第16話 共犯者の覚悟

 サザに渡された鍵で、重たい牢屋は簡単に開かれた。ところが、オリガがなかなか出てこない。痺れを切らしたコチュンは、明かりのない牢屋に踏み入って驚愕した。

「オリガ様、しっかりして!」

 くたびれた藁の上に、オリガがぐったりと座り込んでいたのだ。げっそり痩せて、氷のように冷え切っている。

 牢屋には、剥き出しの岩肌のほかに寝床の藁しか備えられていなかった。食事をするための台も、排泄をするための設備もない。長い時間を、こんな狭くて不衛生な空間で過ごしたら、病に侵されるのは当然だ。

 彼がここまで酷い扱いを受けたのは、バンサ人ではなく、ユープー人の囚人だからだった。隠しようのない差別意識が、こんな形で浮き彫りになるなんて。コチュンは声を震わせながら、オリガの痩せた頬を撫でた。

「もっと早くオリガ様を助けに来るべきでした。遅くなって、ごめんなさい。すぐにここから出ましょう」

「だめだ、ユープー人の囚人が脱走したら、それこそ戦争の火種になる」

 オリガは細い声で告げると、弱々しい力でコチュンを押し返した。

「おれは、バンサの法律で、どんな刑にも処される覚悟だ。裁きを受けるまで、ここで待つ。お前は、さっさと帰れ」

「何を言ってるんですかっ。今のままじゃ、裁判を待つ前に死んでしまいますよ!」

「なら、それが裁きなんだ。一人の馬鹿なユープー人が死んで終いになるなら、上々だろう」

 オリガは片頬を釣り上げて微笑んだ。笑顔をつくるだけでも辛そうで、すぐに崩れるように項垂れた。

 なんて痛々しいやせ我慢だ。コチュンは、グッと奥歯を噛み締めると、オリガの胸ぐらに掴みかった。

「つけ上がるのも、いい加減にしなさいよ! あなた一人の命で戦争が回避できるなら、こんなややこしい事態になんかなっていないでしょう! 死にかけてまで、バカな冗談言わないでっ」

 雷鳴のように落とされたコチュンの声に、オリガは思わず黙りこくった。それをいいことに、コチュンは無理やりオリガを引っ張り起こすと、自分の肩に担ぎながら牢屋を出た。

「サザさんが言ってたの。あなたが死んだら、バンサとユープーの戦争は回避できなくなるって。なら、ここから出て、もう一度戦争を回避する手段を考えましょう」

「団子、お前わかってるのか。囚人のおれを逃すということは、お前も追われる身になるんだぞ。それでもいいのかっ?」

 オリガの鋭い声に告げられて、コチュンはゆっくりと目線を向けた。

「オリガ様は、皇后の衣装を身にまとったとき、どんな覚悟でしたか? 止めろと言われて、思いとどまりましたか?」

 二人の目線がぶつかると、つかの間の静寂が流れた。沈黙に根負けしたのは、オリガだった。深いため息をつくと、そっと告げた。

「おれは、平和のためなら耐えられると思った」

「わたしも同じです。あなたのためなら、追われる身になってもいい」

 コチュンが言い切ると、オリガは困ったように微笑んだ。

「捕まったら、今のおれのようになるかもしれないぞ」

「それでも、オリガ様を見捨てる後悔より、ずっとマシです」

 コチュンが笑ってみせると、オリガの体にグッと力が入った。弱った体を起き上がらせて、もたれるようにコチュンを抱きしめたのだ。今度はコチュンが言葉を失くし、頬を染めながらオリガの声を聞いた。

