第2話 彷徨う浮遊霊

 男が初めてこの世界に降り立ったのは、三日前の正午だった。


 都市部にある街中。信号機の音が鳴り響くと、多くの人々が交差点を渡っていた。その角に佇むのは、築三十年は経っているだろう古い建物。繁華街の中心に位置する雑居ビルの屋上で、突如その男は現れた。


「なんだこれ……夢じゃないよな」


 ガヤガヤと広がる都会の喧騒で目が覚めると、その場で放心して立ち尽くす。


 屋上から眺める地上の景色には、建物、道路、歩道橋、そして各所に置かれた銅像やモニュメント。全てが神秘的なぐらい純白に彩られていた。

 まるでギリシャのサントリーニ島のような景観であり、かなり幻想的だ。


 上空を多数飛んでいるのは、多種多様な形状の飛行体。鳥や虫のような形をしており、メタリックのボディーが陽光を反射している。


「初めて見る景観だけど……ここは日本なのか?」


 男はしばらく逡巡した後、ビルを降りて地上を探索する。


 人々が話している言葉は間違いなく日本語だったのでホッとしたが、変哲もない日常を過ごすその姿を見ていると、一人だけ取り残されている気分になった。


 現状を整理するため、ポケットの中をまさぐるが、財布や携帯など常時身につけていそうな物はない。唯一の所持品は上着のポケットにあった。


「うわっ! 気持ち悪っ……」


 掴んだ時の感触では、札束ではないかと一瞬期待してしまったが、実際は奇怪な文字で書かれた御札、数十枚セット。身の毛がよだつアイテムに吃驚するのは当然。一種のホラーである。


 事にあたり、歩道に御札がバラ撒かれるという恥ずかしい醜態。顔を赤くして回収していると、ランチ終わりのOL軍団が拾うのを手伝ってくれた。何たる不覚だろうか。


 視界に入ったのは、臀部のセレモニー。しゃがみ込んで生じたパツパツに張ったタイトスカートにより、さらに男の顔は紅潮した。如何せん目のやり場に困る。


 しかしそれ以上に、御札を拾う彼女達は終始、危険物に触れるような手つきをしていたので、顔から火が出そうだった。そこに関しては何も問われない。他者の胸中を推し量れるのが、オフィスレディーの嗜みだ。


「これで全部だと思います。大丈夫でしたか?」


「はい、ご迷惑をお掛けしてすみません。本当にありがとうございました」


 一人の女性が親切に言葉をかけてくれたので、ペコペコと頭を下げる男。


「いえいえ。何か未練があるようでしたら、カウンセリングを受けた方がいいですよ。ちゃんと成仏なさって下さいね」


 満面な営業スマイルで謎のアドバイスを告げると、OL軍団は去って行った。その場に残ったのは仄かな香水の匂いとクエッションマーク。


「カウンセリング……俺ってそんなに悩んでいるように見えるのかな。しかし、成仏って失礼だよな」


 直後、男の顔が歪む。


 何気なく選んだ一人称に違和感を覚えたからだ。


 途轍もなく嫌な予感が脳裏を掠め、急に鼓動が激しくなる。それは動揺が生まれる程の由々しき事態だった。絶対にあるべき持ち物が足りていないのだ。


 成り行きで発見したコンビニに駆け込むと、すぐに新聞紙を手に取る。


『円暦95年(光明12年)9月10日――』

 

 新聞の見出しに記載された日付。見たことも聞いたこともない暦と元号。そもそも自身が持つ見聞では判断しかねる。店員に正気を疑われないよう、必死に震える手を抑えた。


 しばらくフリーズすると、体は自然とトイレへ向かっていた。一回大きく深呼吸をして、恐る恐ると鏡に自身の姿を宿す。傍から見れば、ナルシストではないかと思われるほど、じっと睨めっこをすること数分。


 ――いやいや、冗談だろ……誰だよ、コイツ。


 本来あるべき持ち物――名前、顔、年齢、住所、職業、そして思い出もろもろの記憶が、男の空虚な脳内には存在しなかった。つまり、鏡に映るのは初対面の未知なる人物。


「そ、そうだ、ポジティブに考えよう。き、記憶がないのはきっと一過性のものだ、しばらくすれば元に戻るでしょ。あの屋上に居たのも理由があるんだ、うん」


 動揺する精神を安定させる薬、それは事をポジティブに正当化する自己防衛本能である。

 きっと大丈夫だ、と初めて見る自分の顔に納得の首肯をしている姿は、さながら親鳥が雛にする刷り込みのようなもの。


 今はただ不安を抑えるため、全く知らない自分を信じることしかできない。




⚀ ⚁ ⚂ ⚃ ⚄ ⚅




 同日、某交番前。

 不可解な出来事は、立て続けに発生した。


「えーっと……もう一度お願いしていいですか。今なんて言いました?」


「だから、データベースを照会しなくても、貴方は行方不明者ではありませんよ。霊なのですからね。捜索願も提出されているわけがないです」


 交番の若い警官に何度も事情を説明しても、返ってくるのは素っ頓狂な答えである。男は狐につままれたような顔でぽかんとしているが、このポリスメンの頭は大丈夫か? と心の内ではディスっていた。


