第15話 救世主は新米女中

 トギが宿舎に帰ったとき、彼の居室は不自然にガランとしていた。暖炉の火は落ちていて、部屋は薄暗く冷え切っているし、その上、コチュンの衣類が、床に雑然と散らかっていたのだ。

「……あれ、仕事着がないな」

 トギはコチュンの服を拾う手を止めて、散らかった床を見渡した。どうやら、一度箱詰めした荷物を、後でひっくり返したらしい。その中に、コチュンの女中服だけがないのだ。

 トギの胸に、一抹の不安がよぎった。窓の外は、相変わらずの雪模様。トギは散らかった服を箱に押し込むと、脱いだばかりの上着をはおり直して、外に飛び出した。



 その頃コチュンは、王宮の勝手口の一つを、音を立てないように開けたところだった。この古い扉は、女中たちがこっそり喫煙するために、暗黙の了解で共有する場所。コチュンが煙草を好んだことは一度もないが、先輩たちが使っているのを見ていたのだ。

 鼻をつく臭いをかい潜ると、掃除道具や、ネズミ捕りの網、荷車がひしめき合う物置に出る。コチュンが上着を脱ぐと、下から現れた黄色い女中服が、埃臭い仕事場に戻ってこられて喜んでいるみたいだった。


 王宮内は、厳戒態勢が敷かれ、使用人の通用門まで閉ざされていた。もし、逃げたときに使った古い通路が封鎖されていたら、コチュンは王宮の敷地にすら入られなかっただろう。

 コチュンは、煤で黒ずんだ女中服を叩きながら、部屋の出口へ歩き出した。ところが、取手に手を伸ばしたところで、扉の向こう側から物音が聞こえた。

 ハッと息を潜めたときには手遅れで、押された扉がコチュンの鼻先をかすめて、大きく開かれた。コチュンの前に、懐かしい顔が立ち塞がった。女中仲間だったテュシが、ギョッと顔を引きつらせ、目を剥いたのだ。

「テュシ声を出さないでっ」

 コチュンは硬い声で捲し立てた。するとテュシは、コチュンを押し込むようにグッと前に踏み出し、激しい音を立てて扉を閉めた。次の瞬間、コチュンはテュシに手を掴まれ、掃除道具が詰まれた物置に、押しやられてしまった。コチュンが振り向いたときには、物置の戸が乱暴に閉じられた。

「テュシ、お願い話を聞いてっ」

 コチュンは、物置の戸を押し開けようとした。ところがそのとき、テュシのものではない、嫌な笑い声が響き渡った。先輩女中のリタと、その取り巻きが部屋に入ってきたのだ。コチュンは息を殺しながら、女中たちの会話に耳を済ませた。

「厳戒態勢なんて最悪。四六時中監視されてて、さぼれないわね」

 ドカっと座る音と一緒に、リタの高飛車な声が聞こえた。取り巻きの女中たちの相槌に、満足そうに愚痴を続けているようだ。コチュンには外の様子が見えないが、リタの高圧的な表情が、手に取るように想像できた。

「今回の厳戒態勢、皇后付きだった女中が“やらかした”せいって知ってる? ユープーの密偵スパイと共犯だったのよ!」

 リタが語る“女中”と“ユープーの密偵”が、コチュンとオリガを指していることなんて、聞くまでもなかった。コチュンは思わず肩を落とした。平和のために身分を偽ったオリガが、まるで敵の情報を嗅ぎ回る“回し者”同然に扱われていると知り、落胆したのだ。

