第22話 選ぶのはどっち
コチュンは、沸いたやかんの音を聞きながら、未完成のラムチェの前に座っていた。
「あら、やかんが空焚きになっちゃうわよ」
納屋仕事から戻ってきたヒンおばさんが、暖炉からやかんを取り出した。
コチュンは、ウンともスンとせずに黙ったままだ。ヒンおばさんは、独り言のようにコチュンに言った。
「お茶をいれるわね。昨日いらしたユープー国のお姫様が、美味しいお菓子をくれたのよ」
ヒンおばさんは、湯気のたつお茶と、乾いた芋のようなお菓子をコチュンの前に並べた。
「わあ、甘い。ユープー国には、こんな美味しい食べ物があるのねえ。もっと食べてみたくなるわ」
「……わたし、食べたくない」
子どものようにはしゃぐ叔母に、コチュンは素っ気なく答えた。
「オリガくんの家族が持ってきてくれたのよ」
「だから、食べられない」
コチュンが俯くと、ヒンおばさんは両手を静かに組んで、テーブルの上に置いた。それは、コチュンが話し出すのを待つときの、お決まりの姿勢だった。コチュンはため息をついて口を開いた。
「オリガが、王宮に戻ったの」
コチュンの言葉を聞いて、ヒンおばさんが驚いた声を出した。だが、その声には驚嘆の色も不安の色もにじんでいない。いつもの、井戸端会議であげるような声だった
肩透かしを食らったコチュンは、ことの深刻さを訴えた。
「オリガがユープー国に帰れば、バンサ国とユープー国が戦争になってたくさんの人が死ぬ。でも、戦争を防いだら、オリガが死ぬ。オリガは、戦争を止めるって決めて……」
コチュンは、そこで言葉を詰まらせた。思い返せば返すほど、不甲斐なさがこみ上げてくるのだ。
「わたし、どっちを選べばいいのか、わからなかった。だから、オリガが王宮に戻るのを、止められなかった。わたし、何も決められないし、何もできなかったの。本当に最低なやつでしょ」
「それは、すごく難しい問題ね」
ヒンおばさんは、深刻な表情で頷いた。それでも、声色はいつもと変わらない。一体どこまでわかっているのか。コチュンが疑いの目を向けると、ヒンおばさんはニコっと微笑んだ。
「コチュンの母さんも、同じようなことで悩んだ時期があったわ」
「お母さんが?」
唐突に切り出された話題に、コチュンは声の調子を外してしまった。なにしろ、家族の話なんて、あまり聞いたことがない。母はヒンおばさんと双子の姉妹で、父は領主の息子だった。そのぐらいしか、コチュンは知らなかったのだ。
「コチュンの母さんは、領地の見回りに来たあなたのお父さんと恋をしたの。住む場所は離れていたけど、問題にならないくらいに、二人は思い合っていたわ。だけど、いよいよ婚約となったときに、急に話が頓挫しかけたの」
ヒンおばさんは顔を曇らせて、悲しげに微笑んだ。
「わたしが、こんな足でしょう。だからあなたの母さんは、体の不自由な妹を置いて、恋人の元に嫁ぐことを躊躇ったのよ。わたしは、自分のせいで姉が結婚を諦めるなんてことは、絶対にさせたくなかったわ。だけど、姉を説得するのは難しかった」
自分が結婚して家を出れば、体の不自由な妹が一人きりになる。妹を大切にしたければ、恋人とは別れるしかない。コチュンの母親は、どちらを選んでも大きな犠牲を強いられたのだ。
「そのときね、あなたのお父さんが、あなたの母さんを迎えに来たのよ。“どっちも選べばいいじゃなか”って、言ってね」
「どっちも、選べばいい?」
コチュンは初めて聞いた父親の言葉に、足が浮いたような感覚を覚えた。
「大切なものを犠牲にして、本当に幸せになれるのか? あなたの父さんは、母さんにそう聞いたわ。答えはもちろん“無理”だった。だから二人は、春と夏の間だけ、一緒の家に住んで、他の時期はそれぞれ仕事のある場所で暮らしたの」
「そんなことができたの?」
「だから、コチュンがここにいるんじゃない」
コチュンの問いに、ヒンおばさんがにっこり微笑んだ。その途端、コチュンの胸のわだかまりが、パッと消えた気がした。
「だけど数年後、あなたのお父さんが病気になって、あなたの母さんは、看病のために一人でお父さんの元へ戻ったの。ひどい流行り病だったから、姉はあなたの元へ帰る事は叶わずに、最後は愛する人と一緒に天国に行ってしまったわ」
「どっちも選んだ結果は、間違いじゃなかったの?」
「だから、あなたがここにいるのよ。叶えたい願いのために、別の願いや大切なものを捨てなくちゃけいけないなんて、すぐに考えてはダメ。解決する方法は、他にきっとあるはずよ」
その言葉を聞いたとたん、コチュンは音を立てて椅子から立ち上がった。
「そうだよね、その通りだよヒンおばさん。わたし、考えることを諦めかけてただけなんだ」
早口に告げるなり、コチュンは未完成のラムチェを掴み上げた。最後に残った糸始末を手早く済ませると、糸の端を切った。真新しいラムチェが完成したのだ。
コチュンは、出来上がったばかりのラムチェを羽織ると、その上にもう一枚ラムチェを羽織った。
「おばさん、わたしちょっと行ってくるね!」
「待って、コチュン」
ヒンおばさんはコチュンを呼び止めると、コチュンの小さな手のひらに、ユープー国のお菓子を握らせた。
「すごく美味しい食べ物だったわ。こんな素晴らしいものを作れる国なんだもの、仲良くなることに、なんの迷いもないわよね」
