第4話 仕事の覚悟はほどほどに

 王宮の外へ出ると、そこはバンサ国の帝都ピンザオだ。日が暮れても、人の往来が続き、あちこちで賑やかな喧騒が聞こえている。

 コチュンは、小さな店の赤い暖簾をくぐった。すると、煮詰まった大根の香りと一緒に、コチュンを呼ぶ声が届いてきた。コチュンは、声の主の顔を見つけて、手を振った。

「トギ、遅れてごめん」

 コチュンが手を振ると、日に焼けた少年が、白い歯を見せて笑った。


 トギは、コチュンの幼い頃からの友人だ。昔は牧童をしていたが、今は田舎と帝都を往来する乗合馬車の御者をしている。

 コチュンよりも先に上京した手前、時々コチュンを食事に誘い出し、兄貴風を吹かせにやってくるのだ。それが今では、コチュンの数少ない息抜きの時間になっていた。

「コチュン、今日は疲れた顔してるな。また先輩にいびられたのか?」

 コチュンが席に着くなり、トギが眉にしわを寄せて覗き込んできた。その聞き方ときたら、まるで娘を案じる父親みたいだ。

 トギは、コチュンよりも二つ年上で、友達というより兄みたいな存在だ。コチュンは、ためらうことなく打ち明けた。

「実はあたし、皇后さま付きの女中に任命されたの」

「こっ、皇后さまって、あの皇后さま?」

 トギはお茶を飲みながら咳き込み、目を丸くしてコチュンに食いついた。

「マジかよコチュン、あの絶世の美女のお側についてるのかっ? すげえ仕事だな!」

「ただの召使いだよ。けど、皇后さまは人使いが荒くて、とにかく仕事が大変なんだ」

 コチュンがぐったりとテーブルに突っ伏しても、トギは夢見るような表情を崩さない。

「いいなあ、俺も王宮に転職しようかなあ」

「トギ、あたしの話聞いてたの?」

 コチュンが白い目を向けると、トギは誤魔化すように笑ってみせた。茶色い肌に、ハツラツとした笑顔がよく似合う。

「よし、今日はコチュンの出世祝いだ。俺の奢りで、好きなもの食べろよ!」

「出世じゃないんだけど、そこはお言葉に甘えようかな」


 二人の会食は、笑いと愚痴と、ちょっとのため息で締めくくられ、あっという間に帰りの時間がきてしまった。

 店を出ると、初夏の生ぬるい風が吹いていた。

「この前春が来たと思ったのに、もうすぐ夏だね」

「コチュンのおばさんも、同じこと言ってたよ。コチュンに早く会いたいってさ」

 トギが支払いを済ませて、店から出てきた。トギは明日、また田舎まで馬車を走らせる。地方を行ったり来たりの、まるで根無し草だ。

 だけど、こうして田舎の様子をコチュンに教えてくれるのも、大事な仕事だと思っているらしい。

 コチュンは、満面の笑みでトギを振り返った。

「次の冬には帰省できるって、おばさんに伝えて。帰るまでにいっぱい稼いでおくよって」

「いいや、あんまり無理するなよ、コチュン。さっきは店の中だから、大きな声で言えなかったけどさ」

 トギは、急に真剣な顔をして、コチュンの耳元に口を寄せた。

「新しい皇后さま、一部の民衆にはあんまりウケがよくないんだ」

「どういうこと?」

「俺の職場の先輩たちはさ、昔の戦争で、ユープー人に家族を殺されたり、自分が戦ったりしてたんだ。だから、今回のユープーの姫様の輿入れも、調略なんじゃないかって、疑うぐらい毛嫌いしてる」

「でも、ドゥン様とニジェン様の結婚で、みんなあんなに喜んだのに」

 コチュンは戸惑い、視線を下に向けてしまった。その肩を、トギがそっと支えた。

「あんなお祭り騒ぎをされちゃ、ユープーを許せないバンサ人は、黙るしかなかったろうよ。けど、新しい皇后様を疑う連中は、周りにもいっぱいいるんだ。だからコチュン、仕事でもあまり無理はするな。無理だと思ったら、すぐに俺のところに来いよ?」

 コチュンは、トギの顔を見上げた。

「大丈夫、今の仕事楽しいし、お給料もいっぱいもらえるから」

「そこが心配なんだよな」

 トギは困ったように笑い返すと、コチュンを寮まで送り、自分の仕事場へ戻っていった。




 楽しい時間は終わり、いつもと変わらない王宮に戻ってきた。コチュンは明日の仕事に備えて、寝ようと考えていた。

 ところが、寮の玄関口でキラン女中長に呼び止められてしまった。

「コチュン、時間通りに帰ってきてくれて良かったわ」

 キラン女中長は、百人近くいる女中を束ねる、やり手の幹部官だ。そんな彼女に呼び止められたものだから、コチュンは背筋が伸びる一方で、苦虫を潰したみたいな表情を、必死に隠して振り向いた。

