第17話 雪と沈黙
トギの言った通り、その日の夜には大雪が降り始め、一面を覆う真っ白な原野が広がった。
山間の道はことごとく雪に埋まり、川は凍てつく。
コチュンの故郷は、そんな
オリガは暖かい布団の中から、結露で白くなった窓を見上げた。ここは、コチュンの生まれ育った里。安心して療養するようにと、小さな女中に言われていた。オリガは幼子のように、言いつけを守ってまどろんでいた。
そのとき、硬い足音が、部屋の床を叩いた。
「目が覚めたか? あんた、三日もぶっ倒れてたんだぞ」
現れたのは、日に焼けた青年だった。
「お前は……トギといったか?」
オリガが伺うと、トギは鼻を鳴らして不満を表した。
「皇后の野郎様に覚えていただけるとは、
トギの声には、隠すつもりのない軽蔑が出ている。オリガの額に、青筋が浮かんだ。
「貴様、喧嘩を売りにきたのか」
「病人と喧嘩したってしかたねえだろ。偽装結婚なんてせこい真似しないで、正々堂々、話し合いに来れば良かったのに。あげくに投獄までされて、情けないったらねえよ」
オリガはトギを睨んだ。しかし、それ以上の反撃は出来ない。全身が気怠く、ひどい吐き気がしている。体が随分と弱っているのだ。
トギは見透かしたように、扉の縁に寄りかかって余裕を見せた。
「コチュンが優しい子で命拾いしたな。あんたがコチュンの知り合いじゃなかったら、王宮に突き出しているところだぜ」
「わたしの女中はどこだ?」
「皇后のフリはもう辞めとけよ。コチュンはお前なんかの女中じゃない」
トギは吐き捨てるように告げた。
「お前のせいで、コチュンの人生が一変した。あいつの、顔の傷はなんだっ?」
オリガが言葉に詰まると、トギは追い討ちをかけるように捲し立てた。
「お前を庇ったせいで、あんな傷跡が残ったんだろうっ。コチュンはあんたに文句の一つも言わないだろうがな、どれだけ悲しんだか、お前は考えたことあるのかよっ」
トギの荒い息遣いが響いても、オリガは、ずっと口を閉ざしたままだ。トギはオリガを睨みつけた。
「もう、コチュンをあんたたちの揉め事に巻き込まないでくれ」
トギが去ると、急に静けさが戻った。
俯いたままのオリガの耳に、強く降り始めた雪の音だけが、虚しく響いていた。
ネーヴェ村は、雪の布団を被ったように静寂に包まれていた。その中心から少し外れた小高い丘に、コチュンの叔母の家はある。ささやかな家畜小屋を有する、昔ながらの農家だ。
コチュンは、牛たちの身体にブラシをかけ、美しい毛並みを整えてやっていた。
家畜のラムレイ牛は、この地方にしかいない特別な家畜で、夏の間は滑らかな短毛だが、冬になると真綿のような薄灰色の毛並みを持つ。
暖かそうな牛とは打って変わり、コチュンの体は小刻みに震えている。ピンザオ市では、顔の傷跡を気にして顔に包帯をつけていたが、牛の前では包帯を外していた。
牛たちは、コチュンの傷跡よりも、包帯姿の方が怖いらしい。久しぶりに晒した素顔に、故郷の風が冷たく突き刺さるのだ。
堪り兼ねたコチュンが、両手で鼻を覆って立ち上がると、牛小屋の入り口にオリガが佇んでいるのに気がついた。
「オリガ様っ、気がつかれたんですね!」
「世話を、かけたみたいだな」
オリガは気まずそうに頭をかき、わざと目を逸らしながら答えた。痩けた頬に、黄金色の髪がさらりと垂れている。コチュンはブラシを放り出して駆け寄ると、オリガの細い体に抱きついた。
「良かった、心配していたんです。お加減はもうよろしいんですか?」
「お袈裟だぞ、団子」
オリガは頬を真っ赤に染めてコチュンを押し返した。頬紅ではないのに、その色がコチュンの頬にも移っている。二人して、ぎこちなく笑いあった。
「すみません、嬉しくて、つい……」
「珍しい牛を飼っているんだな。ユープーでは見たことがない種類だ」
オリガはコチュンの恥じらう姿に目もくれず、興味津々にラムレイ牛を眺めていた。どうやら彼は、自分ではなく牛に会いにきたようだと、コチュンは感じた。
「この子たちは、この地方原産のラムレイ牛というんです」
コチュンが、牛のことを説明する間、オリガは口を挟まず、ずっと牛と見つめ合っていた。
「牛の毛から服を作る文化があるなんて、思いもしなかった。どんな服が出来るのか見てみたいものだ」
「見てみますか。うちの中にありますよ」
オリガは顔を輝かせ、頷き返した。
コチュンはオリガを母屋に連れて行き、一着の分厚い羽織を見せた。
「これが牛毛を編んで作った服です。この地方の古い言葉で、母牛を表す“ラムチェ”と呼ばれています」
オリガは受け取ったラムチェに袖を通すと、両手を大きく広げて、子どものように笑った。
「暖かいな。それに、驚くほど軽い」
「ラムレイ牛の体毛は、家畜の毛の中で一番軽く、保温性も高いんです。なので防寒具に加工するのに持ってこいなんです。だけど、一頭の牛から一着も作れないほど希少なので、街や市場には滅多に並びません」
「だろうな、こんな素晴らしい服は初めて見た。まるでラムレイ牛に抱擁されているみたいだ」
オリガはラムチェの肌触りを堪能するように指をはわせ、編み込まれた模様にも目を止めた。
