イヴ』と印字された銀のアクリルプレート横には重厚感のある黒色のドアが屹立している。そして、目の前に立つと間髪入れずに紅空はドアを開けた。


「ちぃーす」


「マジかよっ。そんな部室に入るノリでいいのか?」


 ノラの思惑を完全に裏切る形で、すたすたと奥へ進入する紅空を追尾する。


 そこはアンティーク調の部屋――全体的に年代物のヴィンテージ家具や雑貨が整然と並び、入り口左右には木製の本棚が設置されている。奥にはローテーブルと囲むように配置された四人掛けのソファー、そして重役が腰をかけそうな机が置かれている。


「よお、紅空。珍しいじゃねえかよぉ。今日はどういう了見だぁ?」


 出所が不明な声の主を探すと、重役の机からひょっこりと顔を出して、机上に手を乗せている生物がいた。


 頭部がモヒカンカットの真っ黒なトイプードルである。体も顔も含めて全体的に毛むくじゃらなので、間接照明だけの薄暗さが手伝い、どこが目だか判断できない。


「クゥちゃん久しぶり。ちょっと訊きたいことがあってね。津々良つづらは居る?」


「ソファーで芋虫になってるぞぉ。叩き起こすかぁ?」


「私が起こすからいいよ」


 紅空は途中のコンビニで買った某高級アイスクリーム(ラムレーズン味)を、生意気口調の犬の前に置くと、両手で器用に挟みながらアイスをペロペロと舐め始めた。


「いつもかたじけねぇ。……ところでその冴えねぇスットコドッコイは誰なんだ?」


 ……もう驚かないからな! 動物が喋る可能性があることは念頭に入れている。冷静だ、冷静。


 頭の中で念仏を唱えながら、偏屈な態度を取ったノラだったが、それが逆に仇となった。


「普通、驚くところじゃない? 犬が喋る珍事にそんな冷静でいられるもの?」


 紅空はアヒルのように口を尖らせながら疑惑の視線を送る。


「ま、まあ犬が話すなんて月並みだろ。CMで犬が話す姿とか良く見てたし」


 些か動揺していたノラだったが、会話に割り込んできた欠伸と気怠そうな声に救われる形となる。


「ふあぁぁぁ――。浮遊霊じゃないっすか」


 ソファーで芋虫のように包まっていた人物が起き上がり、床に毛布が落ちる。パーマがかった栗色の短髪を摩りながら、浅黒い肌の男は再び欠伸した。二十代後半だろうか――三白眼で目つきが鋭いため、人相は悪く感じるが口調は穏やかである。


「さしずめ、その浮遊霊絡みの話といったところっすかね」


「津々良、起こしてごめん。刻印について教えて欲しいことがあってさ」


 コンビニ袋から出したツナ缶と缶ビールが津々良という男に渡ると、プルタブをプシュっと開けてゴクゴクと飲み出した。それを傍から見ているノラ。


「この人と犬は何者なんだ?」


「私っすか? 私はこのペット探偵事務所所長の津々良織つづらおりっす。そんでこっちの相方が――」


「式神黒豆くろまめだ。よろしくな冴えねぇ兄さん」


 自己紹介はさて置き、ヤバイ匂いがプンプンしていた。気怠そうな話し方をする男は、恰好もインチキくさい。この少し蒸し熱い中で、オレンジ色のツナギにジージャンを羽織っている。


 さながら宇宙飛行士見習いのようなツナギは、背が高い彼の細身を如実に表し、膨張色とは思えないぐらいスリムに見せていた。


津々良つづら達は、裏で妖怪バスターの仕事もしてるんだよ」


「ふぅ~ん、としか言えないな……ここはバスターズのアジトってことか」


 紅空が指を立てて誇らしげに語る横で、ノラが白々しい納得をしていると黒豆の生意気なインサートが入る。


「おい兄さん、名前はぁ?」


「……ノラだけど」


「変な名前だなぁ。とりあえず冷蔵庫からハム三枚持ってきてくれぇ、腹減った」


 紅空がいる建前もあり、腹立たしい思いを胸の内にしまいつつ、冷蔵庫からスライスハムのパックを持ってくるが、


「おいおい、常識で考えろよ。俺っちは知覚過敏なんだ、そのままじゃ冷てぇだろ。フライパンで焼くのが敬意ってのを知らないのかよぉ?」


 生意気な発言がノラのプライドを逆撫でし、早々にムカつく相手として認定された。


「なんだこの駄犬は……人間への媚の売り方をペットコーナーから再学習した方がいいんじゃないか?」


「ちょっとノラ!」


「その強者みたいな態度が俄然、気に食わん」


「実際、クゥちゃん強いからね。式神の神戯じんぎが解放されたら秒で完封されちゃうよ」


「犬に完封とか有り得んな。その神戯じんぎとやらが解放されたら、この駄犬はどんな力が発揮されるんだ?」


「モヒカンがビューンって伸びるの」


「怖っ」


 その奇々怪々な能力なんやねん、とノラは黒豆を見下すと、所長面した不服げな黒豆は机上にトンっと乗っかった。ビー玉のように丸いダークブラウンの瞳がノラを直視する。


「どんな能力が解放されるのかは、神の戯れ次第――ちなみに俺っちの神戯はガチャで言うとSSRダブルスーパーレアクラスだぜぇ」


ノーマルというかANアブノーマルの間違いだろ、モヒ犬」


 黒豆はニイッと口角を上げ、「百聞は一見しかず。身体で理解した方が早いだろうなぁ」と飄々と告げる。


 そして――――、


神戯絢爛じんぎけんらん猛竜一糸もうりゅういっし』――!!」


「!!」


 ビューンと唸るように伸びたモヒカンが、勢いよくノラに数周巻き付くと、あっという間に空中に運ばれる。簀巻すまきにされた寿司さながらの状態だ。


「マジかよ!! 下ろせ――――!!」


「猛々しい竜でさえも、俺っちのモヒカンに一糸でも囚われたらお陀仏よぉ」


「クゥちゃんの神戯はモヒカンで巻き付けた物を一トンまでなら、軽く持ち上げられるんだよ」


「決め台詞も解説もいらんから、さっさと下ろしてくれ!」


 バタバタと暴れるノラがブランブランと空中で揺れていると、津々良が頭を摩りながら呆れ顔で近付いてくる。


「うちの黒豆が申し訳ないっすね。窓から突き落とされる前にここは一つ、ハムを焼いて手を打ってくださいっす。穏便にいきましょう」


「…………」


「分かったら俺っちのハム焼け。油は使うなよぉ。弱火でじっくりだ」


「……うす」


 戦意を失ったノラはモヒカン簀巻きのままで、台所まで運ばれる。ウエスト部分以外がモヒカンから解放されると、まるでバンジージャンプ落下後の姿でハムを焼くような珍妙な光景だった。


「ノラ……大丈夫? 手伝おうか?」


「……紅空が焼くと速攻で焦げるからいいよ」


 頬を膨らませる紅空の横で、ハムを一枚一枚丁寧に裏返しながら「俺の戦力ってトイプー以下なんだな。こりゃ、主人公にはなれねぇわ」と自嘲した。


 少し焦げ目が付き始めたハムからパチっと鳴った音が妙に寂しく聞こえた。

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