第10話 消えた王子

 王宮の執務室では、ドゥンが膨大な仕事に追われていた。大臣たちと円卓を囲み、口が渇くまで話し合う。右往左往する意見に耳を傾け、最後に公文書にサインする。

 ドゥンは椅子の背もたれに体を預け、背筋を伸ばした。

「お疲れのようですな、陛下」

 ドゥンの様子を見た国務大臣が、お茶を差し出した。その声には、親戚の叔父みたいな安心感がある。

「ありがとう大臣、緊張して喉がカラカラだったんだ」

 ドゥンは肩をすくめると、他の大臣たちにも休むように促した。こうでもしなければ、年季の入った官職たちは、永遠と議会を開き続けてしまう。へとへとだったドゥンは、ようやく休憩を取ることができて安堵した。


 しかし、安寧もつかの間。髪が薄くなりつつある大臣たちは、若いドゥンの私生活に興味が尽きないようだった。

「陛下、ニジェン様と結婚されて、もう半年になりますな。ユープーの女性とは上手くやれていますか」

「まだそんなに日が浅かったか? ニジェンとは、もう何年も一緒にいるような気持ちになるよ」

 ドゥンが笑うと、大臣たちは思わず舌を巻いた。ドゥンの言い回しは、言葉数が少なくても実情が伺える、完璧な答えだったのだ。

 しかし、財務大臣がその和やかな壁を壊した。

「もう半年経つのですから、そろそろお子ができてもおかしくないですなぁ」

 他の大臣たちは、腫れ物に触るように財務大臣を睨みつけたが、ドゥンだけは表情を変えずに笑ってみせた。

「こればかりは、神のみぞ知る所業。我らではどうにもならないよ」

「陛下はあまり真剣にお考えではないようですな。ですが、これは国家の秩序を守る上で非常に重要な問題ですぞ。王の後継がいれば、国も自ずと安定するものです」

「財務大臣、もうその話は終いにしましょう」

 食い下がらない財務大臣に、国務大臣が横槍を入れて、ようやく話は収束した。

 ドゥンは肩をすくめて微笑んだが、腹の底は、冷や汗でびっしょりになっていた。そもそも、男であるニジェンとの間に、子供なんて出来るはずがない。こんな話題をチクチクと繰り返されたら、たまったものではなかった。


 ドゥンは、内心を滲ませないように、他の大臣たちに笑顔を向けた。

「さて、日暮れまでに残りの仕事を片付けようか」

 ところが、ドゥンの言葉を遮るように、執務室の扉がバタンと開かれた。大臣たちは一斉に振り返り、ドゥンは思わず言葉を失った。

 ダオウ上皇が、ゆったりとした足取りで現れたのだ。

 すると、大臣たちは一斉に立ち上がり、頭を下げた。王位から退いたとはいえ、上皇は未だ国の権力を牛耳っている。その現実が、目の前に広がった。

 ドゥンの口が、キュッと歪んだ。

「父上、今は国の運営に関わる協議中です。急に入ってこられては困ります」

「わしも、この国に関わる大事な問題について話に来たのだ。ちょうどいいから大臣達みんなにも聞いてもらおう」

 ダオウ上皇は、鋭い目で懐柔するように大臣達を見渡すと、自分はドゥンと向き合うように腰掛けた。それが合図のように、大臣たちも席に座り直したではないか。すっかり、上皇のペースに飲まれている。ドゥンは固唾を呑んで、父の出方を伺った。

「ドゥンよ、先日の不幸な事故は、災難だったな。ユープーの妻は泣いておらんか?」

「ニジェンは強い人間です。使命感と正義感に溢れ、わたしとともに、平和の架け橋になろうと一生懸命です」

 ドゥンの答えは、嘘偽りのない真実だった。もちろん、ニジェンの正体が男だとは口が裂けても言えない。だが、彼はドゥンにとって、共に平和を築こうとする同士に違いなかった。

 ダオウ上皇は、ドゥンの返事に不服そうに口を曲げた。

「ならば、ニジェンから聞いているのではないか?」

「何をです?」

「聞いていないのか」

 ダオウ上皇は、指に絡めるようにあご髭を撫で、舐めるようにドゥンの顔を見た。

「実はな、わしの信頼する家臣が、密かにユープー国に入っている。そこから入手した情報によると、ユープー国王の末弟が、ニジェンの嫁入り前から行方不明らしい」

 ダオウ上皇が告げた途端、ドゥンの腹の裏側が、ぎゅうっと抓られたように痛みだした。それでも涼しい顔を続けるドゥンに、ダオウ上皇は、挑むように言葉を続けた。

「ユープー国王の末弟といえば、ニジェンの弟でもあるだろう。ニジェンが知らぬはずないのに、お前に何も打ち明けていないのか」

 ダオウ上皇の言葉が、振り下ろされた斧のようにドゥンを叩いた。ドゥンは、やっとの思いで首を振ると、慎重に答えた。

「問題ごとを夫婦間に持ち込みたくなかったのでしょう。折を見て、私から彼女に聞いてみます」

 ドゥンはそう告げると、椅子から立ち上がった。大臣達が心配そうに目線を送るのを、ドゥンは笑顔で頷いて受け流した。

「妻が心配になったので、今日はもう戻らせてもらう。残りの話し合いは明日にもちこそう」

 本当は、ドゥンは恐れていた。一刻も早く、ダオウ上皇の前から離れたくて、息を止めながら足を進めたほどだ。そのせいで、ドゥンは執務室を出て行こうとした瞬間、向かい合わせに衛兵とぶつかってしまった。