「キラン女中長、遅くまでお疲れ様です」

「あなたもね。皇后様があなたをお呼びよ。すぐに蓮華宮にきて欲しいんですって」

「今からですか?」

 コチュンは、真っ暗な窓の外を見た。キラン女中長も、同情するように肩をすくめてみせた。

「皇后様は、よっぽどコチュンに仕事を頼みたいみたいね。大変だろうけど頑張って」

 キラン女中長は言付けを終えると、さっさと寮に入ってしまった。コチュンは、げんなりしながら寮に背を向けた。



 コチュンは女中服に着替えると、急いで蓮華宮へ向かった。扉の前には、ニジェンではなく、ドゥンが火のついた煙草を摘んで立っていた。

「遅かったな、団子」

 ドゥンに呼ばれた途端、コチュンはガクッと姿勢を崩した。まさか皇帝陛下にまで“団子だんご”呼ばわりされるとは。そう仕向けたのは、おそらくニジェンだろう。

 コチュンは気を引き締め直すと、背筋を伸ばして改めて頭を下げた。

「こんな急に呼びつけられたのは初めてなので、身支度に戸惑いました。申し訳ありません」

「皇帝相手にも、しっかり言い返してくるとは、頼もしい限りだ。しかし、厄介な事態が起きた。そこの窓から、部屋の中を覗いてみろ」

 促されるまま、コチュンはこっそり蓮華宮の中を見た。険しい顔をした老齢の男女が、ニジェン皇后の椅子に座っている。

「あれは、ダオウ上皇様とメイ上皇妃様ですよね?」

「王位を退いた老いぼれじじいどもが、礼儀も知らずに急に押しかけて来たんだ」

 ドゥンの吐き捨てるような言い草に、コチュンは思わず目を丸くした。ダオウ上皇とメイ上皇后は先代の皇帝、つまりドゥンの両親だ。なのに彼は、仇を睨むような目をしているではないか。

「団子は知ってるか、ユープー国に、婚姻交渉をしたのは上皇なんだ」

「両国間の平和のために、働かれたお方だと伺っています」

 コチュンが頷くと、ドゥンは鼻で笑って、煙草を足元に落とした。

「和平条約なんて、全くのお飾りさ。あれは、バンサがユープーに対して、有利な立場になるように仕組まれている。ユープーの姫をわたしに嫁がせるという事は、人質を取るも同然なんだ。ユープーにも、婚姻それに同意しなければ立ち行かない事情があったのだろうが」

 ドゥンは、煙草を踏み消してから拾い上げた。黒ずんでよじれた煙草は、壊れた指人形のようだ。まるでそれがニジェンを表しているように見えて、コチュンはゾッとした。

「戦争を回避できたが、いまやユープーはバンサの従属。我が国は、お祭り気分でニジェンを出迎えたが、ユープーでは、葬列のように姫を送り出したらしい。本物の花嫁候補も、大方それを察して逃げたのだろう」

 そこで、コチュンも分かりかけてきた。ニジェンが消えた姫の代わりに人質になり、平和はもたらされた。ニジェンは、それまでの生活も、性別も捨てたのだ。自由を奪われ、たった一人で頑張っている。

「あいつがどんな覚悟で海を越えてきたのか、わかっただろう。もし上皇にニジェンの正体がバレたら、ニジェンは殺され、侵略戦争の口実にされてしまう」

「上皇様は、ニジェン様を疑っているのですか?」

「まだ何も知らないだろうが、時間の問題だ。上皇はユープーを見下している。ニジェンの粗探しをもう始めてるんだ」

 ドゥンは急に顔を曇らせると、声を潜めてコチュンに告げた。

「ニジェンが風呂場から出てこない。きっと、上皇たちの前に出られない理由があるんだ。わたしが上皇たちの気をひく間に、ニジェンに力を貸してやってくれ」


 そのとき、蓮華宮の中から女性の声が聞こえてきた。メイ上皇妃が、息子を呼んでいるのだ。ドゥンは顔をひきつらせると、コチュンを物陰に押しやった。

 その直後、蓮華宮から上皇妃が出てきた。

「ドゥン、ずいぶん長いこと外にいますね。いい加減、煙草なんておやめなさい」

「母上、わたしも、もう子どもではないのですから」

 ドゥンは母親を建物の中に戻すように誘った。最後の瞬間に、コチュンを振り返って声を出さずに口を動かした。

「行け」

 コチュンは、眉を寄せながら、頷くしかなかった。ドゥンも、泣き出しそうな顔をしていたのだ。

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