第3話 こんなの出世じゃない

 晩餐会から数日が経った。

 コチュンはテュシと並んで、堀の中で泥まみれになっていた。

 あの日の夜に、二人はまち針の件をキラン女中長に報告した。案の定、きつーいお叱りを受け、罰として、お堀のどぶさらいを命じられたのだ。

 冬の間に沈んだ落ち葉や枯れ枝を、水の中からすくってゴミに分ける。コチュンの二つのお団子髪は、すっかりびしょ濡れになっていた。

「ごめんね、コチュン。こんなことにまで巻き込んで」

 テュシの背の高い頭でさえ、泥をかぶっている。コチュンは笑って首を振った。

「いいよ。堀の水が濁っているの、前から気になっていたし。解雇されずに済んで良かったよ」

「本当にヒヤヒヤしたわ。わたしのせいで、コチュンが解雇されると思ったもん。それなのに、まさか皇后様付きの女中に、任命されちゃうなんてね!」

 テュシの明るく跳ねるような言い草に、コチュンはギクリと身を強張らせた。テュシは、コチュンの奇妙な緊張に気づいていないようだ。

「コチュンはラッキーだよね、すごい大出世じゃない」

「全然違うよ。こんなの、出世じゃない」

 コチュンは、げっそりしながら笑うしかなかった。


 そのとき、二人の近くの水面が、激しい音を立てて水飛沫をあげた。コチュンとテュシは受け身も取れず、泥水を全身に浴びてしまった。

 すると、二人の頭上から、クスクスと笑う女たちの声が降ってきた。

「あらあ、わたしの捨てたゴミが、水を叩いたかしら!」

 コチュンが堀の縁を見上げると、先輩女中のリタが立っていた。彼女の後ろには、取り巻きの女中たちが、猟犬みたいに並んでいる。

 リタたちは、揃いも揃って嫌味な笑みを浮かべ、手に靴ほどの大きさの石を握っていた。

 コチュンは、頬についた泥を拭いながら声をかけた。

「リタ先輩、何かご用ですか?」

「あなた達が、ここでゴミを集めてると聞いたものですから。わたしたちもお手伝いしようと思いまして」

 リタたちはそう告げるなり、手に持っていた石を、堀の中へ放り込んできた。コチュン達のすぐそばで、水飛沫がいくつも上がった。コチュンとテュシは、またもや泥水を浴び、リタと取り巻きの女中たちは、耳障りな笑い声を響かせた。

 コチュンは顔を拭ってリタを睨んだ。

 彼女のことは、よく知っている。彼女の趣味は、いわゆる “新米いびり” なのだ。

「コチュンは汚れ仕事が似合うわねえ。田舎者のあんたに、皇后付きの女中なんかもったいないでしょ。さっさと田舎に帰って、牛の世話をした方がいいんじゃない?」

 リタの刺すような言い方で、コチュンははっきりと確信した。リタは、新米のコチュンが皇后付きの女中に任命されたことに、嫉妬しているのだ。

 だからと言って、コチュンの単純な頭では、リタに反論しようにも言葉が思い浮かばない。なにしろ、“汚れ仕事が似合う田舎者”とは、パズルのピースのように、コチュンの中にピッタリ当てはまってしまったからだ。

 コチュンは、忌々しい女を睨み返すしかできなかった。


 そのとき、耳障りな笑い声を裂くように、穏やかな声が飛び込んできた。

「コチュン、堀の掃除ご苦労ですね」

 女中たちは、弾かれるように顔を上げた。反対側の堀の上に、ニジェン皇后が穏やかな笑みを浮かべて立っていたのだ。

 テュシの息を飲む音が、コチュンの耳に届いた。女中たちの間には沈黙が流れ、リタでさえ笑うのをやめていたのだ。

「ニ、ニジェン皇后様っ、このような場所に、何用でございますか?」

 リタが慌ててお辞儀をした。その顔には、媚びへつらうような作り笑いが張り付いている。ニジェン皇后は、萎びた大根をかじるようにリタを見て、すぐにコチュンに視線を向けた。

