第6話 秋の風と籠の虫

 ピンザオの露店に、籠に入った秋虫が並び始めた。セミが去ったあとの空は、トンボが思うままに飛び回っている。だが、人々の生活は、季節が巡っても変わらない。仕事が終われば、呑んで食って騒がずにはいられないさがなのである。

「なーにが性よ。全く、たまったもんじゃないっていうの!」

 コチュンは、いつもの居酒屋の小さなテーブルで、煮玉子にかぶりついていた。その様子を、トギが呆れた顔で眺めていた。

「酒も飲めないくせに、闘技場にいる酔っ払いみたいだぞ」

「こんなクタクタになるまで働いてるんだよ。お酒を飲めなくても、酔っ払わずにはいられないよ!」

 コチュンは嘆きながら玉子を飲み込むと、店主に向かって高々と手を振った。

「次、冬瓜のそぼろ煮ちょうだい!|

 店主が台所から返事を返すと、コチュンは勢いよくお茶を飲み干した。まるでやけ酒するオッサンである。トギは、忍び笑いをこぼした。

「コチュンは頑張ってるよな。理不尽な命令に、想像を絶する仕事量。もう慰める言葉も出てこない」

「なんであたし、こんなになってまで働いてるんだろう」

 コチュンは、ごつんとテーブルに突っ伏した。


 コチュンが、ニジェン皇后付きの女中になってから、数ヶ月。コチュンはすっかり疲れ果てていた。

 ニジェンはめんどくさがりやで、大雑把で、なのに完璧主義者だ。自分の望んだ通りになるまで、コチュンに雑務を押し付けてくる。

 それに、コチュンの最も大事な仕事が、もう一つある。

 ニジェン皇后が、実は男性であるという秘密を、隠し通さなければならないことだ。

「最近、仕事なのかいじめなのか、わからないこともあるの」

 その最たるものが、初夏に告げられた命令だ。

「コチュンに、養子にする子を産んでくれって、頼んできたんだろ? ホトトギスみたいに」

 トギがコチュンの愚痴を蒸し返し、ゲラゲラと笑いだした。コチュンは咎める代わりに、眉にしわを寄せて睨み返した。

「ホトトギスがするのは、自分が生んだ卵を他の鳥に育てさせること。ニジェン皇后とは全然違うでしょう」

 そう、ニジェンがコチュンに「子どもを産め」と言ってきたのは、自分が子どもを産んだように見せかけ、偽りの性別を周囲に信じさせるためだ。

 コチュンは、この命令には従えなかったどころか、勢い余ってニジェンの横っ面を叩いてしまった。冗談にしても酷いセクハラだ。コチュンはその場でニジェンを叱りつけ、二度と口にしないように忠告した。


 とはいえ、事情はあるがニジェンは正式な皇后陛下。その顔を叩くなんて、コチュンは死刑にされてもおかしくなかった。

 それが、数ヶ月の減給だけで済んだのは、ひとえにニジェンの心の広さのおかげかもしれない。


 コチュンは鬱憤を晴らすために、ときどきこうして、トギに“セクハラに刃向かった結果”として、何度も愚痴を吐き出しているのだ。

「もう田舎に帰ろうかなぁ」

「そうなったら、いつでも送ってくよ」

 トギは柔らかく微笑んで、コップに注いだお酒を一口飲み込んだ。

 バンサ国の若者は、十七歳の夏に成人する。トギは、お酒も煙草も、結婚もできるようになった。急に大人びた幼馴染を前にして、コチュンは胸がグッと詰まるような、奇妙な感覚を覚えた。

