第2話 皇帝陛下も噛んでいた
バンサ国に、ユープー国の皇女が嫁いで来たあの日。ドゥン皇帝が、ニジェン姫の黄金色の髪に、バンサ王家の紋章が入った髪飾りを着けた。
その瞬間、国中の民は、花びらを町中に降らせて祝福した。髪飾りを送るのは、バンサ国の伝統的な求婚の印なのだ。
バンサ国とユープー国は、海を挟んで覇権争いを続けた敵同士。その両国間の王族で、婚姻関係が結ばれることは、すなわち、恒久的な平和の到来を意味していた。
そのときコチュンは、少し離れた仕事場から、二人の結婚の式典を眺めていた。平和の訪れに心を踊らせ、麗しい皇帝夫妻に頬を赤らめたものだ。
それが、なぜ今こうなっているのか。
コチュンは座布団も絨毯もない硬い床に座らされ、その頭を、皇后ニジェンが修羅のごとき形相で見下ろしているのだ。
「で、お前は、刺しっぱなしの針を抜くために、忍び込んだわけだな?」
ニジェンは、脱衣所で転んで気絶したコチュンを縛り上げ、罪人への取り調べのごとく尋問を続けていた。コチュンは、ギュッと縮こまって頷いた。
「大変、申し訳ありませんでした」
「嘘は良くないな。本心は、ワタシよりも女中仲間の体裁を守ったってとこだろう? でなければ、忍び込むなんて馬鹿な真似、するはずがない」
なにもかも見透かされ、コチュンは耳まで赤くした。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「お前はそれしか言えないのか。もう何度も聞かされて、いい加減イライラしてきたぞ」
ニジェンの言い草に、コチュンはおどおどしながら目線を上に向けた。
すると、ガバっと両足を開いて座る、ニジェン皇后の姿が目に飛び込んだ。スラリとした背中に、太陽のような肌。顔に無駄な肉はなく、黄金色の長い髪の毛を見事に結い上げている。
だが、ドレスから覗く足には、逞しい筋肉がつき、膝に置いた手の指は、骨ばってゴツゴツしていた。
まるで、男のような。いや、完全に男だ。
意識がそこに向いた途端、コチュンは頭から湯気が出そうなほどに頬を赤らめた。するとニジェンが、コチュンの心を覗き込むように、ずいっと目の前に迫ってきた。
「おまえ、ワタシの体を見ただろう」
「滅相もございません。そんなことは決してありません!」
「そうか。では女同士、一緒に湯浴みでもどうだ。特別にワタシの体を洗わせてやるぞ?」
ニジェンはあからさまな嘲笑を浮かべ、コチュンの貧相な腕をガシッと掴んだ。ニジェンの手のひらは予想外に広くて、コチュンは思わず悲鳴をあげてしまった。
「おっ、お許しくださいませ! コチュンはまだ、十四でございますっ!」
「名はコチュンと言うのか。いいぞ、その反応、わかりやすくて結構だ」
ニジェンは悪魔のような笑い声をあげて、コチュンの体を放り投げるように手を離した。
「嘘が下手すぎるっ! がっつり見てるじゃねえかよ!」
ニジェンは、それまでの品のある振る舞いが嘘のように、大雑把で粗暴な言葉を使いだした。
コチュンは、わなわなと震えながら、必死に口を動かした。
「こ、皇后さまは、やっぱり……お、おと……」
途中で言い淀んだコチュンの言葉を掠め取るように、ニジェンがニヤリと微笑んだ。
「そう、ワタシは、男だ」
にべもなく、ニジェン皇后は正体を明かした。
コチュンは、再び大きく仰け反ってしまった。
「ええええっ?」
「おい、あまり大きな声を出すな! 外の連中に聞かれたらマズイだろう」
ニジェンの広い手のひらが、コチュンの騒がしい口を塞いだ。コチュンは泡を食ったように目を丸くさせたが、すぐに大きな手を押し返した。
「つまりそれは、みんなに嘘をついていると言うことですか?」
「頭の悪い女中だな。そうじゃなきゃ、皇后なんてやってられないだろ」
ニジェンがサラリと答えると、今度はコチュンが彼の逞しい腕を掴み返した。
「なんでわたしたちを騙したんですかっ。バンサ国の民は、あなたが嫁いできたことを、とても喜んでるんですよっ」
「俺だって、女のフリしてバンサになんか来たくなかったよ! しかも新婚夫婦の真似までしなくちゃならないんだぞっ。俺の身にもなってみろ、バカ女」
「さっきから、人のことバカバカって、あなたは一体何者なんですか?」
コチュンが反発して声を荒げた瞬間、二人の背後から、一転して落ち着いた声が、言い争いを両断するように飛び込んできた。
「先程から随分騒がしいな。一体なにごとだ、ニジェン」
その声に、コチュンは弾かれるように振り返った。
黒髪を濡らした半裸の色男が、コチュンを見ていた。がっしりした体躯に、端正な顔立ち。バンサ国の若き皇帝、ドゥンがそこに立っていたのだ。
コチュンは、皇帝の湯上り姿を目にして、思わず悲鳴をあげた。
「ド、ドゥン皇帝陛下っ、も、申し訳ありませんっ」
コチュンはひれ伏そうとしかけたが、一転してガバリと背筋を伸ばした。そして、広げられるだけ両手を広げて、ニジェンを覆い隠すように仁王立ちした。
コチュンの異変に、ドゥンは眉をひそめた。
「浴室で滑って転んだと聞いたが、打ち所が悪かったのか?」
「いえ、わたしはすこぶる元気ですっ。ドゥン様には、今のニジェン様をお見せすることができないのですっ」
コチュンが声の限りに宣言した途端、ドゥンは、はあ、と気の抜けた返事を返し、背後にいたニジェンは、勢いよく吹き出した。ゲラゲラと笑い転げるニジェンに、コチュンはギョッとして叫んだ。
