第5話 捨てる神あれば拾う神あり

 バケツ型のごみ箱に靴がぶつかると、プラスチックと地面が当たる鈍い音が鳴った。

 辺りに生ごみが散乱したが、それを片付ける余裕もない。


 歓楽街の路地裏。


 ピンポイントに降り出した豪雨が、地面に水たまりを作り始める。バシャバシャと水飛沫を上げながら逃げる男を、狭い路地裏を歩く人々は険悪そうな顔で見送っていた。


 突発的な急雨と、閑散とした道に現れたのは人の群れ。セーラー除霊師の行く手を阻み、視界を遮る傘の波がなかったら、おそらく男はもうこの世には存在しなかっただろう。


 背中に死が張り付いているような恐怖。男は人混みに紛れる手段を選択しつつ、狭い路地をひたすら走った。


 薄暗い路地裏を抜けると、大通りを歩く人混みに男は溶け込むように紛れる。


 傘を差さずに逃げているので、服はびしょ濡れ。水を吸った服からは重みを感じる。周りの服装と比べると、厚手の黒ジャケットを装う男の姿は少し浮いていたが、誰も気にする者はいなかった。


 なぜ、こんな窮地に立たされているのか。

 なぜ、世界から拒絶されているのか。

 

 全く分からない。


 徐々に意識が薄れ、そこからの記憶は曖昧だった。数分歩いていた気がするし、数時間歩いていた気もする。


 雨音だけが支配する闇夜は、見える景色を全て遮断するような暗鬱な気持ちへと変えた。


 行く当てもない流れの中、男は道端に落ちている一枚のふやけた葉っぱを見つめた。


 黄色や朱色など色味溢れる頃は、人々に風情を与える紅葉。しかし、いつかは枯れて落葉し、川の流れに身を委ねながら海に出る。やがて、荒れる波に巻き込まれると海底へ沈んで、菌類などの微生物に分解される。


 そんな負の連想をした途端、胃がギュッと痛んだ。


「助けてくれ……」


 そう言葉にすると、手に微かな温もりを感じた。


 冷たい雨が降っているはずなのに、なぜか顔は全く濡れていない。頬を伝うのは涙だが、いつの間にか蒸発するように消えていく。


 手から伝わる温かさが、希望の光をくれた気がした。





「ねぇ、大丈夫?」


 優しい声が聞こえると、闇が少しずつ晴れていく。空から降り注ぐ光が徐々に世界に浸透していく。


 ゆっくりと瞼を開くと、視界は人工的な光源。天井にあるシーリングライトで目が眩んだ。


 状況が全く掴めない。


 ただ一つ分かることは、天井を見上げている体勢。ふわふわの布団が敷かれたベッドの上で寝ていることだけだった。


 ――ここは天国か?


 頭を転がしながら、横を向く。


「ちぃーす」


 そこには、どアップの美少女の顔があった。


「うあぁぁぁぁぁぁ!!」


「いやいや……そこまで驚かれると流石に凹むかなぁ」


 驚愕して跳ね起きた男に向って、呆れ顔をする銀髪の少女。さながら、お化けを見たような男の反応に、不満の色を浮かべている。


「……ここどこだ!?」


「私の部屋だよ」


 白と黒のモノクローム調の部屋だ。間取りは十二帖ぐらい。木製のベッドとソファー、本棚、ガラスのローテーブル、音符の形をしたインテリア、そして隅には大きな水槽が置いてある。


 色味然り、女の子らしい華やかさはなく物も少ない。必要最低限の物だけ集めた簡素な部屋だった。


「どうして俺はここにいる?」


「ブランコで突然倒れちゃったから拾ってあげたんだよ」


 混線していた男の記憶が鮮明になってきた。


 ブランコに座っていた時に声をかけてきたボッタクリ女子高生。会話代の請求として、金を巻き上げようとしてきた奴だ。


「……俺は一文無しだぞ。金なんて一銭もない」


「二言三言でお金の話は酷くない?」


「当然の範疇だ」


 怪訝な顔をする男の正面で、少女はぐっと目を瞑り、パッと開くとキラキラした空色の瞳が現れた。


「この綺麗な目を見ても、私が血も涙もない人間に見えますか? がめつい女に見えますか?」


「うん、見える」


「……会話料金、プラスJKオプション。30秒毎に五千円。1分15秒だったから税込で一万円だよ」


「回収単価が増えてるがな」

 

