第7話 湾岸特殊区域『リージョンG』
ミューズホワイトのフローリングには、窓から差し込む射光でひし形の座布団が敷かれていた。
その座布団の上で、ノラは胡坐をかきながら、
「排水溝に召喚されたぁ?」
予想していた内容とは違い、言葉通り泥臭いものだった。
「あれは地獄だった。暗闇で悪臭漂う空間を三日間彷徨い、そして、最後の力を振り絞って脱出した先が流し台。疲労困憊で昏倒したと思ったら、置かれていた桐製のまな板の上でお寝んねよ」
「それは……なんとも不憫な……」
表情が読めないルウさんだが、クリクリの目玉を水底に向ける姿は、なんとなく悲壮感が漂っている。
その事態を招いた『召喚』というキーワード。
契約者と式神の契約を結ぶ儀式は、大きく二つの段階がある。
第一段階は『召喚の儀』――。
契約者は召喚のための霊方陣を生成し、導きの言霊を詠唱する。そして、言霊に導かれた召喚霊が、生成した霊方陣に顕現すれば第一段階が完了となる。
ちなみに召喚霊の分類としては、動物霊が大半らしく、召喚時点で人間の言語能力を取得するようだ。
第二段階は『契約の儀』――。
契約には契約者と召喚霊――双方の合意が必要。合意に必要なのは契約条件であり、双方の願いを条件として示し、言霊に乗せる。
願いの丈には制限はなく、古来より命を捧げて悪霊を滅することを前提として召喚されているため、式神はそれ相応の願いと対価が要求できるそうだ。
等価交換とは言わないが、その点はまさに社会の取引に近いものだろう。
霊方陣に立ち、互いが明示した条件で合意した後に、契約者が召喚霊に真名を授ければ、晴れて契約成立。
神の使者――式神の誕生である。
また、契約締結後には『
これらのソースはルウさんの式神講座を受講して得た知識だ。
「それからぐっすりと寝ちまって、起きたらビックリ仰天。包丁を持った銀髪の少女が目の前に君臨していたからな。秒で三枚におろされる覚悟は決まったぜ」
召喚当時はまだ、人間の言葉を話せることを理解していなかったらしく、ただ慌てふためいたルウさん。
だが、一世を風靡したマスコットキャラは一味違った。持ち前のブサカワ処世術により、紅空に潤んだ瞳で命乞いをすると、すぐにペット認定されたらしい。
あの御転婆娘のことだ。おそらく、不思議な生き物だからペットにしてみよう、ぐらいの気持ちが芽生えたのだろう。
「しかし、そこからも地獄だった。暫く、風呂の浴槽で飼育されていたが、カルキ抜きがされてなくてな。エラ呼吸が困難な上に、餌はお
「ひでぇ……無知無知ですね。もしや、他の生き物と間違えてたとか?」
「カンが冴えてるじゃねえか。そう、紅空はワタシを鯉だと勘違いしていたそうだ。風呂生活の五日後に『あなた、ウーパールーパーだったのね?』と嬉々とした表情で告げられた時は逆に清々しいぐらいだったぜ」
それから紅空はウパルパの正しい飼育法をネットで学び、ノラの眼前にあるガラスの城が設置され、現在に至る訳だ。ちなみにこの話は三ヵ月前の話である。
「ルウさんが『召喚の儀』しか完了していないことは理解しました。つまり、契約が仮の状態って訳ですね。車でいう仮免中、的な?」
「そうだな。同乗指導者がいなきゃ、公道どころか水槽からも出れやしない」
「どうして? 後は『契約の儀』で紅空と契りを結べば、終わりじゃないですか?」
眉間に皺を寄せるノラの素朴な疑問に、ルウさんはすぐに応じなかったので、数秒の空白が生じた。
「そもそも……紅空はワタシが喋れることを知らない」
「!? どういう事ですか?」
ルウさんの歯切れの悪いざらついた声に、ノラは訝しむ。
「タイミングを完全に逃したこともあるが……自重したんだ。ウーパールーパーが喋ったらキモがられる可能性大だろ? それは凹む」
「そんな繊細な心の持ち主なんですか? 多分、アイツなら大喜びで飛び付いてくるネタだと思いますが……」
「それに契約が完了したら式神として四六時中、紅空の側にいることになる。女子高生の肩にウーパールーパーが乗っててみろ。世間で笑い者間違いなしだぜ」