「わかった。もう何も言わない。人に言われてどうこうなる覚悟なら、こんなところに来てくれてねえよな」

 オリガはコチュンの体を離すと、弱々しく微笑んだ。

「……ありがとう」



 ところが、地下牢の階段を上りきった二人は、いつもと違う違和感にしわを寄せた。風に乗って焦げた匂いが流れ、雪に混じって黒い煤が降っているのだ。

「オリガ様、あれを見てくださいっ」

 コチュンが空を見上げて悲鳴をあげた。灰色の雪雲を裂くように、真っ黒な煙が立ち昇っていたのだ。

「あの方向は、蓮華宮がある場所だ」

 オリガの呟きに、コチュンも息を飲んだ。しかしオリガは、安心させるように、コチュンに寄りかかった腕に力を入れて囁いた。

「あの煙のおかげで、衛兵の見張りが手薄になっているだろう。今のうちに、王宮を抜け出せる」

「で、でもっ、いったい誰が蓮華宮を燃やしたっていうんですか?」

 コチュンは驚愕して目を丸くしたが、人気のない回廊を、大胆に歩き始めていた。オリガの言う通り、王宮の衛兵たちは消火に向かったはずだ。脱走するには、ちょうどよかった。



 その頃、王宮を囲む堀のど真ん中で、荘厳な屋敷だった蓮華宮は、真っ赤な火を噴いて燃え落ちる寸前だった。絢爛な内装はバキバキと崩れ、色とりどりの衣装や垂れ幕は灰になっていた。

 火の勢いはますます強くなり、蓮華宮にかかるたった一つの橋が、悲鳴をあげて崩れ落ちた。瓦礫が堀に落ち、水飛沫があがる。

 豊富な水と大雪のおかげで、王宮の本殿に被害はでないだろう。しかし、思いがけない事態に、王宮内の人々は泡を食って逃げ出したり、躍起になって消火しようとしたり、右往左往の大混乱に陥っていた。

 そこから少し離れた王宮のテラスで、ドゥンが穏やかな顔で佇んでいた。口には、短くなった煙草が残っている。蓮華宮から昇る黒煙と、吐き出したばかりの煙草の煙が、同じ空に流れていった。

「ドゥン、貴様一体何をしたっ」

 そこへ、空を破るような怒声が飛んできた。顔を真っ赤にした上皇が、血相を抱えて駆け込んできたのだ。ドゥンは煙草を指に持ち替えて、深く息を吐き出した。

「どうされましたか、父上。わたしはただ、夜風に当たりに来ただけです」

「戯言を言うなっ! お前があの離宮に火を放ったんだろうっ」

「……だとしたら、どうです。政略結婚で騙されて、失墜した皇帝がヤケを起こして王宮に火を着けたなんて。歴史に残る汚点になりますね」

「き、貴様……」

 ドゥンの挑むような表情に、上皇は目を剥いてドゥンを殴りつけた。駆けつけた上皇妃は、ドゥンの狂言に白目を剥いて卒倒してしまった。

 集まった衛兵たちがギョッとする間も無く、上皇が声をあげた。

「この馬鹿息子を牢屋にぶち込んでおけっ。今から皇帝の座にはわしが戻るっ」

 倒れたドゥンに、衛兵長のサザがいち早く駆け寄った。ドゥンを拘束する素振りを見せながら、耳元で囁いた。

「火遊びが上手くいきましたね」

「そっちの守備は?」

「さあ、王宮内に異常はありませんが?」

 サザが耳打ちすると、ドゥンは満足そうに微笑んだ。



 コチュンは秘密の抜け道を、オリガを引っ張りながら突き進んだ。小さな通路は、小柄なコチュンには難なく通れる道だったが、細いとはいえ大柄なオリガにとっては、骨を折るような難所だった。屈めた腰を何度もぶつけて、膝にも擦り傷がついた。

 それでも、王宮の敷地の外に出た途端、思わず声が出るほどの開放感に包まれた。

「王宮の外に出られるなんて。輿入れのとき以来だ」

「しっ、声を落として。城壁の周りにも衛兵が巡回してるんですよ」

 コチュンは雑木林を足早に抜け、周りを警戒しながら慎重に進み出した。城壁を囲むように、ピンザオ市民たちが集まり出していた。どうやら、蓮華宮から昇った黒煙が市内にまで広がっているらしい。隔絶された王宮の異常事態に、野次馬が集まっていたのだ。