 リタの喋りは止まることを知らず、有る事無い事でっち上げるたびに、女中仲間たちが驚嘆の声をあげた。物置の中のコチュンだけが、腹を立てて地団駄を踏んだ。

「田舎者のグズ女中はクビになったけど、おかげでわたしたちまで、肩身の狭い思いをしなくちゃならないなんて。ほんと迷惑な話よね!」

 リタが高笑いしたとき、彼女たちとは一線引いた様子の、テュシの声が細々と聞こえた。

「リタ先輩。キラン女中長が宿舎に戻ったみたいです。もうこの部屋には来ません」

「見張りしてくれてありがとうね。ほんとあんたって気が効くわ、あんたの友達とは大違いね。あ、もう友達じゃないんだっけ?」

 リタはケロッと笑い、バタバタと音を立てて動き出した。

「それじゃ、煙草の見張りもよろしく」

 リタたちは、耳障りな捨て台詞を吐いて、喫煙所の扉を閉めた。それからしばらくして、コチュンがいる物置が、遠慮がちに開かれた。

「テュシ、わたしのこと匿ってくれたの……?」

 コチュンは、新鮮な空気を吸うより先に尋ねた。すると、テュシの強張っていた顔が、ふわりと和らいだ。

「親友のためなら、当然だよ」

 親友の笑顔に出迎えられ、コチュンの目に涙がせり上がった。すると、テュシが声を震わせた。テュシの目元まで、涙で潤んでいるのだ。

「王宮にいるとき、わざと無視してごめんね。わたし鈍臭いから、リタ先輩の命令に従わないと、酷い目にあわされて……」

「全然、気にしてないよ」

 二人は、姉妹のように抱きしめ合った。だが、テュシが鋭く告げた。

「コチュンがユープーの密偵と仲間だって疑う人が多いの。みんなコチュンのことを探してるんだよ。どうして王宮に戻ってきたの?」

「話せば長くなるんだけど……」

「じゃあ、鍵をしてくるから待ってて」

 テュシは喫煙所の扉に駆け寄り、内側からしっかりと施錠した。

「先輩たちは、コチュンがユープーの密偵と仲間だって言い張ってるの。コチュンがそんなことするはずないのに」

「あのねテュシ、そのことなんだけど」

 コチュンは憤る親友に、恐縮しながら打ち明けた。

「わたし、そのユープーの密偵を助けにきたの」

 その途端、テュシは体をのけぞらせて驚いた。足元がふらついた拍子に、テュシのそばに立てかけられていた掃除道具が崩れてしまい、鍵をかけたばかりの扉が、ガタガタと鳴り出した。

「ちょっと、鍵がかかってるんだけど!」

 外からリタの悲鳴が聞こえてきても、テュシは目を白黒させてコチュンを見ていた。コチュンは、顔の傷跡を指で掻きながら苦笑してみせた。



 雪は、ますます深くなっていた。ドゥンは、王宮の執務室から、白い夜空を見上げた。謹慎なんて名ばかりで、自分の置かれている状況が、投獄と何ら変わりないことに、ドゥンはとっくに気づいているのだ。

 ドゥンは、肌の色が違う友人の顔を思い浮かべて、深いため息をついた。

 彼の嘘がバレたとき、事態を穏便に澄ませるために“全て彼一人の狂言だった”とする手筈になっていた。偽のニジェン姫は、和平条約に反対する、過激な反乱分子だったと主張するのだ。

 結果的に、ドゥンは騙された被害者となった。罪を一人で被った友に、地位と名誉を守られたのだ。

 そのとき、牢屋がわりの執務室に、扉を叩く音が届いた。現れたのは、衛兵長のサザだった。ドゥンは眉を釣り上げて振り返った。

「サザ、ここに来たのが上皇に知られたら、いくらお前でも叱りを受けるだろう」

 すると、サザは静かに歩み寄りながら、落ち着いた声で答えた。

「ええ、その通りです。上皇様は、きっとわたしを叱責するでしょう。わたしがここに暇を潰しにきたせいで、外からの侵入者を、許してしまったかもしれません」

 サザの思わせぶりな言葉に、ドゥンは再び眉を釣り上げた。

「まさか、ユープー国に動きがあったのか?」

「いいえ、まだユープーにこの事態は伝わっていないようです。ですが、もし万が一、ユープー国の少年に危害が加われば、それこそ取り返しのつかないことなるでしょう。なので、彼を助けてくれそうな人物を呼びました」