なんてお茶目な励ましだろう。コチュンは笑みをこぼすと、お菓子を頬張ってから外に駆け出した。まだ冬の名残がある北風なんて、まるで感じないくらいに甘かった。
ユープーからの密入国者たちは、ネーヴェ村の空き家の一つに寝泊まりしていた。コチュンが戸を叩くと、ウミタカの男が出迎えてくれた。
しかし、異国の王妃の朝は遅いらしく、コチュンが息を切らして面と向かっても、寝ぼけ眼であくびまでする醜態を晒していた。
「家畜の世話をする人は、朝が早いのですね。わたくしになんのようですか」
「オリガが、バンサ国宮殿に戻ってしまいました」
コチュンがオリガの動向を伝えた途端、ウミタカの男たちに緊張が走り、ニジェンの顔つきが一変した。
「なぜ、なぜオリガを引き留めなかったのですかっ? オリガがバンサ王宮に戻れば殺されると分かっているでしょうっ」
「オリガは、戦争を止めるためにこの国に来たと言いました。今、ニジェンさまと帰れば、オリガの目的は果たせなくなります」
「だから、あなたはオリガを処刑台に送り出したというのですかっ?」
ニジェンは椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、コチュンの前に迫った。コチュンは逃げも隠れもせず、かつての皇后と瓜二つの顔を、真っ直ぐ見つめ返した。
「わたしは、オリガも、平和も、失くさせません」
コチュンはそう告げると、ニジェンの前から去ろうとした。だが、その手をニジェンが引き止めた。
「あなたのせいで、ユープー国の将来が危ういのですよっ、謝って帰れると思っているの?」
「ニジェン様は、バンサ国とユープー国が友好関係を築いて、手を取り合って繁栄していっても、いがみ合うしかないのですか?」
「昨日も言いましたが、わたくしは、この国もそこに住む民達も、嫌いです」
ニジェンは鼻にしわを寄せて、きっぱりと言い切った。この強い意志は、愛国心というより、ただの
「ニジェン様とオリガは、顔は似ているのに、心は全然違いますね。オリガの方が、よっぽど先のことを見通しています。ニジェンさまに国を率いるのは無理。オリガは、絶対に戦争を止めますよ」
コチュンはそう言い残すと、軽いお辞儀をしてからニジェンの前から去って行った。ニジェンは怒りで顔を青くしながら、そばに控えていたウミタカの男達を呼びつけた。
ニジェン達の宿を後にしたあと、コチュンは興奮のあまり武者震いが止まらなかった。今まで、意地の悪い人に対峙したことは、何度か経験したが、真っ向から言い合いをしたのは初めてだったのだ。
足の震えが、寒さのせいなのか興奮のせいなのか、区別がつかなくなってきた。早朝のネーヴェ村は冷え切っていた。それなのに、コチュンが家に戻ると、トギが待っていた。
「あのユープー野郎に、親父が馬を貸したって言ってたから。嫌な予感がして見にきたんだ」
と、切り出したトギは、ラムチェに帽子に襟巻きに、完全防寒の姿だ。まるで、今すぐ乗合馬車の仕事に出るみたいな格好だった。コチュンは、口早に答えた。
「オリガが、王宮に戻ったの。だから、わたし、オリガを助けに行かなきゃいけないの」
「やっぱりそうだったか! あのクソ野郎、何考えてんだよ、俺の大事なコチュンを置いてってさあっ」
トギが口汚くオリガを罵ると、コチュンは緊張して、また震え出してしまった。すると、トギが困ったように眉を下げた。
「おいおい、薄着なんじゃないか。春先とはいえ、まだ寒いんだから油断しちゃダメだろ」
トギは忠告すると、自分の襟巻きを外して、コチュンの首元にぐるりと回した。これで良し、と言わんばかりに満面の笑みで頷き、コチュンの目を覗き込んだ。
そのとき、コチュンはやっと理解した。
「トギ、わたし、オリガを追う前に言わなきゃいけないことが……」
「あー……、実は、おれもコチュンに謝らなきゃならないことがあるんだ」
コチュンの言葉を受けて、トギが言いづらそうに返した。
「コチュン、おれとの結婚、やめてくれないか」
コチュンは驚いて声が裏返ってしまった。目を丸くする暇もくれずに、トギが言葉を続けた。
「おれ、やっぱり馬車が好きなんだ。この仕事を辞めてまで、田舎に帰りたいかっていうと、そういうわけでもなくてさ」
トギは乾いた笑いを浮かべた後、神妙な面持ちでポツリと言った。
「……ごめん、本当は違うんだ。おれ、すごくずるい言葉で、コチュンを捕まえようとした。ヒンおばさんを引き合いに出して、コチュンに結婚を強要させようとしてたんだ」
トギは一気にまくし立てると、深々と頭を下げた。
「本当に、ごめん」
「わたしも、トギのこと大好きだよ。……だけど、トギの好きとは違うみたい」
コチュンはそう答えると、服の中から、綺麗な金細工の髪留めを取りだして、トギの手のひらに握らせた。
「だから、これを返すね。ごめんね」
「……おれのほうこそ、ごめんな」
トギはコチュンをギュッと短く抱きしめると、すぐに離して鼻息を荒くした。
「よし、そうとなりゃ、今すぐにあのアホユープー人を追いかけるぞ! 」
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