 急な開き直りを見せる少女。掴めない女だ。


「信用ゼロじゃん!」


「信用以前に怪しい点が多すぎる。まず、お前は俺をここまでどうやって運んだ?」


「そんなの一つしかないよ。せっせと担いできた」


「嘘下手か」


 見た寸感では身長百六十ぐらいだろう。小柄という程ではないが、大の大人を担いで運ぶなど有り得ない。しかも傘と荷物を持った状態で、おまけに雨が降っていた。


 男が分析している中、少女は顎に指を当てながら首を傾げている。


「本当の事なんだけどね」


「常識で考えれば、まず有り得ん。しかもだ。こんな怪しい男を部屋にあげる神経がおかしい」


「普通は自分で怪しいって言わないよね。おかしいって?」


「それはだな……襲われる危険性があるのに不用心ってことだ」


「襲うの?」


 きょとんとした顔は無邪気なものだった。目の前にいるのは聖者とでも思っているのだろうか。男はあっけにとられて二の句が継げない。


「まあ仮に襲ってきたとしても、大丈夫かな」


 すると少女は立ち上がり、手を後ろに組むと、


「私、あなたよりは強いからね」


 少し前のめりの姿勢で余裕の笑みを浮かべていた。


 ――すげえ自信。笑った顔は天使だけど、騙されるかよ。危機管理重視だ。


 売春老婆の奇行。セーラー除霊師の強襲。


 度重なる危機の中で、命の瀬戸際まで歩んだところだ。崖っぷちに追い込まれたサスペンス的な気分。刑事に拳銃を向けられ、その横で血縁者の説得を引き合いに出されても、簡単に応じられる心境ではない。


 もしかしたら、この女も老婆にトランスフォームするのではないかと疑っている次第だ。


「ねえ、名前教えてよ」


 名前を聞くだけの所作だが、まるで宝石箱を見つめるような輝きが表情にはあった。


「知らん」


「ははぁん。人に名乗る時はまずは自分からだろタイプだね。私の名前は神籤かみくじ 紅空くれあ。神頼みの『神』に籤びきの『籤』、夕方を彩る『紅』の『空』だよ」


「へぇー」


「心の中で銃声のバキューンの音質で、ドキューンって鳴ってなかった?」


「いや、別にドキューンではないだろ。ただ興味がねえ」


 不満爆発寸前。フグのように頬が膨らむ姿はまるで子供だ。


角張かくばってるなぁ」


「それを言うなら、とがってるだろ」


 膨張していた空気が抜け、早くも爆発した。

 紅空は語気を強めて再度質問する。


「ねえぇ、名前はぁ?」


「だから知らん。決して、拒否の“知らん”ではないぞ。脳内に名前が保管されていないから、答えられないの“知らん”だ」


「んっ、それって記憶喪失ってこと?」


 男は首を縦に振る。逆に名前を教えて貰いたいところである。


「霊で記憶喪失とか聞いたことない」


「やっぱりお前も……俺が霊だと主張するんだな。体が透けてないのにどうして分かる?」


「お前じゃなくて、紅空ね」


「…………」


「あなた、識別端末つけてないじゃん」


 紅空は指をピンと伸ばし、右手を前に突き出した。人差し指には光沢感がある白い指輪がついている。


「《個人の箱庭ガレージ》って言うんだけど、法律で常に身に付けることが義務付けられているんだよ。まあ、身分証みたいな感じかな。あなたはそれがないから、霊だって判断出来るの」


