第4話 常世に送る者
「!! 一体、どうなってるんだよ……」
思わぬ事態に気が動転する男。その表情は恐怖と驚愕が相まって、目玉が零れ落ちそうなぐらい目を見開いていた。
それもその筈。先程まで目前にいた幼気な少女の姿は、白髪の老婆に変わっていたのだ。
しかも、あらゆる皺を覆い隠すために施された白塗りの厚化粧は、万人がクソババアと呼ぶのに相応しい容姿を作り出していた。
その場で驚いているのは男だけではなかった。
「ちくしょう……まるで目で追えなかった。何て速さなんだい」
老婆も千雨の常人離れした動きに怖気づき、額に脂汗をかきながら三下っぽい台詞を吐いていた。
「これが、この者の正体です」
一方、
「巷で流行っている《
さらに、千雨は淡々とした口調で続ける。
「まあ、事は単純な話ではないかもしれません。そうですね?
「――ッ」
刀身を横に構えながら距離を詰める千雨は、逃走経路を塞ぐように老婆を壁側に追い込み、相対する老婆はその気迫に押されてじりじりと後ずさりする。
そして、それを傍観している男はもはや言葉も出ない。
男は複雑な心境を珍妙な妄想で置き換えていた。
羅生門の中で、死体の髪を毟っているのは幼い少女だが、奥に顔を向けているその少女は、よく見ると実は顎がしゃくれた老婆に見える有名なダマシ絵だった。
もはや、色々と混同、混乱しており、状況の整理が追いついていない。
そんな三者三様の状況。
「フッフッフ。いくら素早くても、触れてしまえばワタシの勝ちだよ。初撃で致命傷を与えなかったことを後悔するんだね」
老婆が口を開くと、体の周りに闇の
「触れた対象に快楽を与える『
茜色の瞳が一際鋭い光を放つと、千雨の体の周りに光の
「
流れるような軌道変化の後、横から振り抜いた一閃が老婆の腕を斬り落とす。
「ギャァアアアアアア――――」
叫びながらも、一矢報いるために千雨に追撃を図る老婆だが、残された片腕も千雨の斬撃で呆気なく斬られ、地面に落ちた両腕は霧散して消えた。
老婆の断末魔が絶えず、歓楽街に響き渡る。その甲高い声とは裏腹に、切り口からは血が吹き出していないのが、唯一の救いだった。
「た、た、助けてくれぇぇ。本当にワタシは何も知らないんだよ」
「情報では、
「本当だ、こんな状況で嘘などつけるものかっ!」
尻もちをつく老婆に、切っ先を突きつけながら尋問する千雨は、表情一つ変えずに凛としている。
「お願いだよ。ワタシはクライアントに頼まれただけだよ」
「クライアントはいたんですね?」
「――ッ」
「なんて名前ですか? 特徴は?」
「……名前は知らされていない。特徴は紫色の髪でレザーのジャケットを着た大男。肌はかなり色黒だよ」
「それで依頼内容は?」
「……浮遊霊、百人を隠密に確保してほしい、と」
老婆が戦意喪失していると判断したのか、千雨は刀を鞘に納める。洗練された納刀の動きから、長い年月に渡って刀を振り続けた達人なのだろう、と男は思った。
「この人で何人目なのですか?」
「……七十九人目、です」
「大分多いですね……情状酌量の余地なし」
「――頼むぅ、最後に抱きたい、抱かれたい! 男を抱かせてくれぇぇ!!」
「……さらに手付けまで。余地なしですね」
なぜか老婆の懇願に対して、今まで変化がなかった千雨は堅い表情を崩した。恥じらう乙女という感じで、顔が薄ら赤くなっている。
「頼むよ、一回だけでいいから! その男で欲望を解放させてくれ!!」
身の毛がよだつ一言で、男は鳥肌が立つと同時に股間に手を当てる。危うく老婆の性奴隷にされるところだったと、この数日間で一番ホッとした次第だ。
「ふと比喩るなら、ラブホテル前の男女の攻防といったところですか。ただただ不快なので、即刻に除霊します」
「イヤダァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
千雨は栞ぐらいの大きさの紙を取り出すと、紙の先端を口に咥えた。その瞬間、白紙に文字が浮き上がる。