「ああサザ、すまなかった、大丈夫か」

「陛下こそ、お怪我はありませんか?」

 ダオウ上皇の腹心の部下サザが、よろけたドゥンを支えるように、しっかり肩を抑えていた。サザの白い前髪が崩れていたが、ドゥンは転ばずに済んだ。

「お前のおかげで大丈夫だ、ありがとう」

 ドゥンはそう言い残すと、サザの腕に手を添えてから、歩き出した。


 サザは遠ざかるドゥンを目で追っていたが、その横へ、ダオウ上皇が静かに並んでいた。

「やつは、まだ尻が青いな」

「ドゥン様が、ニジェンの秘密を隠していると?」

 サザが尋ねると、ダオウ上皇は微笑んだ。

他人ひとの秘密を暴くほど、愉快な娯楽はないぞ」

 静かな物言いだったが、サザの背に悪寒が走るほど、ダオウ上皇の目つきは怪しく光っていた。



 蓮華宮に駆け戻ったドゥンは、なだれ込むように部屋に入り、厳重に戸締りを確認して回った。喧しい騒音でいっぱいになると、痺れを切らしたニジェンが寝室から顔を覗かせた。

「いったいどうした。鬼にでも会ったか?」

 茶化しをいれてたニジェンだが、ドゥンが執務室での一件を聞かせた途端に、青筋を浮かべて息巻いた。

「ユープーに、密偵だと? そんな勝手な振る舞いは協定違反だ!」

「わかっている。わたしなら絶対にやらない。だが父上は、バンサとユープーの同盟なんて無下にしてもいいと考えている。今回の件は、上皇が勝手に進めていたんだ」

 ドゥンは興奮するニジェンを宥めると、重いため息を吐いた。

「上皇はユープー王族の身辺を探っている。お前が身分を偽っていることも、そう遠く無いうちに知られてしまうだろう。早く次の手を打たないと」

「次の手って……、これ以上何があるんだよ」

 ニジェンは苦々しく呟くと、崩れるように椅子に腰を沈めた。そもそも、自分が女のフリをして嫁いできたことも、あくまで友好条約が撤回される事態を、一時的に回避させるための苦肉の策だった。こんなに長く、皇后のフリをするなんて思っていなかったのだ。

 頭を抱えたニジェンを、ドゥンが疲れきった目で見た。

「ユープー国王から、密書など届いてはいないか?」

「あるわけないだろう。祖国でもこのことを知っているのは、国王と一部の家臣だけだ。しかも、おれがあらぬ疑いをかけられぬようにと、交信はかなり制限されている」

 ニジェンは、椅子に体を投げ出して呻いた。

 


 二人の間に、重い沈黙がのしかかった。ドゥンは、黙ったまま立ち上がると、自室の奥へ消えてしまった。

 残されたニジェンは、蓮華宮の天井を見上げた。立派な屋敷だが、初めて踏み入れたときから、ここはずっと牢獄だ。

 そのとき、控えめなノックがニジェンの耳に届いた。ニジェンは反射的に身を強張らせたが、すがるような思いで扉に駆け寄ると、そっと鍵を開けた。

 そこには、包帯だらけのコチュンが立っていた。

「団子、今夜は早く休めって言っただろう」

 ニジェンは語気を荒げながらも、急いでコチュンを招き入れた。冷たい夜風に当たったせいで、コチュンの顔色は真っ青だ。ニジェンは、自分の上着を脱ぐと、コチュンの肩に引っ掛けて、椅子に促した。

「どうしてこんな時間に蓮華宮に来たんだ。衛兵に止められなかったのか?」

「いつもこの時間に呼びつけられていたので。誰にも何も不審がられませんでしたよ」

 コチュンの声色は非難めいていて、ニジェンはギクリと顔を引きつらせた。

 コチュンはニジェンの手を取ると、声を震わせながら告げた。

「急いで伝えたい事があってきたんです。オリガ様に」

 不意に本名で呼ばれて、ニジェンは目を丸くし、頬を赤らめた。

「無理して、その名で呼ばなくていい。特に今は、おれの身辺を探っている連中がいるらしいから」

「……王宮の関係者ですか?」

 コチュンが眉を寄せて尋ねると、ニジェンは顔を曇らせて頷いた。

 二人が言葉を探すように口を閉じると、タイミングを計ったかのように、ドゥンが自室から出てきた。ドゥンは咳払いをして、手を取り合っているコチュンとニジェンに視線を送った。

「秘密を分かち合う者は、絆が強まるというのは本当だな」

 コチュンとニジェンは、パッと手を離し、気まずそうに目線をそらせた。だが、ドゥンはそんな雰囲気を味わう余裕もなく、二人の前に腰を下ろした。

「急な知らせとはなんだ、団子」

「先日の闘技場での事故は、王宮内の人間が引き起こしたんじゃないかと、思い当たる節があって」

 コチュンの言葉を聞くなり、ニジェンとドゥンは互いに目を合わせた。コチュンは、一息入れてから、二人に告げた。

「王宮の衛兵が、闘技場に観客として入っていました。でも、その衛兵は牛を見にきた感じではなくて……」

「確証はないが、団子は怪しいと感じたんだな?」

 自信なさげに俯いたコチュンを、ニジェンが励ますように言葉を繋げた。コチュンは頷き、今度はドゥンを見た。

「その衛兵は、上皇様付き衛兵隊の紋章をつけていました。とても大きな男の人で、前髪に白い毛が混じっていました」

 コチュンが説明した途端、ドゥンの顔色がサっと変わった。コチュンの並べた特徴に、心当たりがあったのだ。

「その男は、おそらく王宮衛兵隊の隊長、サザだ」

 上皇の一番の腹心が、あの場所にいたとは。確証はなくても、誰があの事故を作り出したのか、三人は同時に悟ってしまったのだ。

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