「なんか商品タグみたいだな。だから街行く人達は、パッと見で俺を霊だと識別できたのか」


 知りたいことが満載だったので、色々な情報を紅空から訊き出そうと考えていたが、彼女はどうしても名前の件が頭から離れないらしい。


「う~ん、名前がないとか不便過ぎでしょ。なら、私が付けてあげるよ!」


「いらね」


 終いには、勝手に話が進む。


「画数には拘りたいけど、多いと名前書くときに大変だもんね。それとも、外国人っぽい方がいい?」


「いや……いらねって」


「う〜ん。公園で拾ったから『ノラ』でいっか」


 悩んでいる割には、数秒で決定した。


 名は体を表す――ことわざ通りの話ならヒエラルキーの底辺に傅くかしずレベルの名前。負け組のような名前に判を押す者など、市役所職員でも願い下げである。


「ふざけるな。野良猫じゃないんだぞ」


「えー、ノラいいじゃん」


 ブーたれる紅空。ブーブーブーブー、豚のように煩い。


「まあ仮称だし、私の自由に呼ばせて貰うね」


 自由奔放な彼女の前では、反論の余地すらなく、オブザーバー状態。


「勝手にしろ」


 結果、済し崩し的に妥協案が採用された。


 紅空が捨て猫を拾った子供のようにニコニコと喜んでいるので、とやかく文句を言うのも可哀そうな気がした。


 それに――、


「傷、治してくれたのか?」


 ノラが負っていたケガ。上裸でいることにずっと疑問を抱いていたが、傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。


 ベットの下を見ると、水が入った風呂桶にタオルが浸かっており、どうやら看病してくれていたようだ。まだ怠さは多少残っているが、体調が回復している。


「うん。応急処置だけどね」


「そうか……ありがとな。……助かったよ」


 バツが悪そうに礼を言うと、紅空の大きなタレ目がなくなるくらいに細くなり、ニコッとした優しい表情は、ノラの警戒心を解くほど温かいものだった。


「そろそろ、出て行くよ」


「まだ役所に『除霊届』を提出してないんでしょ。行く当てがあるの?」


「……ないけど」


「じゃあ、ここに居ていいよ」


「いや、流石にそれはマズいだろおぉぉぉぉぉ――!!」


 紅空が動き出した途端、ノラの語尾が豪快に強調された。彼女の行動にドギマギする。


 なぜなら、バサッとスカートが床に落ち、更にシャツまで脱ぎ始めていたからだ。


「突然どうしたんだよ!?」


 腕で目を隠すノラを余所に、淡々と脱ぐ紅空。下着越しからでも明瞭な表情を見せるお椀型の胸と、引き締まったくびれが作るすらりとした曲線美が露わとなる。


「どうしたって。私も雨で濡れちゃったし、お風呂入らなきゃ風邪引いちゃうからさ」


「なら洗面所で脱げよ!」


「あーそういうことか。いつもだし、特に気にしなかった。てか、リアクションがうぶだね。欲情したの?」


 紅空は下着姿のままで、あざとさを孕む表情を見せながら、テーブルに置いてあったモヤシのパックを手に取った。


「欲望もカロリーも控えめ。人類皆モヤシだと考えなよ。私から見たら、男の人なんてこのモヤシみたいに全て同じにしか見えないし。平常心平常心。ビークールだよ」


「いいから早く風呂入ってくれ、モヤシっ娘」


 扇情的なくびれラインに手を当てて、モヤシ袋を前に掲げる姿は、例えるならモデルウォーキングでのポージングに近いだろうか。そのふてぶてしさからは、全く恥じらいを感じない。


 しかも、よく見るとブラジャーは青の水玉模様が入った白だが、パンツは薄紅色で明らかに組み合わせがバラバラ。紛うことなき女子力が破綻している。


「ん、ちょっと待て。二人って言ってたけど、他にも誰か居るのか?」


「そこの水槽にいるよ」


 部屋の隅に置かれた水槽。小型のアロワナぐらいは飼育できそうな、そこそこの大きさだ。


 薄ピンク色の小さな生物が、側面からこちらを覗いている。


「……何が居るんだ?」


「ウーパールーパーだよ。名前はルウさん」


 ビーズのような真黒な眼球。体色よりも鮮明なピンクに色付く珊瑚みたいなヒレ。緩みきった半開きの口。


 紅空が水槽の前にしゃがみ込むと、ウパルパの円らな瞳と交わった。ウパルパのちょこんと前に出た短い手は、鎮座する将軍に頭を下げる家臣の姿を彷彿とさせる。


 そして、将軍はまだ下着姿だ。


「エヘヘ」


 睨めっこの数秒後、紅空がにへらと笑う。とろんとろんだ。


「うっ」


 滅多にない女子高生とウパルパのコラボを目の当たりして、ノラは普通にドン引きしていた。


 ……ウーパールーパーを人単位でカウントするとか。この女、大丈夫か? 最近の女子高生は、全員ミステリアス志向なのか?


 詰まる所、道端を彷徨う浮遊霊は、変な女子高生に拾われたのだった。

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