「――除霊式『
持ち手を前方に放つと紙が消えて、空中に文字の帯が展開された。
その帯が老婆の体を輪に囲むと、光の円が作り出される。円は空中へ昇り、老婆は霧散しながら
男は空に上がる泡沫を茫然と見ている状態。
その横で、千雨は空中に八の字を切ると、目を瞑りながら胸に掌を当てた。
「冥府への福音とメビウスの導きがあらんことを……」
祈りを終えて瞼が開くと、その表情は慈悲深さを宿していた。瞳に映る光は、どこか暖かくもあり、どこか冷たくもある感じがした。
「君は一体……何者なんだ?」
まずはお礼をするべきである、と男は頭の中で考えていたが、秘めていた率直な疑問が自然と言葉に出てしまった。
空を見上げる少女の耳に男の弱弱しい声が伝う。それを受けた千雨の眉がピクリと動く。
「浮世離れした風儀の中で、私が話せることには限りがあります。そうですね……何者と問われるならば、『
「常世に送る者?」
男は疑問符を浮かべながら、千雨の瞳をじっと見つめる。千雨は一回視線を外すと、咳払いをして話を続けた。
「
懇切丁寧に説明をしてくれているが、男はさっぱり理解できない。ここ最近のホットワードである『霊』も含め、これは世間一般的な話なのだろうか。
「つまり、お祓いのスペシャリスト的な感じ……なのかな? 俗にいうエクソシストみたいな」
「はい、祓魔師よりは除霊師が近いですかね。一家全員がそれです。後、特筆すべき点があるとすれば――」
千雨は一拍置きながら、したり顔になると、
「一家全員、温泉ソムリエの資格を保有しています」
「……その補足はいらないかなぁ」
せっかくの追加情報を男がバッサリと切ったので、肩透かしを食った千雨は空咳を入れて、真顔に戻った。
「じゃあ、さっきの婆さんも霊なのか?」
「霊ではありますが、少しニュアンスが異なります。あれは『
「さらっと恐ろしいこと言ったな……事のヤバさは、婆さんの執念と渇望から、バリバリと伝わったわ。君には感謝しきれないよ、ありがとう」
危うく、数少ない思い出のファイルにクソババアとのピロートークが保存されるところだった。男がしたお辞儀の深さが、まさに感謝の大きさを象徴している。
「いえいえ、ご卒業を守れて何よりです」
「うん、んっ? ご卒業?」
「ところで腕から血が流れていますが、痛みますか? ナイフで刺されたようですが」
「かなり痛い……かな」
幻の少女と出会ってからというもの、ずっと不思議な感覚に侵されていたので、途中まで全く痛みを感じなかったが、今は刺傷箇所が熱を帯びたようにズキズキとしている。早めに治療した方がいいが。
「大丈夫ですよ」
苦悶の表情を浮かべる男に千雨はそう告げる。
もしかしたら、先刻に見せた妙技のように傷を治す方法があると思うと、自然と男の未来は明るくなった。おんぶに抱っこ状態ではあるが、今はこの少女の力を頼りたい。
「治す方法があるの?」
男が質問をした時には、誰もいなかった歓楽街に人が現れ始めていた。その様子を首を傾げつつ、キョロキョロと見渡す男。
「残念ながら治癒術は持ち合わせていません。だけど、それも必要ないことです――」
千雨の声に反応してそちらを向くと、彼女は先程使用していた栞ぐらいの紙を指に挟んでいた。
「今から除霊の儀を行います。安心してください、常世に送る際は痛みも感じませんので」
茜色の瞳が獲物を拿捕するかの如く鋭い眼光を放ったので、男は反射的に一歩後退した。
その顔は先刻見せたのと同様、使命を重んじるような覚悟に満ちた表情だった。
少し離れた場所から人々の喧騒を感じたが、男の感覚はすぐに震えるほどの危機感で一杯になった。
千雨の肩から下がる刀袋の位置が少しズレると、ショートカットが静かに揺れる。
その頭上の遥か遠くに広がる曇り空から、雷鳴が轟いていた。
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