「最近のお巡りさんって、ジョークを挟む教育でも受けてるんですかね?」


「……《霊観念措置法メビウスの理》の死後カリキュラムをお忘れになったのですか?」


「死後カリキュラム?」


 全く覚えがない単語に顔を顰める男。

 一方、警官は逆に愚弄されているのではないか、という具合でしぶしぶ説明を始める。


「死後、現世に戻ってきた場合は役所に『除霊届』を提出する決まりです。そこから各所の機関で、現世滞在中の諸注意と浄土学習、カウンセリング、メンタルコーデ、そして全てのカリキュラムを終えて、十日間の待機期間内で『魂の浄化』に入ります」


「…………?」


 正気の沙汰とは思えないが、警官が真剣な表情で説明するので、男はたじろいでしまった。公務中に市民を騙すなど、冗談のレベルで済まされる話ではない。


 男が怪訝な顔で俯いていると、警官は胡乱げにこちらを窺う。


「ちなみに『除霊届』を提出せず、浄化放棄していると強制執行の対象になりますので、気をつけて下さい。……顔色が悪いようですが、大丈夫ですか? 一番近い役所まで案内しましょうか?」


「い、いえ……結構です。一つ尋ねていいですか……?」


「遠慮せずにどうぞ」


「どうして俺が霊だと分かるんですか?」


 若い警官は交番内にいた先輩に一言声をかけると、そのまますぐ目の前まで歩き出した。それに従う運びで、日当たり良好な場所までいざなわれる。


「太陽に手をかざしてください」


 男は疑心暗鬼のまま、警官に言われた通りに手をかざす。その時、ふと童謡を思い出した。手のひらを太陽にすかせてみれば……


「――な、なんだよこれ!?」


 ……手は真っ赤に見えなかった。


 男の手は透けていた。塵や埃が光で見えるように透けていた。

 透過した手は太陽を遮断せず、視界が眩しい光線に支配されたので、意図せず目を瞑ってしまった。


「やっぱり正常とは思えませんね。今、警備ドローンを呼ぶので役所まで案内させますよ。早めにカウンセリングを施した方がいい」


 警官の言葉もそうだが、理解しがたい現状に動揺したせいで、体が震える。全てが怖くなり、男はその場から逃げ出した。


 背中から聞こえる警官の声を無視し、ひたすら逃げる男。交番から大分離れても、なお走り続けた。


 とにかく走れば、おかしな夢から覚めるかもしれない、と現実逃避したのだ。当然、目を背けながら走ったら、


「「――――痛ッ」」


 人と接触する。


 ドン、という鈍い音と共に男は地面に尻もちをつくと、ぶつかった相手も目の前で尻もちをついていた。


 大きめの赤いリボンを胸に飾ったセーラー服姿の少女。


 リボンで隠しきれない胸が弾むように揺れている余韻は、その豊満さを雄弁に語っていた。転んだ拍子にスカートの裾が太もも辺りまで捲りあがり、綺麗な柔肌に収まった白い下着が露わになっている。


「イテテテッ。反射で回避できるレベルだったのですが……油断していました。ふと比喩るなら、宿泊先のホテルに置かれてたのが、リンスインシャンプーだった時ぐらい残念です」


 約五秒間のがん見。神様がくれた眼福を味わっていたが、少女の顔がこちらに向くと同時に、男の視線は左右に泳いだ。


「街角を全力で走ったら危ないよな……本当にごめんね。ケガはないかな?」


 そして、紳士然とした立ち振る舞いぶり。男は少女に手を差し出す。


「いえ、お構いなく。支障はありませんので。それに少し考え事をしていたこちらに非がありますから、股座を凝視してた件は特に咎めません」


「うっ……本当にすみませんでしたっ!」


 おたおたする男の手を掴まず、静謐な雰囲気を纏った少女は、すっと起き上がるとスカートを払った。


 前下がりのショートカットで髪色は青藍せいらん。少し丸みを帯びた輪郭は優しい印象を感じさせるが、長い睫毛に縁取られた大きなツリ目と茜色の瞳は、誰も寄せ付けないぐらいの迫力がある。


 出る所は出て、引っ込むところは引っ込んでいる。スタイル抜群でかなり可愛い。セーラー服からして、女子高生なのは間違いなさそうだが。


「あっ、これ君のだよね?」


 セーラー少女が落とした竹刀袋を男は拾う。中身は竹刀だと思うが、予想したよりも重さがあった。


「どうも、ありがとうございます」


「こちらこそ、本当にごめんね。――実はちょっと急いでるんだ。それじゃあね」


 男が手を振ってその場を離れると、少女は頭を下げ、憂わしげな目をこちらに向けていた。定かではないが、それがこの世界の霊に対する一つの礼儀なのかもしれない。


 ――俺は本当に霊なのか?


 少女と衝突し、生身の肉体に痛みを感じたことで、少し冷静さを取り戻しつつあった。


 今は情報を集めて、今後の行動をとった方がいい。とりあえずスタート地点に戻ろう、と男は考えて一目散に屋上を目指した。


 その途中――、


 少女の横を通り抜ける際に聞こえた言葉が、男の脳裏からずっと離れなかった。


『お一人なら、周囲に気を付けてください。ご武運をお祈りします』

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