「わたくしは、皇帝陛下からの言付けを、わたくしの女中に伝えるために参ったのです。二人の女中は、堀の掃除をやめて良い。コチュンは、すぐに蓮華宮に参上せよ、とのことです」

 ニジェン皇后の花びらのような唇が、うっとりするような声を響かせた。

 リタと取り巻きの女中たちは、凍りついたように身を強張らせたが、コチュンとテュシは、顔を合わせて笑い合った。

「ありがとうございます、皇后様」

 テュシが笑顔で頭を下げると、ニジェン皇后も穏やかに微笑み返した。

 その直後、ニジェン皇后がリタたちがいる堀の上に視線を動かして、あっ。と口を開いた。

「あなたの足元に、ヒキガエルがいますよ」

 ニジェン皇后が指をさした途端、リタがぴょんっと飛び上がった。

「えっ、どこにっ?」

 だが、そこはぬかるんだ堀の縁。リタは柔らかい泥に足をすくわれ、悲鳴をあげながら堀の中に滑り落ちてしまったのだ。

 コチュンとテュシは、咄嗟に体を背けた。その直後、今までで、一番大きな水飛沫があがった。振り向いてみると、全身、真っ黒に汚れたリタが、呆然とした表情で泥水の中に座り込んでいた。

 頭上からニジェン皇后の忍び笑いが降ってきた。

「ごめんなさい、わたくしの見間違えでした。だけど、カエルみたいにお堀に飛び込むなんて、あなたも泥がお好きなんですね」

 ニジェン皇后が美しく微笑むと、リタは顔を真っ赤にさせて水面を殴った。ニジェン皇后は満足そうに目を細め、今度はコチュンに目線を動かした。

「コチュンは、泥を洗い流し、直ちに蓮華宮に来なさい」

 ニジェン皇后はそう言い残すと、颯爽と歩き去っていった。テュシが、その背中をキラキラした目で見つめていた。

「皇后様が、わたしたちを庇ってくれたよ!」

「そう、みたいだね」

 コチュンはリタの泣き声を背中で聞きながら、皇后が立ち去った後の、真っ青な空を見上げた。




「いやぁ、どこの国にも、ああいう性悪女っていうのは、いるんだなあ」

 蓮華宮にコチュンが参じた途端、ニジェンが声を高らかにしてのたまった。衣装の裾をたくし上げ、長い手足を伸ばしてストレッチに勤しむ姿には、先ほどの見惚れるような美しさは、微塵もない。

 コチュンは、苦笑するしかなかった。

「ニジェン様、さっきのあれはやりすぎです」

「なんだよ、せっかく助け舟を出してやったのに。団子だんごだってスカっとしただろう?」

 ニジェンは楽しそうに答えると、足を開いて屈伸運動を始めた。コチュンはため息をついて、蓮華宮を見渡した。脱ぎ捨てられた衣服や、使いっぱなしの食器、読みかけたまま置かれた本など。いつものように、蓮華宮は外観とは打って変わって、想像しうる限りの物で散らかっていた。

「ニジェン様、さっきから何をなされてるんですか? こんなにお部屋を散らかしてるのに、よく平気ですね」

「美容体操も知らないのか? 皇后のおれは、この美貌を保たないといけないんだよ。団子、喉が渇いた。水持ってきてくれ」

「なんですか、その“だんご”って。わたしの名前はコチュンです」

 コチュンがムッと皺を寄せると、ニジェンは腰に手を当てて踏ん反り返った。

「ぴったりのあだ名じゃないか。バンサの宮殿で、髪を玉に結ってるのは、おまえしかいないだろ?」

 コチュンは思わずもんどりを打った。たしかに、この髪型はコチュンの田舎に残る独特の文化であり、王宮内ではまず見かけない。コチュンだけの姿を言い得ているのは、間違いなかった。押し黙ったコチュンを見て、ニジェンはニヤリと笑った。

