第21話 火蓋は切らせない
バンサ国の宮殿に、ユープー国からの報せが届いたのは、まだ雪が降る、冬の最中だった
王宮に、若い皇帝の姿はない。
一度は退いたはずのダオウ上皇が、ユープーからの封書を受け取った。
ドゥンを擁護する大臣たちを左遷し、かつての側近たちを国政に呼び戻した。さらに、新たな手駒として、娘婿のアレンを、国務大臣に任命したばかりである。
「
アレンが、緊張した声で伺うと、ダオウ上皇は鼻で笑って、封書を円卓の上に投げ出した。
「ユープー国は、ニジェン姫を引き渡せと言ってきた。さもなくば、海上からこのバンサに攻め込むと意気込んでいる」
円卓に、固唾を呑む音が連鎖した。これは、事実上の宣戦布告に他ならない。アレンは腰を上げて声を荒げた。
「では、今すぐ国中に兵士を派遣して、逃亡中のニジェン姫を捕らえましょう!」
「ユープー国のラルゴ王は、王位に就いたばかりの若造だ。奴らが自慢の軍船でかかってこようとも、バンサ国の敵ではあるまい」
「開戦に持ち込むおつもりですか? ニジェン姫を引き渡せば回避できる戦ですよ」
アレンが食い下がると、ダオウ上皇は目を尖らせて、義理の息子を叱り飛ばした。
「情けないぞアレン! 弱音ばかり並べおって、貴様も、ドゥンと同じ腑抜けだと申すのか。我がバンサ国がユープーごときに戦を仕掛けて、負けるようなことなど、ありえないのだ!」
ダオウ上皇の、黒い炎のような瞳が光ると、円卓に腰掛ける大臣たちも静かに頷いた。
「負けを見るのは、ユープーだ」
アレンは、執政室で自分だけが孤立している現実を悟り、口を噤んで静かに座り直した。ダオウ上皇は、ニヤリと微笑んだ。
「しかし、お前の言う通り、火蓋を切るのは今ではない。我がバンサ国は、徹底的に高みを目指すのだ」
ダオウ上皇の言葉に、アレンは震えた。
そのしばらく後、執政室から一人の衛兵が抜け出した。渡り廊下を突っ切り、王宮の敷地内にある、小さな屋敷に入っていく。
「ドゥン様、ただいま戻りました」
「ご苦労だったな、サザ」
幽閉の身に落とされたドゥンが、衛兵のサザに向かって微笑みかけた。その顔に、かつての端正な清潔感はない。ぼさぼさ髪に、無精髭までこさえている。
サザは、執政室での話を手短に伝えた。すると、ドゥンの顔は険しくなった。
「ユープー国は思い切った手に出たな。だけど、本当に戦うつもりなのか」
オリガの話によれば、ユープー国は今、他国に攻め込む余裕などないはず。ハッタリをかけたか、玉砕覚悟でバンサ国を潰す三段か。
サザは目線を上げることなく、床を睨んだまま答えた。
「今は、いかにして血を流さないようにするかを、早急に考えねば」
「そうだな」
ドゥンは、再び地図に目を落とした。この海と山に挟まれたバンサ国のどこかに、異国の地からやってきた友人がいるはずだ。落ちぶれた元皇帝は、再び彼の手助けが必要だった。
早朝のネーヴェ村に、春の太鼓が響いた。屋根に垂れる
コチュンはその音をぼんやり聴きながら、編んだばかりのラムチェに視線を落とした。糸始末さえ済ませれば完成なのに、今日はやけに針が重い。
コチュンは未完成のラムチェをテーブルに放り出すと、目を閉じて昨日のことを思い出した。
昨日の夕方、トギが持ち帰った開戦の知らせを聞くなり、オリガは目の色を変えて、姉の元に駆け戻った。聞いたばかりの情報をニジェンの前に並べ、殴りかかりそうな剣幕で問い詰めたのだ。
「バンサ国と戦争なんて始めたら、何人の兵士が血を流すか、わかっているのですかっ?」
それでもニジェンは、涼しい顔を崩さない。
「どんな手を打とうが、バンサ国とはいずれ戦になります。昔からわかっていたでしょう」
「おれと
「それは違います。あなたも国王も、国に蔓延する問題を、先延ばしにしてきたに過ぎません」
ニジェンはオリガに寄り添っているコチュンに目を向けた。
「わたくしたちの国は、災害に襲われ、疫病が流行り、田畑も廃れてしまっています。厄災のない暮らしを送るためには、心を鬼にし、隣人に刃を向けるしかない」
ニジェンの口調は一転し、悲壮感を匂わせる哀れな言い草だった。だが、コチュンは首を振って反論した。
「それなら、戦争なんかより、もっと良い手があるはずです」
「コチュンの言う通りだ。だからおれは、ずっとバンサ国と協定を結ぶべきだと話しているのです。血を流さず、隣国と友好関係を築き、お互いに助け合える未来の方が、ずっと建設的でしょう」
オリガは渇望するように訴えた。握りしめた拳から、血の汗が滲む勢いだ。
オリガは、ユープー国にいた頃から、こんな風に訴えかけていたに違いない。その考えの違いが姉弟の間に亀裂を走らせ、オリガを孤独な決断に追い込んだのだ。
コチュンがやるせない気持ちで二人を見ていると、ニジェンは苦虫を潰したような顔をした。
「では、その平和とやらが、お前の命と引き換えだと言われても、納得できますか?」
「なんだって?」
オリガは顔色を変えて聞き返した。
「バンサ国は、政略結婚を破断させた代償として、わたくしになりすました“偽物”の処刑を、要求してきました。偽物を送り込んだのは、ユープー国の罪です。交渉で穏便に済ませることはできない。平和のために、お前の死が望まれているのです」
