第5話 新米女中は納得しない
ニジェンは、脱衣所に座り込んで途方に暮れていた。湯に浸かった体はすっかり乾き、初夏の生ぬるい風さえも冷たく感じる。その手には、真新しいドレスが、手錠のように抱えられていた。
「全く、どうしたものか」
胸に収まりきれなくなった不満が、自然と声になってこぼれ出た。
そのとき、頭上の小窓が、吉兆のようにカタンと揺れた。
ニジェンはすぐに飛びつき、一途の望みをかけて窓を開けた。すると、コチュンの二つのお団子髪が、するりと窓枠をくぐり抜けてきたではないか。
「団子っ? どうしてここに」
「それより、少し手を貸してください」
風呂場の窓は、夜の湿気のせいで滑りが悪くなっているらしい。コチュンはニジェンに抱きかかえられて、ようやく床に降り立った。
先日と違って、ニジェンは腰にタオルを巻いている。コチュンは胸をなでおろした。
「今日は裸じゃないんですね」
「おれの裸を見るために来たのかよ?」
「そんなわけないじゃないですかっ」
「うるさい、静かに」
ニジェンは、コチュンの口に長い指を当てて忠告した。その声は、耳を済まさないと聞き取れないほど細い。風呂場の外から漏れ聞こえる、上皇たちの笑い声の方が耳につくほどだ。
コチュンも風呂場の外に気を配りながら、ニジェンに告げた。
「ニジェン様が風呂場から出てこないから、様子を見に行くようにと、ドゥン様に言われたんです」
「最高だよ、団子が来てくれてよかった。上皇の前に、裸を晒すわけにはいかないからな」
ニジェンはため息混じりに答えると、腕に抱えた薄紫のドレスを、コチュンの前に差し出した。
「おれが風呂に入っている最中に、上皇妃が来て、脱衣所にこの服を置いて行った。着て出てくるように言われたんだ。だけど、これがやばい代物でな」
ニジェンの前置きと同時に、ドレスの裾が孔雀の羽のように広がった。コチュンはたちまち、ゲッと息を飲んでしまった。
薄紫のドレスは清楚で品があり、豪華な刺繍が施されている。ところが、腰から足にかけて、えぐいほどのスリットが伸びていたのだ。
コチュンは顔を引きつらせて、壊れた扇子みたいなドレスを摘み上げた。
「これを、メイ上皇妃様が?」
「正確には、ダオウ上皇の差し金だ」
ニジェンは、今にも吐きそうなほど顔が青い。こんな足を丸出しにさせるセクハラドレスを、親ほど年の離れたジジイに着せられる苦労は計り知れない。そもそも、ダオウ上皇はこんなものを、どこから調達したのだろう。そもそも、息子の妻湯上りに、持ち込んだ着替えを押し付ける神経もどうかしている。
さまざまな思惑に考えを張り巡らせたコチュンは、耐えきれなくなってドレスを叩いた。
「こんなの寄越すなんて、とんだエロじじいじゃないですかっ」
その途端、ニジェンが声を漏らさぬように笑い出した。
「上皇にエロじじいって、団子もなかなか言うなあ」
「もっ、申し訳ありません」
「謝るな、聞いてるのはおれだけだ。それに、着たくてもこれじゃ着れないだろう」
ニジェンは、忌々しげに長くて逞しい足を見下ろした。ゴツゴツしていて、お世辞にも美しいとは言えない。
普段は、丈の長いドレスで隠れているから誰にも見られないが、上皇の持ってきたドレスでは、これが露わになってしまう。
「顔は絶世の美女なのに、体にはどうしても男の色が滲んでしまう。爪の先まで美女の身体だったら、よかったんだけどな」
ニジェンは、急に顔つきを変えて声を落とした。
「上皇のセクハラならまだいいさ。もしこれが、おれの正体を疑っての
ニジェンの性別を疑って、わざとこんな服を持ってきたとしたら。上皇の不気味さと、ニジェンの不安を感じて、コチュンまで、背筋に悪寒が走った。
「と、とにかく、風呂場から出ないと怪しまれますよ。この服のスリットは、
コチュンは、セクハラドレスをニジェンに着るように促して、自分は仕事道具が入ったポケットから、小さな裁縫箱を取り出した。
「そんなすぐに縫えるのか?」
「任せてください。一応、王宮に勤める女中ですから、それに……」
コチュンは言い澱み、囁くように続けた。
「ニジェン様の覚悟を、こんなセクハラなんかで終わらせません」
断言したコチュンの手は、すでに針と糸を持って動き始めていた。蜘蛛が巣を張るように、正確に針を刺し布を縫い合わせていく。その様子を見たニジェンは、力強く微笑んだ。
蓮華宮の居間では、ダオウ上皇が苛立ちを見せ始めていた。ドゥンは、あの手この手で談笑を引き延ばしてきたが、さすがに限界だ。背中の真ん中を、冷や汗が伝っていた。
「おまえの妻は、いつまで風呂に入っている気だ? 我々と、顔を合わせたくないのではないか?」
ダオウ上皇はそう言い放つなり、上皇妃が止める間もなく風呂場へ向かって歩きだした。
「父上、何をするのですっ」
「おまえの妻がのぼせていないか、確認するんだよ」
「やめてください、私の妻ですよっ。いくら父上でも、それだけは許しません!」
風呂場が目前に迫り、ドゥンが声を荒げた。空気がビリビリとひきつり、上皇妃が目を丸くしたほどだ。だが、ダオウ上皇は臆することなく、ジロリと息子を見据えて告げた。
「ほう、許さないとは、具体的にどうするんだ?」