「わかったら、水。その次は、掃除。俺の爪を研いて、ついでに肩も揉めよ、団子!」

 ニジェンは、矢継ぎ早に命令を飛ばしてきた。コチュンは親鳥に突っつかれたヒヨコみたいに駆けずり回り、あっという間に堀の中に戻ったような姿になってしまった。

 爪磨きの用具を持って、ニジェンの前に腰を下ろしたときには、すっかり疲れ切っていた。

「人使いが、荒すぎませんか?」

「おいおい、俺は一応、皇后様だぜ? そんな口を聞いていいのかよ?」

 愚痴をこぼしたコチュンに、ニジェンが笑って手を差し出した。コチュンは口を尖らせると、彼の広い手のひらを掴んで、爪を磨いた。

「今のは、ただの事実です。悪口や侮辱は言っていません」

「たしかに、俺も言い返せないな」

 ニジェンが、口の片側を釣り上げて微笑んだ。堀の中で見た皇后の穏やかな笑みとは、まるで違っている。コチュンは、目を丸くして覗き込んだ。

「さっきは、あんなにお綺麗で美しかったのに、今は全然違いますね」

「おい団子、今のは完全に悪口だろ」

 ニジェンに指摘され、コチュンはハッと息を飲んだ。思わずこぼれてしまった本音に、慌てて蓋をしようにも、もう遅い。コチュンは、目を尖らせるニジェンから逃げるように、別の話題を持ち出した。

「ドゥンさまは、いらっしゃらないのですか?」

「ドゥンは一日中、公務とやらに出ている。蓮華宮には夜しか帰ってこない。だから俺は、この狭くて退屈な家に、閉じこもってるしかないんだ」

 ニジェンはそう言うと、椅子にもたれて天井を見上げた。伸びた首筋に、ささやかな喉仏が浮かび上がった。コチュンは、成熟しきっていない体の特徴を見つけてしまい、驚いた。

「ニジェン様って、本当は今おいくつなんですか?」

「外には二十歳はたちと言っているがな、本当は十七だ」

「じゅっ、十七っ?」

 驚いたことに、コチュンと三つしか違わないではないか。コチュンは、あまりの衝撃に目を丸くした。すると、ニジェンが渇いた笑い声をあげた。

「十七にしては、俺ってめちゃくちゃ綺麗だろう。そうじゃなかったら、ドゥンも俺に皇后のフリなんかさせなかっただろうよ」

「い、いえ、わたしが驚いたのは、そういう意味ではなく……」

 コチュンは思わず、グッと息を詰まらせてしまった。

「ニジェン様は十七歳なのに、一日中、皇后のふりをして、この王宮に閉じこもっているのかと思うと……」

 その先は、コチュンも言葉が続かなかった。なにしろ、ニジェンが凄まじい目つきで、コチュンを睨んできたからだ。


 ニジェンは、コップに入った水を一気に飲み干して、ガツンとテーブルに置いた。

「俺を、不憫とでも思うのか?」

「違います、わたしには理解できないような、すごい覚悟を持って、この国にいらしたんだと感じたんです」

 コチュンはそう告げると、ニジェン皇后の爪磨きを終えた。

「時間が来たので、わたしはもう下がります。これから数刻ほどいとまをいただき、王宮の外に出ますので、御用があればキラン女中長にお伝えください」

「俺は、団子以外の召使いをここに呼ぶつもりはない。なのに、お前はどこに遊びに行くつもりだ? 男に会いに行くのか?」

 ニジェンが、わざと嫌味ったらしく尋ねると、コチュンはまたもや、目を丸くした。

「すごい、どうしたわかったんですか?」

「えっ、マジでそういう相手がいるの?」

 ニジェンも、同じ表情を浮かべて聞き返した。

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