第18話 思いを新たにしてみよう
オリガの痩せ細った身体は、年が明ける頃にはすっかり健康を取り戻していた。それでも、王宮とはまるで違う貧乏な農家暮らしを強いることに、コチュンは申し訳なさでいっぱいだった。
一方のオリガは「ユープーにいた頃には牛を育てていた」と豪語するだけあり、田舎の農民暮らしにもすぐに順応してた。
「おーい団子、牛用のブラシはどこにあるんだ?」
ラムチェを着込んだオリガが、窓の外から呼びかけた。今やその姿は、若い農夫そのものだ。オリガは雪を払って窓べりに寄りかかり、見慣れた二つのお団子が、ドタドタと駆けてくるのを待っていた。
ところが、窓べりに現れた顔を見て、オリガは背筋を伸ばしてしまった。なんと、ブラシを持ってきたのは、コチュンの叔母のヒンだったのだ。
「うふふ、お団子って呼ばれたから、来ちゃったのよ」
「すっ、すまない、おれはてっきり“あの子”が居るのかと……」
オリガは無礼を詫びながら、ヒンが手渡してくれたブラシを、両手で丁寧に受け取った。
「コチュンから聞いたわ。ネーヴェ村以外では、お団子髪が珍しいんでしょう? この村には、お団子髪の人がいっぱい居るから、紛らわしいわよね」
ヒンはお茶目な微笑みを残し、家の奥に戻っていった。入れ替わるように、本物のコチュンが駆け寄ってきた。
「待たせてごめんなさい。編み物が途中で止められなくて。どうしましたか?」
「いや、その……牛の世話をしようかと」
オリガはぎこちなく答えて、ブラシを軽く振ってみせた。コチュンとヒンを間違えたばかりで、気恥ずかしさが際立ってしまったのだ。
そんなオリガの気苦労も知らずに、コチュンは明るく言った。
「じゃあ、わたしも牛舎に行きます。ちょうど体を動かしたかったし」
コチュンの姿は、ヒンと似ているのに、まるで違う。オリガはその違いを感じて、頬を赤らめた。
「おれは先に行って、待ってる」
オリガは牛舎に向かったが、手と足が同時に出ていることに気づいていなかった。コチュンはそんなオリガの背中を見て、きょとんと首を傾げた。
牛舎に入ると、二人の会話はぱったりと止んでしまう。牛の世話に集中しすぎるせいだった。
しかし今日は、オリガの方から話しかけてきた。
「おれ、お前の呼び方を改めようと思う。この村では、団子と呼ぶのは失礼だからな」
「気にしないでください、オリガ様のお団子って呼び方、ヒン叔母さんも気に入っているみたいでしたよ?」
二人は牛にブラシをかけながら、向かい合って話を続けた。会話の微妙な間に、ブラシの擦る音が響いている。オリガはそれで拍を打つように、話を続けた。
「本当ならもっと前に改めるべきだったんだ。いい機会だから、お前も変えてみたらどうだ」
「どう変えろっていうんです?」
「その敬語さ。もう王宮暮らしじゃないんだ。おれのことも、普通に呼んでほしい」
オリガが言った途端、コチュンの二つのお団子髪が、牛の背中の上にピョコンと飛び上がった。
「そんなことできませんよ。いきなり変えるなんて、違和感が大きいです」
「言ってるうちに慣れてくるさ。コチュン、次の牛が順番を待ってるぞ」
急にコチュンを名前で呼んで、オリガは隣の牛にブラシをかけ始めた。しかし、後ろを向いたその耳が、真っ赤に染まっているではないか。
コチュンは吹き出したいのを堪えて、真面目な声で答えた。
「でもオリガは、わたしがこんな風に喋ったら、生意気だって言い始めるんじゃないの?」
たちまち、オリガは真っ赤になった。
「そっ、そんなこと言わんっ。 バカにするなよお団子!」
「またお団子って言ってるじゃないですか」
コチュンは笑い出し、自分が元の喋り方に戻っていることまで面白くなってしまった。するとオリガまでもが、困ったように微笑んだ。
そのとき、牛舎の外から扉を叩く音が聞こえた。
「ようコチュン、元気そうだな。ユープー野郎も調子良さそうじゃん」
やって来たのは、幼馴染みのトギだった。トギがオリガに白い目を向けると、オリガもギロリと睨み返した。
険悪な二人の間に、コチュンが慌てて割って入った。
「いらっしゃいトギ。一緒にお茶でも飲まない?」
「うちの親父に、コチュンを呼んでこいって言われたんだよ。コチュンに見てもらいたい牛がいるんだ」
トギは牛舎の戸口に寄りかかり、声を落として答えた。
トギの家には、トギの兄弟が手分けして働く大きな牛舎がある。トギの兄さんとその奥さんが、コチュンに気づいて手を振ってくれた。
コチュンは手を振り返し、声を弾ませた。奥さんのお腹は大きく膨らみ、幸せそうな雰囲気に包まれていたのだ。トギの兄夫婦は、ニコニコと微笑んで言った。
「春に生まれる予定なの」
「ということは、トギはおじさんになるんだね」
コチュンがトギの顔を見上げると、トギは恥ずかしそうに頷いた。
しかし、和やかな雰囲気はすぐに消え去った。牛舎に向かうと、トギの父親が、沈んだ顔で立っていたのだ。
「待ってたよコチュン。久しぶりだね」
トギの父親は、葬式のような顔でコチュンを出迎えた。そして、コチュンの後ろにいるオリガを、珍しそうに見た。
「それと、ユープー人のお客さんも」
「わたしの友人のオリガさんです。牛の世話にとても詳しいので、一緒に来てもらいました」
コチュンがオリガを紹介すると、トギの父親は息子とは正反対に、心の底からオリガを歓迎して握手を交わした。
「子牛の一頭がね、冬を越せないかもしれないんだよ。食が細くて身体が大きくならないんだ」
トギの父親は、コチュンとオリガに理由を話しながら、一頭の子牛の前で足を止めた。他の子牛よりも細く、小さい頭につぶらな瞳がらんらんと光っている。一目見るなり、コチュンとオリガが声を揃えた。
「かわいい」
「コチュンの家にあげてもいいけど。この牛を育てても採算は取れなさそうだぜ」
トギの提案を聞いて、コチュンは悲しそうに首を振った。
「わたし一人じゃ、今いる牛を育てるだけで精一杯だから。それは難しい」
「もし毛皮だけでも使えるなら、春前には持っていくよ。どうだいコチュン」
トギの父親に聞かれて、コチュンは悲しげに微笑んだ。
「もし、それしかないのなら」
コチュンは小さな子牛の鼻を撫でながら答えた。冬が越せない子牛は、身体が健康なうちに加工してしまうしかない。冬の間に毛刈りをしたら、子牛は低体温になり死んでしまう。
トギの父親は、子牛の寿命を決めるために、コチュンを呼び寄せたのだった。
ネーヴェ村の農民たちは、そろって葬式みたいに沈み込んだ。ところが、オリガだけが、いつもの調子で声を上げた。
「この子牛は、いつもこの干し草を食べてるのか?」
三人はオリガを振り返り、面食らってしまった。なんとオリガは、牛の餌箱から干し草や籾殻を引っ張りだし、自分の口に運んでいたのだ。オリガはもぐもぐしながら、子牛の顔を撫で回し、子牛の歯並びを見た。
「口内炎があるし、歯の色も悪い。おまけに口臭もひどい。胃酸が逆流してる証拠だ」
オリガは子牛の単房にヒョイっと入ると、子牛の下腹部に手を当てた。まるで人間の医者のように、どんどん子牛を診察していく。
オリガは牛の顔をじっと見た後、閃いたようにトギを振り返った。
「この家には妊婦がいたな。もし
「おいおい、いくらなんでも、子牛が妊娠してるわけないだろう」
トギの父親が笑って否定すると、オリガは肩をすくめて答えた。
「この牛は胃炎を起こしてるんだよ。胃酸の逆流を抑えて腹の具合をよくしてやれば、越冬できる」
オリガはコチュンに目配せした。どうやら、ここで頼れるのは牛の飼い主ではなく、コチュンだけらしい。コチュンはすぐに頷くと、トギの兄夫婦の元へ走っていった。
残されたトギとその父親は、いまだに疑ぐり深い目を、オリガに向けていた。
「ユープーでは、医者のように家畜を調べるのかい?」
「もちろん、動物専門の医者がいるよ。バンサにはいないのか?」
オリガも意外そうに答えると、トギの父親は心底驚いて答えた。
「海の向こうの国には、未知の文化があるとは思っていたが。まさかここまで差があるなんて思わなかった。もしよかったら、他にも見てもらいたい牛がいるんだが」
「おれの、生半可な知識でもよければ」
オリガは片頬を釣り上げて笑うと、トギの父親の隣に戻った。
オリガがトギの父親と牛舎を回る間、コチュンもそれについて回った。だけどコチュンに手伝えることはなく、仕方なく外に出ることにした。
そこに、トギが自家製のツツロを持ってコチュンを呼び止めた。
「あのユープー人、とんだ曲者だったな」
トギはツツロをコチュンに手渡し、隣に並んだ。コチュンは貰ったツツロを両手で持って、冷えた指先を温めた。
「オリガ様は、前から博識な方だったけど。まさかこんなに、いろいろなことがわかるなんて思わなかった」
「牛に妊婦の薬を飲ませるなんて。普通じゃないぜ、あの考え方」
「ユープーでは、牛を生育不良で殺すことはほとんど無いって言ってたよ。バンサでもそれが当たり前になるといいね」
「コチュンは、やたらあのユープー人の肩を持つなあ。おれの、
トギは乾いた笑いをこぼし、寂しそうに尋ねた。
「まさか! 忘れてないよ。髪留めだって、ちゃんと持ってるよ」
コチュンは服のポケットから、金細工の髪留めを取り出した。それを見た途端、トギの顔が綻んだ。
「持っていてくれて嬉しい。おれ、本気でコチュンと結婚したいと思ってるんだ」
トギはコチュンの冷たい指先を、覆うように優しく握りしめた。
「さっき、コチュンの家は人手がないから牛を増やせない、って言っていたろ。これからのこともあるし、おれがコチュンの家の働き手になるよ。一緒にネーヴェ村で暮らそうぜ」
トギからの提案を受けて、コチュンは言葉に詰まってしまった。
女中の仕事を失った今、コチュンに村を出ていく理由がない。ヒン叔母さんを一人で残していく必要もない。それは逆に言えば、この村で生計を立てていくしかない、ということだった。
トギがコチュンと一緒に居てくれるなら、これほど心強い味方はいないだろう。
「……そうだね、それができたら、嬉しいと思う」
コチュンは、静かに頷いた。
二人の手がそっと重なった。それを、少し離れたところから、オリガが黙って見つめていた。
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