 サザはそう告げると、ドゥンの前に、さらに乗った団子の菓子を差し出した。ドゥンが目を剥いて顔を上げると、サザは不敵に微笑んだ。

「陛下も、同じ皿の菓子を食べませんか?」

「……サザ、お前は上皇のお気に入りだろう。なぜわたしに肩入れする」

 ドゥンが声を硬くすると、サザは皿の上の団子をつまみ取り、ドゥンの口元へ運んだ。

「わたしは上皇様に支える衛兵ですが、その前に一人のバンサ人です。そして、わたしはあなたの友人です」

 ドゥンはそれを聴きながら、サザの手から直接団子を頬張った。ゴクリと喉がなると、ドゥンは深く息を吸い込んだ。

「では、お前の悪知恵にわたしも乗ってみることにしよう。子どもの頃によくやった遊びを覚えているか? 寒い日の朝、二人で火をつけて煙草を吸った」

 ドゥンはそう言うと、羽織の中から煙草を取り出した。目線は空の分厚い雲から、眼下の蓮華宮の屋根に向けられていた。

 軟禁生活なんて糞食らえだ。ドゥンはやっと、友人が噛み締めた覚悟の味を、感じていた。



 サザが見回るはずだった王宮の回廊に、掃除道具を積んだ荷車が現れた。取手を握るのは女中のテュシだ。忙しなく周囲に目配せしながら、中庭を囲むように折れ曲がった廊下を、左に抜けた。

「コチュン、中庭を抜けたよ」

 テュシが語りかけると、荷車の上の掃除道具がカタンと揺れて、中から二つのお団子頭と、傷痕のある顔が覗いた。

「危ないと思ったら、荷車ごとわたしを置いていってね」

「このくらい平気。ドジな女中が、失くした雑巾を探してるって言えば、給仕の人ならみんな信じてくれるから」


 王宮の回廊をぐるりと周り、本殿から最も離れた場所に、囚人を一時的に捉えるための、地下牢がある。テュシもコチュンも、仕事で失敗すると、キラン女中長に独房に入るかと脅されていたので、場所は嫌でも覚えていた。

 窓のないのっぺりした壁に、地下に続く階段が伸びている。怪物の喉みたいに、真っ暗で底が見えない。テュシはゴクリと喉を鳴らした。

「おいそこの女中、何をしている?」

 そのとき、テュシの背中に鋭い声が飛んできた。槍を持った衛兵が、訝しげな表情でテュシに近づいてきたのだ。テュシが背筋をピンと伸ばすと、荷車の上の荷物がガタンと揺れた。

「仕事時間はとっくに過ぎているだろう。すぐに宿舎に戻れと言われなかったのか?」

「仕事で使う雑巾をなくしてしまい、探していたんです」

 テュシが答えた直後、衛兵が荷車の上の、大きなバケツの蓋を持ち上げた。テュシは、体を強張らせた。空っぽのバケツが、二人の沈黙を際立たせたのだ。

 間一髪で、コチュンを逃せてよかった。さっきまでバケツに潜んでいた友人は、今頃地下牢に続く階段を降りてるだろう。

「あのう、もう行っても良いですか?」

 テュシは衛兵に尋ねながら、遠慮がちに微笑んだ。


 明かりが全くない階段を、コチュンは手探りだけで降りきった。しかし、足を伸ばせば、再び下に伸びる階段が現れ、だんだん天井が低くなっていく。

 ようやく床に足がつくと、ゴツゴツした岩の表面から、ゾッとするほどの寒気がせり上がってきた。コチュンは身震いする体をごまかしながら、氷柱のような鉄格子を掴んだ。

「……オリガ様、ご無事ですか?」

 コチュンがそっと呼びかけると、薄闇の中で、大きな影がごそりと蠢いた。

「……コチュン……か?」

 鉄格子を握ったコチュンの手の上に、細長い指が触れた。コチュンは必死に目を凝らし、薄暗い牢屋の中に手を伸ばした。

「……あなたを、迎えに来ました」

 涙がせり上がってきた瞳の中に、やせ細ったオリガの姿が映ったのだ。

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