 そのとき、トギが目を輝かせて、店の奥を見た。コチュンの後ろに、店主がお祝い用の桃色の饅頭を持って立っていたのだ。

 コチュンは、目を丸くして手を振った。

「あたしたち、頼んでいませんよ」

「おれが頼んだんだよ」

 トギがすかさず答えたので、コチュンは再び目を丸くした。すると、トギが恥ずかしそうに微笑んで、コホンと咳払いをした。

「十五歳の誕生日、おめでとう。コチュン!」

 店内にいた他の客たちが、トギの声に気がついて、拍手を送り出した。

 店主は饅頭をテーブルに置くと、率先して祝いの歌を唄いだした。すると、トギも歌い出し、他の客たちも歌い出した。だんだん強くなる秋風みたいに、店内は一つの歌声に溢れかえった。

 コチュンはしばらく、驚きのあまり固まってしまったが、すぐにトギに抱きついた。

「ありがとう、トギ! すっごく嬉しい!」

「いろいろ大変だと思うけど、ずっと応援してるよ」

 そう告げるトギの顔が、幸せそうに綻んでいる。なんだか本当に、父親を前にしているみたいだ。コチュンは頬を赤らめて、トギからそっと体を離した。



 だが、この時間を、王宮に持ち帰ることはできない。

 コチュンはいつものように寮に戻り、いつものように、キラン女中長に声をかけられた。

「コチュン……今夜もまた……」

 キラン女中長は肩を落とした。コチュンは、返事の代わりに深々とため息をついた。

「お呼びなんですね、ニジェン様が」

「ねえコチュン。さすがに、ニジェン様はあなたを働かせ過ぎだと思うの。わたしから進言して、わたしも一緒に皇后付きの女中になるわ。第一、皇后付きの女中を一人に限るなんて、仕事が回らなくて当然だもの」

 キラン女中長は、珍しく息巻いていた。若いけど厳しく、仕事熱心な彼女らしい励ましだ。だが、コチュンは丁寧に断りを入れた。

「皇后様は気難しいから、多分、怒鳴り返されちゃいますよ。本当にもう無理、と思ったら、わたしから助けを求めます。それでも良いですか?」

 コチュンが自ら助けを呼ぶ、という提案に、キラン女中長は納得して引き下がった。だが、仕事に出かけるコチュンを最後まで案じ、コチュンの肩を持って声をかけた。

「皇后様は、コチュンをとっても信頼してるんだと思う。大変だろうけど、頑張ってね」

 さて、それはどうだろう。大変なのは本当だ。しかし、信頼されているかと言えば、疑問が残る。


 コチュンが蓮華宮に参じて、ニジェンの寝る前の世話を整えていても、彼はつまらなそうに本を読んでいるだけだ。コチュンは、ニジェンの美しい金髪を櫛でとかしながら声をかけた。

「今日、幼馴染に誕生日を祝ってもらいました。わたし、十五になったんです」

「まだたったの十五か? 子どもが王宮で働くなんて、バンサ国の常識はなかなか受け入れられん」

 ニジェンは、やっとコチュンに注意を向けたが、その目には驚きと哀れみが浮かんでいた。

「おれが十五の頃は、浜辺で乗馬に明け暮れていたぞ。波打ち際まで馬を走らせ、そのまま泳がせたものだ」

「ユープー国の馬は、海水浴ができるんですか?」

「当たり前だ。我が祖国は、海とともに生きる海人族の末裔だ。全ての生き物は海の恩恵に預かり、命を紡いできた。馬だって、人だって、みんな海に入る」

「どんな馬なんでしょうか、海を泳ぐ馬って」

 コチュンが目を輝かせると、ニジェンはわざとらしく鼻で笑った。

「服を脱いで海に飛び込んでみろ。そこに海を泳ぐ馬が見れるぞ」

「それって、どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味だ。団子のちっちゃなおつむじゃ、考えてもわからないだろうが」