「この模様も始めてみる。大海原の波にも見えるし、連なる山々にも見える。それともこれは、牛の角を表しているのか? なんと緻密な編み細工だ。これを編み込んだ職人は、さぞ腕のある技師なんだろうな」
オリガが惚れ惚れと語りだすと、コチュンの頬が急に色づいて目が泳ぎ出した。二つのお団子がせわしなく揺れ始めたので、オリガは眉をひそめた。
「どうした、具合でも悪いのか」
「い、いえ……。実は、そのラムチェは、わたしが編んだものなんです」
コチュンは真っ赤な顔を隠すように俯いた。
まさか、オリガがこんなに絶賛してくれるなんて、夢にも思わなかった。コチュンの仕上げたラムチェは、家で着るために作った、ほとんど趣味の作品だったのだ。
だからこそ、正直に白状して「大したものではない」とバレてしまって恥ずかしかったのだ。
ところが、コチュンの心配をよそに、オリガはさらに弾んだ声を響かせた。
「凄いじゃないか! 王宮のお抱え裁縫職人だって、ここまでの作品は作れないぞ!」
「大袈裟ですよオリガ様。ラムチェの柄は家族の家紋みたいなものですし、わたし一人で作ったわけじゃないんです」
「それにしたって、こんな複雑な模様を手編みで作るなんて、すごいぞ。コチュンの手は、魔法の手か?」
オリガの最後の言葉に、それまで謙遜していたコチュンが、思わず吹き出した。
「魔法の手って、オリガ様も、可愛いこと言うんですね」
頬を赤らめ笑うコチュンを、オリガは吸い寄せられるように見ていた。いつのまにか、オリガの頬も赤くなっていた。
「だって、本当にすごいだろう。王宮の女中なんかより、服飾職人になればいいのに」
「それは……」
コチュンは答えを濁し、表情を曇らせた。それが、謙遜や照れ隠しではないと、オリガも気づいた。
二人の間に、奇妙な沈黙が流れたところで、家の奥から物音がした。
「あらコチュン、お友達の具合は良くなったの?」
中年を過ぎたぐらいの女性が、のっそりと部屋に入ってきたのだ。ふっくらした両手で薪を抱え、ラムチェのコートと襟巻きを着けている。それに、コチュンのとそっくりなお団子結びが、頭の上に乗っているではないか。
オリガが思わず声を出すと、女性はにっこりと微笑んだ。
「元気そうでよかったわぁ。こんな狭い家でごめんなさいね。今お食事を作りますからね」
「ヒン叔母さんは座ってて。家にいるときぐらい、わたしが作るから」
コチュンは叔母から薪を受け取ると、流れ作業のようにオリガに言った。
「オリガ様、この人はわたしの叔母です。ヒン叔母さん、この人はオリガさん。ユープー国からのお客さんなの」
コチュンは薪を
「はるばる、ユープー国からようこそ。わたしは、ヒンといいます。今、お食事を用意するから、くつろいで待っていてくださいね」
「もてなしはいらない。むしろ、世話になった礼をさせてくれ」
オリガが慌てて遠慮を示すと、ヒンは愉快そうに笑い出した。
「やめてくださいよ。こんな家によそからお客が来るなんて、コチュンが生まれたとき以来だもの。腕が鳴るわあ」
ヒンは嬉しそうに告げると、牛が草を
賑やかな昼食の後、コチュンはオリガのために、ラムレイ牛の乳を煮詰めてお酒を少し混ぜた、ツツロという飲み物を用意した。二人はラムチェを羽織って牛舎の中に座り、ほろ苦いツツロをチビチビと啜った。
たわいない会話をタラタラ続け、ツツロがだんだんぬるくなっていく。
「オリガ様、さっきわたしに“なんで女中なんかやってるんだ”って聞きましたよね」
コチュンが切り出すと、オリガはどきりとしたように口を閉ざした。二人の視線が思いがけずぶつかり合い、コチュンは目をそらした。
「ヒン叔母さんの足、病気で一本になったんです。だけど、すごく明るくて、元気な叔母さんなんですよ」
取ってつけたようなコチュンの話の末尾に、オリガはそっと微笑んだ。
「うん、コチュンが年取ったらああなるんだろうな、って感じだった」
「よく言われます。でも、やっぱり叔母さんは足が悪いので、牛の世話を満足にできなくて。だから、ずっと村の人にお願いしてるんです。そのお礼や、叔母さんの生活を守るために、わたしがたくさんお金を稼がなきゃいけないんです」
コチュンはツツロを啜って口を潤した。
「裁縫の仕事は賃金が安いし、物が売れなきゃ収入が安定しないし。だから、今のわたしには、女中の仕事が一番向いていたんです。だから、裁縫の仕事はひとまずお預けにして、今は賃金優先だったんですよ」
明るく笑うコチュンの言葉が、無意識に過去形になっていることに、オリガは気づいていた。
自分がついた大嘘に付き合わせたばかりに、コチュンの大切な仕事を奪ったどころか、田舎の暮らしまで脅かす羽目になってしまったのだ。恐る恐るコチュンを振り向いて見れば、小さな女中の顔には、醜い傷跡が残酷な色を浮かばせていた。
「コチュン……おれは……」
オリガはツツロを足元に置いて、抱えた膝の上に突っ伏した。ほろ苦いツツロの味さえ感じないほどに、オリガの腹の底から、後悔と罪悪感が湧き上がっていた。
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