オリガもコチュンも、冷水をかぶったように血の気がひいていった。ニジェンは、オリガの答えを試すように待っていた。
「……それで、
「是非もないでしょう。戦いを嫌う国王は、お前の命を差し出すことを飲ました」
ニジェンの答えに、コチュンは絶句した。ユープー国王は、血の繋がった弟を見殺しにするというのか。
オリガは、表情は変わらないのに、その色がみるみる青ざめていく。無理もない、実の兄に死ねと言われているのと、同じ状況なのだ。動揺を押し殺しているオリガの姿に、コチュンはいたたまれなくなって声を荒げた。
「そんなの酷すぎます! オリガばかりに辛い役目を押し付けて、ユープー国の王族は、みんな冷徹です!」
「そんなこと、わたくしが一番知っています。ですから、これ以上、
ニジェンはコチュンの怒りを一蹴し、力強く断言した。
「姉上、どういうことです」
「わたくしがバンサ国に乗り込んだのは、お前を、兄の手にもバンサの手にも渡さないようにするためなのです」
「それじゃあ、ニジェン様は、オリガを助けるために、ここへいらしたのですね!」
コチュンが目を輝かせ声を弾ませると、ニジェンは肩頬を釣り上げて微笑んだ。
「わたくしがオリガを安全にユープー国に連れ帰り、守って行きますわ。今まで我が弟を匿ってくださり、どうもありがとう」
ニジェンの柔らかな言葉と眼差しに、コチュンは胸を撫でおろした。ところが、オリガの顔を見て表情を強張らせた。オリガは、挑むようにニジェンを睨んでたのだ。
「姉上、あなたがおれに情けをかけるなんて、にわかに信じられないです。本気でおれを助けるとお考えなのですか」
姉弟の会話とは思えぬほど、オリガの口調は殺伐としていた。ニジェンも、それに答えるように、ゾッとするような表情で告げた。
「バンサ国が断罪を掲げてユープー国の王族を処刑したら、両国の関係は、この先どうなると思いますか。バンサはますますつけあがり、罰だ贖罪だと理由をつけて、ユープー国から搾取し続けるでしょう。お前ごときの犠牲の上に、そんなことさせません」
ニジェンは一呼吸を置いてから、胸を張って言い切った。
「わたくしは、徹底的に戦って、平和を掴みます」
コチュンがニジェンの言葉を思い出したとき、馬の嗎が耳を突いた。いつの間にか、氷柱を破る音が止んでいる。代わりに聞こえるのは馬の鼻息だ。コチュンは椅子を蹴っ飛ばして立ち上がると、部屋着のまま外に飛び出した。
薄くなった雪の上に、溶けかけた氷柱が積まれている。その横に、馬の毛並みを整えているオリガが立っていた。その服装はラムチェではなく、派手な飾りがついた、ユープー国の防寒着だった。
オリガは息を切らせたコチュンに気がつくと、困ったように笑いかけた。
「やっぱり、気づかれたか」
「オリガ、その馬は?」
「トギの親父さんが、この前診た子牛が回復したって伝えに来てくれたんだよ。そのときに、馬を貸してくれって頼んだんだ」
オリガは楽しそうに馬の頬を撫で回していた。だが、コチュンは顔を曇らせ、その横に並ぶと静かに尋ねた。
「この馬で、どこに行くの?」
「バンサ王宮だよ。嘘つき皇后が姉上に捕まる前に戻らないと、バンサ国とユープー国が戦争を始めちまう」
「何考えてるんですかっ、王宮に戻ったら、あなたが殺されるんですよ!」
思わずコチュンは怒鳴り返していた。これは自殺行為だ。コチュンはオリガを咎めるように腕を掴んだ。しかし、オリガはその手を優しくとった。
「バンサ国とユープー国が、血みどろの戦争を始めて、何万人も死んでも、いいか?」
その言葉に、コチュンはパッと顔を曇らせてしまった。オリガがコチュンの手を離しても、黙ったままだった。
「戦争を止めるには、俺が死ぬしかない。大丈夫、おれは、この嘘をついたときから、死ぬ覚悟はできていた。今更、命を惜しむつもりは毛頭ない」
「誰も、傷つけないためについた、嘘なのに」
コチュンが涙を滲ませると、オリガはコチュンの口を塞ぐように抱きしめた。
「嘘は、嘘だ。こんな、嘘つき皇后の女中になってくれて、ありがとう」
オリガはコチュンをきつく抱き締め、傷跡の上に長いキスをした。コチュンの涙が、オリガの頬まで濡らすと、オリガは名残惜しそうに顔を離した。
「今の、ユープー王族の仕来りのキスですか」
コチュンが潤んだ目で見つめると、オリガは照れたように微笑んだ。
「よく覚えてたな」
オリガは口の橋を釣り上げて笑うと、コチュンの体を乱暴に手放した。その反動で、コチュンは雪の上に尻餅をついてしまった。ハッと顔を上げたときには、オリガは馬に跨って
「戦争を止めてくる!」
オリガはからりと笑うと、馬の腹を蹴って駆け出した。コチュンは慌てて立ち上がったが、オリガの後を追うことはできなかった。キスをされた顔の傷跡が、熱を帯びていた。
コチュンは、好きな人の背中が、無情に遠ざかるのを見送るしかできなかった。
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