聞けば、先程の知識云々はルウさんが紅空の独り言から得た知識らしいのだ。喋らないウパルパに語りかける彼女の姿は容易に想像ができるが、珍妙で物寂しい光景である。
バツが悪そうに言葉を選ぶルウさんに対して、ノラの胸中に疑問が芽生えた。
だが、紅空とルウさんの関係や事情に首を突っ込む程、ノラはまだ互いの事を理解している訳でもないので、
「だから、この話は紅空には黙っててくれ」
「……はい。分かりました」
ルウさんの頼みを素直に受け入れ、首を縦に振った。
「助けてくれたお礼に何かしたいです。何をしたらアイツは喜びますか?」
純粋にお礼がしたいノラの無垢な表情に、ルウさんはヒレをパタパタさせると、
「無難なのは掃除、炊事辺りだろうな。但し、女の子はデリケートだ。隈なく掃除すると、後でしっぺ返しがあるかもしれないから、注意しろよ」
パクパクと細かい水泡を吐きながら、そう答える。
窓から差し込む射光が水槽で屈折し、真ん丸の黒目に当たると、キラキラとした輝きが映っていた。
「下着姿に羞恥を覚えない乙女には、デリケートという概念はないかもしれませんけどね」
そう苦笑して言うと、ノラは部屋で唯一の差し色を主張するピンクの遮光カーテンを閉めながら、一つの疑問を心の中で呟いた。
式神を召喚する彼女は一体、何者なのだろう、と。
⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅
東京都江東区、湾岸特殊区域『リージョンG』。
東京湾に位置するこの埋立エリアは、東京ドーム五個分の面積を占めており、霊法関係の公的機関が並んでいる。
海に囲まれた環境ではあるが、広域に渡って緑が多く、建物以外は自然豊かな風景が広がる。
文字通り浮世離れした此処、主に死後カリキュラムの実地施設が建てられており、また霊が現世滞在中に泊まれるホテルやレジャー施設等も完備されている。『魂の浄化』で成仏するまでの間は基本的には、ここで生活する手筈となる。
そして、中央にそびえるガラス張りの高層ビルには、それに付随したように行政国家の基盤が存在する。
霊特殊捜査本部。
第二の警視庁と呼称される場所。
一直線に伸びた飛行機雲の隙間から夕日が差し込み、15階のカフェテリアスペースは茜色に染まる。
観葉植物のパキラが置かれているカウンターの端には、一人の少女の姿があった。
さらさらした銀髪が夕日と重なると、変色して見えるブロンドとオレンジの鮮やかなグラデーションが浮かび上がる。
紅空は魂が抜けたように、ぼんやりと地上を眺めていた。
深緑公園や噴水広場を歩く、米粒ぐらいに見える人々の中には、霊や実際に生きている人間が混じっている。
陽光での霊体目視や、霊用に配布された
むしろ、そんな人間だからこそ、今この場所にいる。霊能犯係は、霊感知能力に長けていないと属せない。
そんな彼女の表情はどこか浮かなく、焦燥しているように見える。紅空は手に持っていた一枚の紙に焦点を移した。
□能力測定結果(第二期)
氏名
所属
以下、能力別判定値
(評価テーブルS、A、B、C、D、E、F)
※丸括弧内は前期比較、角括弧は班内序列
筋力 E(±0)[25位/27名中]
体力 D(+1)[24位/27名中]
敏捷 B(+1)[8位/27名中]
エナ総量 D(±0)[22位/27名中]
エナ瞬間還元量 D(±0)[23位/27名中]
特殊アビリティ *******
戦闘タイプ
得意体技 回転系蹴撃、カウンター
◇総合判定 D(+1)[23位/27名中]
※特殊アビリティは機密性確保のため、マスキングとする。
「半年近く頑張ったけど、あまり変わらなかったな……」
紅空は消えそうなぐらい小さな声を漏らすと、机に突っ伏した。彼女が憂鬱である原因。それは能力測定結果が思ったよりも芳しくなったからだ。
伸び悩みに苦慮したので、アドバイザーに相談し、助言されたメニューを毎日熟した。放課後に筋トレを行い、常に三時間は走り込んだ。エナの強化も抜かりはなかった筈だ。