「これなら、逃げきれるかも。オリガ様、あの群衆の中に混じりましょう」

 コチュンはオリガの細い手を取ると、茂みを飛び出して走り出した。

 ところがそのとき、群衆の方から鋭い声が降ってきた。野次馬たちを抑えるために、衛兵たちが巡回に来ていたのだ。

「お前たち止まれっ!」

 衛兵たちが、天敵を見つけた蜂のように集まってきた。コチュンは咄嗟にオリガを庇おうとしたが、オリガの長い腕に押さえつけられ、反対に庇われてしまった。

「団子おれはいいっ、お前だけ走って逃げろ!」

「出来ませんっ、一緒に逃げましょう!」

 コチュンはオリガを支えて逃げようとしたが、重くて思うように動けない。こうしている間にも、衛兵たちがどんどん近づいてくる。群衆たちの驚嘆の声、衛兵の息遣いまでが耳を刺すように届き始めた。

 だが、そのすべての雑音を蹴散らすように、力強い馬の蹄と車輪の音が突っ込んできた。

 二頭の馬に引っ張られた小型の馬車が、コチュンたちと衛兵の間に滑りこむように駆け込んできたのだ。

 馬車の上から、トギが真っ青な顔をして叫んだ。

「乗れっ、コチュン!」

 コチュンはハっと息を飲むと、面食らって硬直しているオリガの尻を叩いた。

「早く乗って!」

 コチュンは押し込むようにオリガを馬車の上に乗せると、自分も転がり込んだ。

 その途端、トギが馬に鞭を入れた。二頭の馬たちは雪を蹴り、勢い良く走り出した。荷台の中でコチュンとオリガは姿勢を崩して転がったが、トギは手加減などせずに馬車を走らせ続けた。

「トギっ、追手が来るよ!」

 頭をあげたコチュンの目に、馬に跨った衛兵たちが見えた。だが、トギは振り返ろうともせずに、言い返した。

「坊っちゃん育ちの王宮馬なんかに、馬車引きで鍛えた馬が雪道で負けるわけねーだろ!」

 トギの自信を裏付けるように、馬車はどんどん加速していき、王宮の馬たちを簡単に引き離して行った。

「コチュン、ピンザオ市を出たら雪道の曲がり道が続く。荷台の荷物を右に寄せろ!」

 トギの指示が飛んできるや否や、コチュンは揺れる荷台の上を器用に動き回り、荷台の荷物をすべて寄せた。

 すると、馬たちが走る道が大きく左に曲がり始めた。馬車は恐ろしいほどのスピードで走り続けている。衛兵たちは二の足を踏むか、曲がりきれずに落馬してしまったようだ。

 しかし馬車の勢いは止まることを知らず、コチュンとオリガは悲鳴をあげて倒れてしまった。トギだけが、高らかに笑いだした。

「この技ができるのは、おれだけなんだぜっ、どーだ思い知ったか!」

「トギってば、いつもこんな風に馬車を走らせてるのっ?」

 コチュンが悲鳴のように文句を言うと、トギは道の曲線を睨みながら答えた。

「馬鹿っ! どんな理由があるか知らねえけど、衛兵に追われてるお前を見て、いてもたってもいられなかったんだよ!」

 振り返ったトギの顔は、血の気がひいて冷や汗が滝のように流れていた。

「ご、ごめん……」

「別にいい。どうせ大雪が降ったら、山道は塞がっちまう。都落ちにはもってこいの日和だ」

 トギはやっと落ち着いた声で、荷台の二人を振り返った。

「ところで、そいつは誰だよ」

 トギは訝しげにオリガを睨んだ。まるで浮浪者のような風貌に、病人らしい目の下のくま。一緒にいて大丈夫なのかと案じているのだ。

 コチュンはオリガを守るように寄り添い、緊張した声で答えた。

「この人は、ニジェン皇后様だった人なの」

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