ドゥンは返事に二の足を踏み、固唾を飲み込んだ。まさにそのとき、風呂場の扉が開かれた。
「ドゥン様、上皇様、浴室の前で何を揉めているのです?」
真新しいドレスに着替えたニジェン皇后が、ふわりと微笑んで二人の間に滑り込んだのだ。ドゥンは驚いて目を丸くしたが、すぐに悟られないように、軽く微笑んだ。
「すまないね、父上がおまえの背中を流しに行こうとしたものだから、全力で止めていたんだ」
「あら、それは難儀でしたね」
ニジェンは不敵に微笑んだ。ダオウ上皇の目は、ニジェンの紫色のドレスに釘付けになっていた。ナマズの口のように空いていたスリットが、波打つ美しい布細工で、ぴったりと閉じていたのだ。
ダオウ上皇は、唇をギュッと閉じたが、その後ろから、上皇妃が顔を覗かせて黄色い声をあげた。
「まああ、なんてステキなドレスなの。ニジェンによく似合っているわ」
「ありがとうございます。このドレスをくださった、上皇様に感謝します」
ニジェンが
その後、四人の会食は滞りなく進んでいき、やがてドゥン皇帝が両親を寝所まで送り届けると申し出た。
「いや、それには及ばん。わしの優秀な部下が、もうそこまで来ておる」
上皇が自慢げに告げた途端、蓮華宮の扉が開かれ、上背のある大きな男が現れた。胸に無数の勲章をぶら下げ、前髪に白い毛が混じっている若い衛兵だった。新参者の登場にニジェンが驚くと、上皇妃が助け舟を出した。
「あれはダオウ様の腹心の部下でね、サザというのよ。安心して、見た目ほど怖い人ではないわ」
サザは無言のまま、上皇と上皇妃を外まで誘導し、最後に若い皇帝夫妻に深々とおじぎをした。ドゥンは、勝手知ったるように手を振って挨拶したが、ニジェンは無言で軽い会釈で済ませた。
外に出た途端、サザがダオウ上皇の耳の途に口を寄せた。
「皇后様は、あのドレスを気に入りましたか?」
「自分で刺繍を入れて着てきおったよ。全く。抜け目のない奴らしいの」
ダオウ上皇は猛禽類のような目を隠し、先に歩いていた上皇妃の隣に並んだ。
蓮華宮の扉を占めた途端、ドゥンは崩れ落ちそうなほど、深く息を吐いた。疲れ果て、目の下にはクマまで浮かんでいる。
「これは心臓に悪い。バレるかと思ったぞ」
「すまん。だけど、ことのあらましは今話した通りだ。途中で団子が来てくれなきゃ、どうなっていたかな」
ニジェンはドレスの裾をつまんでみせ、ニヤリと笑ってみせた。対照的に。ドゥンは青い顔をして、目を背けた。
「あれがわたしの父でなければ、ここで叩っ斬ってやりたいところだ。……して、女中はどうした。もう帰したのか?」
「いや、あとで正面から返そうと思って、風呂場に隠れさせてる」
ニジェンは答えると、風呂場の扉を開けて声をかけた。
「団子、もう出てきても大丈夫だぞ。……団子?」
いつまでたっても返事がないので、ニジェンは静まり返った風呂場に入った。そして、タオルにくるまって寝息を立てている、小さな女中を見つけた。
「あーあ、寝ちまってるよ」
「皇帝夫妻の家で居眠りとは、図太い子どもだな。どうやって起こす?」
ドゥンも風呂場を覗き込み、やっと気の抜けた表情を浮かべた。ニジェンは静かに笑って首を横に振った。
「よく働いてもらったから、今日はひとまず休ませてやりたい。それでもいいか?」
「おまえの女中だ、好きにしろ」
ドゥンはそれだけ言い残すと、さっさとその場から離れてしまった。ニジェンは、小さな女中を抱き上げると、居間の柔らかいマットに下ろしてやった。
改めて顔を覗けば、幼いわりに、精悍な顔つきの少女が、静かに寝息を立てている。
ニジェンは、その前髪を指でかきあげて、ふわりと微笑みかけた。
気づいた時には、もう太陽が昇っていた。
コチュンは目を開けた途端に、悲鳴をあげて飛び起きた。なんと、目と鼻の先に、ニジェン皇后がよだれを垂らして寝ているではないか。
それも、自分はふわふわのマットの上に寝そべり、ニジェンはそこに頭をもたれるようにして、中途半端な姿勢で寝ていたのだ。
だが、ニジェンもコチュンの悲鳴で起きてしまったらしい。肩や腰を重そうにさすりながら、大きなあくびを放った。
「おはよう、団子。主人よりもぐっすり眠れたみたいだな」
「ニ、ニニニジェン様っ、申し訳ございませんっ」
コチュンはすぐにマットを飛び降りて、ニジェンの前にひれ伏した。だが、ニジェンはよだれを乱暴にぬぐいながら、へらへらっと手を振った。
「昨日助けてもらったからな。このくらい、どうってことない」
それよりも、と、前置きして、ニジェンは、コチュンの両手を包み込むように握りしめた。
「昨日の件で、やはり性別を偽りつづけるのは難しいと実感した。おれは、どうしたって男だからな」
「そ、それは、そうでしょう。他にもっと良い策があると良いのですが」
コチュンが大真面目に頷き返すと、ニジェンは待ちきれんと言わんばかりに、目を輝かせて口を開いた。
「そこでだ。団子、おれかドゥンの妻になれよ。皇后としての業務はおれがするから、お前は、どっちかの子を産んでくれ」
「……は?」
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