「皇后さまっ、殿方のような笑い方は、おやめください!」
「ニジェン、この女中はさっきから何をしているのだ?」
「笑うなよドゥン、この女中は、俺が男だということを、おまえに隠そうとしているのさ」
ニジェンが答えると、三人の間に一瞬の沈黙が流れた。コチュンは呆気にとられて言葉を失くしたが、二人の男たちは、なんと腹を捩って笑い出したではないか。
「なんて健気な女中だ!」
「俺の正体をお前が知らないと思ったんだろうな」
「おい笑いすぎだ。この女中の良心だ。賞賛されるべき振る舞いだぞ」
「ちょ、ちょっとお待ちください。どういうことですか? ドゥン様は、ニジェン様の正体をご存知なのですか?」
コチュンが二人の間に割って入ると、ドゥンは涙をぬぐいながら頷いた。
「この企ては二人で立てたんだ。じゃないと、バンサとユープーの友好条約が、また白紙に戻ってしまうだろう」
「俺とドゥンは密約を結んだのさ。両国間の平和維持のために、仮面夫婦になろうってな」
ニジェンが口の端を釣り上げて笑った。まるで人を嘲るような表情なのに、さっきのような嫌味は感じられない。コチュンは、言葉を返すのを躊躇しながら、ぽつぽつと答えた。
「つまりドゥン様は、ニジェン様が男性だと知っていて、結婚されたと言うことですか?」
「誤解を招く言い方はよしてくれ。ニジェンが男だと知ったのは、顔を会わせて事情を聞いたときだ。だけど、もしそのことを周囲にバラしてみろ。両国間の関係は、再び悪化する」
「ユープー国だって、花嫁を用意できませんでしたなんて、言えなかった。もし今回の結婚が流れたら、せっかく結びかけた友好関係まで水の泡だ。だから、俺が女のふりをして、ドゥンに頭を下げたのさ」
皇后が皇帝を見る目つきは、恋人のそれではなく、まるで共犯者を見張る監視の目だった。
コチュンは、息を呑みながらニジェンを見た。
「でも、男性が女性のふりをして結婚するなんて、絶対にバレちゃいますよ」
「そう言うお前は、俺の裸を見なければ、男だと見抜けなかったろ?」
図星を突かれて、コチュンは頬を真っ赤にして口を閉じた。するとニジェンは、愉快そうに口を釣り上げて説明した。
「もともとユープー人は、バンサの民より体が大きく骨が太い。それに、両国は今まで交流がほとんどなかったから、ユープーの女が、俺のようなガッチリした体をしていても、不審に思わないだろうと踏んだのさ」
ニジェンの言い分はわかった。しかし、そうすると新たな疑問が湧いてくる。コチュンは、おずおずと切り出した。
「そこまで、バンサ国とユープー国のために体を張るなんて。ニジェン皇后陛下は、何者なのですか?」
「ちゃっかり皇后の席に座れた、
ニジェンは、先程と同じ笑い方でコチュンに答えた。コチュンは、その笑い方の意味を悟った。彼は、他人に嫌味をぶつけているのではない。今の境遇の己自身を、嘲笑っているのだ
「あの、このことを知っているのは、他に誰が?」
「誰も知らない。お前以外はな」
ニジェンが、バッサリと断言した。コチュンはウッと息を詰まらせると、偽りの皇帝夫妻に再び頭を下げ直した。
「本当に、申し訳ありませんっ」
「本当に申しひらきもないよな。まったく……」
コチュンの謝罪を受けて、ニジェンが初めてため息をついた。頭を抑える手つきは気だるく、閉じたまぶたには苦悶のシワが浮かんでいた。コチュンは、その表情を見上げて、胸がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
だが、次に皇后が発した言葉に、すぐさま飛び上がった。
「秘密を守るためだ。いっそのこと、今すぐこの女を縛り首にでもしちまうか」
「そ、それだけはお許しくださいっ。コチュンは、絶対に秘密を漏らしませんっ」
「嘘つけ、お前みたいなチンチクリンが、嘘を突き通すことなんかできるわけがない!」
ニジェンが噛み付くように言い返すと、コチュンは目に涙を浮かべて首を振った。
「わたしには、田舎に病気の身内がいるんです。わたしが稼げなくなったら、治療費が払えなくなってしまいますっ」
「そんなの知ったことか、両国間で戦争が起こるよりずっとマシだろ!」
ニジェンが、美しいドレスをたくし上げて立ちあがり、壁に掛けられていた刀に手を伸ばした。コチュンは息を飲んで涙を浮かべた。
そのとき、二人の間にドゥンが割って入った。
「待てニジェン。ここで女中を斬れば、それこそ大騒ぎになる。もっと賢い選択をしろ」
皇帝に命を助けられ、コチュンはほっと胸をなでおろした。だが、ドゥンはそのままコチュンの顔を覗き込むように座り込み、有無を言わせぬ目で見下ろしてきた。
「名はコチュンと言ったか? 身内の治療費のために働くとは、つくづく健気な少女だ。家族の命がかかっているとなれば、下手な動きは取れないだろう」
「は、はい。命に代えてもお二人の秘密は漏らしません」
コチュンが背筋を正して答えると、ドゥンは笑顔で頷き返した。
「よろしい。では今から、お前をニジェン皇后の直属の女中に任命する!」
「はい、ありがとうございま……」
コチュンは頭を下げ掛けて、はた、と動きを止めた。目線を持ち上げると、唖然としているニジェンの顔が目に入った。
「なんだとおっ?」
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