 ニジェンが憎まれ口を叩いた瞬間、コチュンは髪を梳いていた櫛で、ニジェンの頭をコツンと叩いた。

「ちっちゃなおつむで、悪かったですね。あと、わたしは団子でも馬でもありません」

 コチュンが櫛を片付けて、さっさと離れると、ニジェンは笑いながら本を読み始めた。だが、急に頭を持ち上げて、外から聞こえる不思議な音に耳をすませた。

「外から、鈴のような音が聴こえるぞ」

「すっかり忘れていました。今日、ピンザオで買ってきたお土産です」

 コチュンは慌てて蓮華宮の外に飛び出すと、小さな竹の籠を持ってきた。その中に、指の先程の、小さな虫が一匹入っている。ニジェンは、それを一目見るなりおののいた。

「なんだその虫はっ。おい、家の中に入れるな、外に出せ!」

「バンサ国では、秋虫を籠に入れて、鳴き声を楽しむ風習があるんです。これはスズムシという虫で、鈴のような綺麗な声で鳴くんですよ」

「虫が、鳴くわけないだろう」

 ニジェンが叫んだ途端、スズムシがリーンリーンと綺麗な音を響かせた。ニジェンはギョッとしながらも、恐る恐る籠の中を覗き込んだ。

「今の鈴の音は、この虫が奏でたのか?」

「はい。羽を震わせて鳴いているんですよ」

 コチュンの言葉に答えるように、再びスズムシが鳴き出した。ニジェンは表情を和らげ、しげしげと虫を眺め始めた。

「ほう、虫がこんなに良い声を出すとは、知らなかった。この国にも、いい文化があるのだな」

「はい、秋の風物詩です」

 コチュンは誇らしげに胸を張った。だが、ニジェンは眉を下げると、儚げに笑った。

「それが、このような檻に入れられて、かわいそうに。団子、おれはもう十分に虫の声を楽しんだ。スズムシを外に出してやれ」

 ニジェンの言葉に、コチュンは耳を疑った。通常、秋虫は籠に入れて秋の間中、家のどこかに吊るすものだ。それを、ニジェンは離せと言う。

「何をしている、早く逃してやれ。こんな素晴らしい生き物を、狭い檻に閉じ込めておくべきじゃない」

「わ、わかりました」

 コチュンはすぐに窓を開けて、スズムシを外に出してやった。するとニジェンも窓辺に寄りかかり、満月の下で鳴き出したスズムシを見て、ふわりと微笑んだ。

「あんな虫でも自由は嬉しいらしい。籠の中で聴く音より、こっちの方が良い音がする」

 ニジェンは虫の声に聴き惚れるようにうっとりと目を閉じた。

「良いものを見せてくれた、礼をいう。今日はもう下がって良いぞ」

 ニジェンは窓から離れると、振り向きざまにコチュンに微笑み、そして寝室へ消えていった。

 コチュンは、初めて礼を言われた高揚感と、ニジェンから感じとった、ふつふつとした喪失感の狭間で、呆然と立ち尽くした気がした。



 蓮華宮から王宮へ戻る桟橋を、コチュンはトボトボと歩いた。桟橋のどこかで、スズムシが鳴いている。あの虫もこの橋のどこかを歩いているのだろう。

 コチュンがそんなことを思いながら、月を見上げていると、桟橋の先から、聞き慣れた足音が聞こえてきた。

 公務を終えたドゥンが、護衛を従えながら橋を歩いてきたのだ。

「団子、今日はもう終いか? 妻が世話になったな、感謝する」

「いえ、滅相もございません」

 なんと珍しいことに、今日は二回も礼を言われてしまった。コチュンはドギマギしながらも、ドゥンを見上げた。

 ドゥンは桟橋の上を見渡し、穏やかに言った。

「近くで虫が鳴いているな。良い声だ」

「あのう、ドゥン様」

 コチュンは、勇気を振り絞って皇帝に話しかけた。

「スズムシも、小さな檻の中より、広い世界で鳴く方が、嬉しそうだと思いませんか?」

 コチュンは、固唾を飲み込みながら、これから提案しようとする言葉を、必死に口の中で編み出した。

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