「一応、体力と俊敏は上がってるけど……。うぅぅ」
六限目の授業中に《
学校ではあまり目立ちたくないが、致し方なく早退して来てみれば、会議が後ろ倒しになる始末。唯でさえ緊急招集会議は長引く。
この待ち時間、会議への倦怠感、そして、能力測定結果。一切合財が紅空の呻き声に繋がっている。
他人と関わりたくないナーバスな時こそ、その機会がやってくるものだ。紅空に声をかけてきた連中がいた。
「あら、神籤さん。こんな所で黄昏ボッチでーすか?」
紅空が横に振り向くと、そこには三人組の女達が笑いながら立っていた。カフェテリアは人は少ないが、わざと周りの目に付くように声を張り、下卑た笑みを浮かべている。
「端の席とか、お似合い過ぎるでしょ。観葉植物と位置を変えたら、更に映えるわよ?」
露骨な醜悪を見せるお嬢様気質の女――
「別に……どこに座ろうと私の勝手じゃん」
「空気になろうと努力する姿。全く健気なことですわね」
冷めた視線を送る紅空を、遊鳥は飴色の瞳で見下し、髪を耳にかける仕草をした。燃えるような赤い髪が後頭部にアップで束ねられ、右肩にはモリフクロウの式神がちょこんと乗っている。
上品に整った羽毛は灰色と白の斑模様が入り、程よく丸みを帯びた体の割には姿勢が正しく見える。イギリス北部出身の当式神は、どこか紳士的な雰囲気を醸し出していた。
「こら遊鳥。その辺にしておきなさい」
落ち着いた口調で遊鳥を宥めるフクロウの式神。当事者のくせに過保護な父親面している感じが、紅空はいつも気に食わなかった。
「ごめんね、キューちゃんっ。もう少し弄ったら終わりにするね」
――ちっ。キューちゃんって、九官鳥か!
キュービッツという真名を与えられた式神をキューちゃんと呼ぶ姿は、若干のブリッ子さを孕んでおり、紅空は些か腹が立った。
否応にも彼女と関わる機会は多い。皮肉にも同じ高校の同学年であるのだ。世の中狭いとは、この事を表す言葉なのだろう。
空色の瞳と飴色の瞳が睨み合い、視線の間でバチバチと火花が鳴っている。
「ねぇ、遊鳥見て見て。こいつの能力測定結果があるよ」
遊鳥に気を取られていた紅空の隙を突き、黒髪ショートの取り巻きが紙を毟り取った。
最悪だ。一番見られたくない相手の手中に渡ってしまった、と苦虫を噛むような顔をする紅空。
「全く酷い結果ですね。
「うるさい」
「いつまで経っても、
「うるさい」
「遊鳥達の
「うるさい」
紅空と遊鳥のまるで呪詛の堂々巡りのようなやり取りが続く。紅空の目に潜む光が徐々に無くなっていたが、それでも彼女は凛とした表情を崩さなかった。
遊鳥の嫌がらせはそれでも続いた。測定結果が記載された紙をビリビリに破り捨てると、腕を振り上げる。
「シュレッダーにかける手間を省きましたわ。どうせ電子データがあることですしね」
ひらひらと舞う紙切れが紅空の頭上、周辺にばら撒かれる。
「――ッ」
悪質な行為に歯を食いしばる紅空。遊鳥はそれを横目にしながら、
「それでは、また後ほど」
蔑んだ目と甲高い笑い声が、カフェテリアスペースから離れて行った。
紅空は細かく刻まれた紙切れを無表情で拾う。この状況を見ていた傍観者は数人いた。だけど、誰も手伝おうともしない。
こんなことは慣れっこだ。
こんなことで挫ける人間ではなかった。
もうへこたれることも、諦めることも、全てどうでもいい。
紅空はこの世界に冷めていた。
例え誹謗中傷を受けても、この時代ならば嫌な記憶を消去できる。加害者、被害者、両者共にその考え方が蔓延しているからこそ、世界から人を傷つける行為が無くならないのだと思う。
かく言う自分も、その咎人の一人なのだろう。
《
そんな嫌なことから、簡単に逃げ出せる世界に。人間と霊が偽りの共存をする世界に。
全てに嫌気が差していた。
紅空はこの世界に冷めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます