第19話 嘘つきは誰だ

 牛舎の屋根に、透き通った氷柱が伸びてきた。牧場の土がぬかるみ、白い雪の中に泥が滲み出す。空の雪雲も千切れて、暖かい光が差す時間が増えていた。

 そんな景色を目にするようになった頃、コチュンの家にトギがやってきた。彼の手には、小さな黄色い花が乗っていた。

「うちの牧場で、福寿草ふくじゅそうが咲いてたから、コチュンに見せたくて持ってきたんだ」

 トギはそう告げると、小さな花をコチュンの手に、そっと持たせた。

「馬車の仕事があるから、おれは一旦ピンザオ市に行ってくる。御者の仕事の辞め時も、相談しないといけないしな」

 トギの知らせに、コチュンは目を丸くした。

「もう、馬車道が通れるくらい、雪が溶けてるの?」

「毎年そうだったろ。福寿草が咲いたら、馬車屋は仕事始めだ」

 トギはそう言うと、少しためらいながら、コチュンの綺麗な方の頬に、キスをした。その途端、コチュンはギョッとして飛びのいてしまった。

「ちょっと辞めてよ、びっくりするじゃない!」

 すると、それまで夢見るようだったトギの顔に、陰りがさした。コチュンはハッと息を飲んで謝ったが、トギは悲しげに微笑んだ。

「もう行くよ。ピンザオ市で、お土産買ってくるからな」

「さ、寒いから、風邪ひかないようにね」

 コチュンは言葉に詰まりながら、手を振り返した。


 コチュンは、トギの婚姻交渉プロポーズを改めて受けて、彼が本気で結婚を望んでいるんだと実感した。だけどコチュンには、未だに現実味がない。今だって、頬にキスされて、心臓が壊れそうなほど脈打っている。 

 ところが、そんな違和感を吹き飛ばすように、オリガが思いもよらない行動に出た。

「コチュン、人間用の散髪バサミってあるか?」

 最近のオリガは、身振りも口調も男らしく、皇后を装っていた面影はなりを潜めている。ただ一つ、長く美しい金髪を除いては。

 その最後の美貌を、オリガがハサミで切り落としてしまったのだ。

「どっ、どうされたんですか、オリガ様!」

 番狂わせの大惨事に、コチュンはいつもの調子で声を上げた。一方のオリガは、晴れ晴れした顔である。

「ああサッパリした! 牛の世話をしてると、長い髪が邪魔で仕方なかったんだよ」

「それでも、切っちゃうなんて勿体ない……あ、ちょっと待って、後ろ側はわたしがやりますから」

 コチュンはオリガからハサミを取り上げると、オリガのざんばらな髪を整え始めた。

「急に髪を切っちゃうなんて、本当になにかあったんですか」

「気分だよ、気分。ほら、見てみろコチュン」

 オリガは手のひらを上に向け、後ろのコチュンに見せた。

「両手に豆ができた。ユープーにいた頃、おれはこんな手をしていた。少しずつ、元に戻ってきたんだよ」

 オリガの嬉しそうな口調に、コチュンも笑顔を浮かべた。

「オリガ様は、牛相撲の牛を育てていたんですよね。その手は、牛飼いの手ですね」

「闘牛だけじゃない、乳も絞るし、肉も食べた。馬や鳥も飼っていたぞ」

「すごく大きな牧場を持ってたんですね」

「コチュンにも見せたかったよ」

 たわいも無い会話を続けながら、コチュンはオリガの髪に刃を入れた。そのうち、トギへのわだかまりもすっかり忘れて、コチュンの口元は自然に綻んでいった。

 コチュンがハサミを仕舞うと、オリガは、切り揃えられた後頭部をなぞった。

「いい感じに短くなったな。これでもう、トギに女装野郎って呼ばれずに済みそうだ」

 トギの名前が出た途端、コチュンは秘密を思い出したように体を固くした。するとオリガも、気まずそうに言葉を選びながら言った。

「すまない、トギのことを悪く言うつもりじゃなかったんだ。お前の恋人は、いいやつだと思うよ、本当に」

「こっ、恋人だなんて、そんな」

 コチュンは否定しかけて、口を噤んだ。結婚の約束をしている相手なのだから、トギは恋人のはずだ。なのに、結婚に対して現実感が持てず、頬へのキスすら受けれられない。

 急に黙り込んだコチュンを見て、オリガは不思議そうに眉を寄せた。

「どうした、なんだか顔色が悪いぞ?」

「オリガ様、オリガ様は、ドゥン様と結婚すると決まったとき、どんなお気持ちでした? やっぱり、悲しかったですか?」

「えっ、なんだって?」

 コチュンの口から唐突に飛び出た質問に、オリガは面食らってしまったようだった。皇后の面影をすっかり無くした途端に、皇后のことを蒸し返されるなんて、夢にも思わなかったのだ。

「少なくとも、有頂天になったり、気分が明るくなったりはしなかった。だけど、悲しいとも思わなかった。それよりも、うまくごまかせるかどうか、不安や罪悪感の方が大きかったんだ」

「……そうですよね、当たり前のこと聞いてすみません」

 コチュンはオリガに頭を下げた。しかし、オリガはニコリともせず、コチュンの心を見透かすように、じいっと顔を覗き込んできた。

「……コチュン、今のお前は、なんだか嫁ぐ前のおれに似てる気がする」

 思いもよらないオリガの言葉に、今度はコチュンが面食らった。体が無意識に逃げ出そうとしたが、オリガの長い手足に邪魔されて、壁際に追い詰められてしまった。

「コチュンは今、嘘をついている顔をしてる」

「え?」

 コチュンは目を見張って、オリガを見上げた。オリガは、海のような深い瞳で、視界に捉えて離さない。

「コチュンは、トギをどう思っている?」

「どうって……」

 コチュンは返答に困ってしまった。“好き”の二文字で済むはずなのに。その言葉が、胸のどこを探しても、見つからなかったのだ。





 コチュンが俯き、口をつぐんだそのとき、家の奥から悲鳴が飛び込んできた。

「コチュンっ、大変よ大変よ!」

 ヒン叔母さんが、杖を使って、どたどたと走ってきたのだ。二人の話は遮られ、コチュンはオリガの腕の中をすり抜けた。

「ヒン叔母さん、どうしたの?」

「外に怪しい人がいるのよ。家の奥に隠れた方がいいわ!」

 ヒンはコチュンとオリガを押しながら、家の奥へと逃げようとした。だが、その肩をオリガが優しく抱きとめた。

「おれが見てくる。二人は壁の裏にでも行っていてくれ」

「わたしも一緒に行きます」

 すかさずコチュンが声を上げると、オリガは困ったように笑い返した。

 ヒンの心配そうな声をよそに、二人は出窓から外の様子を伺った。その拍子に、コチュンは思わず声をあげてしまった。そこには、熊の毛皮をそのまま身に纏ったような風貌の人間が、何人も集まっていたのだ。

「確かに、ちょっと普通じゃない」

 オリガが声を落として囁くと、コチュンは頷き返した。

「王宮の追っ手かもしれませんよ。勝手口から外に出て、トギの家に逃げた方がいいんじゃないでしょうか」

「王宮の追っ手なら、おれの身柄を渡せば済む話だ」

「ダメです! そんなことしたら、今度こそ殺されてしまいますよっ」

 オリガはコチュンの忠告を無視して、扉口に向かってズンズン歩き出した。その後を、コチュンが慌てて追いかける。だが、オリガは扉を空けて、奇妙な風貌な者たちの前に踏み出してしまった。

「お前たち、何者だ?」

 コチュンがオリガの背中にピッタリくっついた。それと同時に、毛皮を被った一人の男が、雪の上に膝をついた。

「オリガ様、貴方をお迎えにあがりました」

 男が被った毛皮を剥ぎ取ると、その下から浅黒い肌が現れた。オリガと同じ、ユープー人の特徴ではないか。

 コチュンが目を見張る横で、オリガまでもが声を震わせた。

「……まさか、お前たちだとは思わなかったぞ……」

 コチュンは丸くした目を、オリガに向けた。オリガのこんな動揺した顔なんて、初めて見た。コチュンは恐る恐る尋ねるしかなかった。

「この人たち、オリガ様の知り合いなの?」

「……ああ、一応な」

 だが、オリガの声は未だに震えている。コチュンは警戒心を全く緩めず、視線を目の前のユープー人たちに戻した。すると、跪いた男が、コチュンに向かって恭しく頭を下げてきた。

「我らのオリガ様を匿っていただき、感謝いたします」

「……オリガ、“様”?」

 コチュンは眉を寄せ、再びオリガを振り返った。

 コチュンは王宮で仕えていたから、今もオリガのことを敬う言葉で話している。しかし、オリガは牛飼いの少年だ。本来ならば、オリガをこんな風に呼ぶ人はいないはずである。

 コチュンが困惑していると、オリガはその不安を悟ったように振り返った。

「コチュン、こいつらは、ユープー国皇帝の近衛兵で、“ウミタカ”と呼ばれる連中なんだ」

「ユープー皇帝の? そんな人たちが、なぜオリガ様を迎えに?」

 コチュンが最後まで言い終わらないうちに、重厚な音色の声が、二人の間に割って入ってきた。

「それは、わたくしが命じたからです」

 ウミタカの男たちの後ろから、一人の女性が歩いてきた。ウミタカたちは、水を弾く油のように身を翻し、女性のために道を作っている。その女性の全貌が露わになった途端、コチュンは悲鳴をあげて、オリガの腕に捕まった。

 二人の目の前に現れたのは、女神のように見目麗しい、ニジェン皇后その人だったのだ。

 

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