第26話 不屈の瞳
懐かしい長髪に、波打つような豪華な衣装。紅を差した頬は、花びらのように可憐だ。美しく着飾った頃のオリガが、目の前にいた。
コチュンは、ここが牢屋だということも忘れて駆けよった。鉄格子を挟んで向かい合い、オリガの作り物の顔に、そっと手を伸ばした。
「オリガ、どこも怪我してない?」
「どうして王宮に来たんだ」
オリガは顔を真っ青にし、声を震わせた。コチュンが身をすくめる程に、オリガは激昂していたのだ。
「牢屋になんか入りやがって、お前、どこまでバカなんだよ!」
「最初に牢屋に入ったのは、オリガじゃない」
「だから、あとを追っかけて、牢屋に入りに来たのか?」
「違うよ。わたし、オリガを連れ出そうと……」
コチュンは喧嘩腰の言葉を飲み込み、肩を落として俯いた。大切な役目を、果たせなかった。その負い目だけで、コチュンは今にも死にそうだった。
するとオリガは、深いため息をついて、コチュンの手を優しく握り返した。
「おれは、いいんだよ。この格好を見ろ、また皇后様に逆戻りだ。
オリガは片方の頬で笑ったが、その顔は、まだ色を失ったままだ。コチュンは、オリガの胸に沈むように、鉄格子をにもたれた。
「オリガは、平和を守るために嘘をついたのに。その思いを、別の嘘で覆い隠して死ぬなんてやめてよ」
「これも、平和のための嘘だ。バンサ国とユープー国は、おれの死を取引材料にしたんだよ」
オリガはコチュンの顔を優しく持ち上げると、着飾った自分の姿を見せつけた。
「おれは、和平交渉を妨害した罪人として殺される。本当の身分も、性別も隠したままだ。両国にわだかまりは残るが、王族間の殺し合いの事実は伏せられる。おれは、この死に方が一番いい方法だと思っている」
覚悟を語るオリガは、ゾッとするほど美しく、儚かった。
冬の間、牧地で過ごしたおかげて、身体は逞しさを増し、健全さに溢れている。それを覆い隠すのが、長い髪と豪華な衣装だった。
コチュンは、最初の憧れを憎しみに変えるように、偽物の美しさを握りしめた。
「こんなもの、引きちぎってやりたい」
「最初に頼んだだろ、おれの正体がバレないように、協力してくれってさ」
「わたし、そんな仕事、もうやりたくない。ごめんね、オリガ」
言葉にした途端、コチュンの目からボロボロと涙が溢れ出した。大粒の雫は、オリガの服を濡らした。オリガは、暖かい染みを受け止めるように、コチュンの背中を鉄格子越しに抱きしめた。
「許してやってもいいけど、一つ教えてくれ。どうして、おれを連れ出そうと考えた?」
オリガの声を耳元で聴きながら、コチュンは彼の抱擁に答えた。
「だって、オリガが殺されたら、またバンサ国とユープー国は憎しみ合う。それは、次の戦争のきっかけになっちゃう。だから」
「おいコチュン、お前まで嘘つくなよ。一年も嘘をつき続けたおれには、そんな建前はお見通しだぞ」
ガバッとコチュンを突き放し、オリガは挑むように睨んだ。コチュンの両肩は、しっかり押さえられたまま。コチュンは逃げ場を失って、目を泳がせた。しかし、オリガは容赦なく追い詰めた。
「おれは、コチュンの本音が知りたい」
「わ、わたしは……」
コチュンは胸の奥がギュッとつままれるような、息苦しさを覚えた。オリガの目を見つめ返すと、その苦しみが熱を帯びた。
こんな重い気持ちを、抱えられるはずがない。コチュンは、その思いを、涙と一緒に吐き出した。
「わたしは、オリガに幸せに生きてほしい。ただ、それだけだよ」
言った瞬間、コチュンは身体がふわりと軽くなった気がした。さっきよりも強く、オリガに抱きしめられていたのだ。
「よかった。それが、聴きたかったんだ。この世に一人でも、おれだけの味方がいてくれるって、実感したかったから」
オリガの声が離れると、コチュンは彼を見上げた。
海色の瞳と、山色の瞳が重なり合う。
ニジェン皇后の仮面を被ってたはずなのに、そこにいたのは、コチュンがずっと見てきた、一人の少年だった。
いや、違う。ただ見ていただけじゃない。ずっと、思い続けてきたのだ。
「オリガ、平和よりも、大事なものを選んで」
「それは、できない。おれは、平和を作るのが使命だから」
オリガはコチュンの涙を拭うと、そっと顔を寄せた。そこに、感謝の印をつけられたのは、初めてだった。コチュンからオリガの唇が離れると、再び抱き寄せられた。
「好きだ、コチュン。大好きだよ、死んでもいいくらいに」
吐息のような告白をコチュンの耳に残して、オリガは立ち上がった。コチュンも慌てて立ち上がったが、オリガは鉄格子の奥へ遠ざかっていく。
「待って、オリガ! 平和なんかのために死なないで!」
コチュンが鉄格子を叩いて叫んでも、オリガは止まらない。いつの間にか、牢屋に衛兵たちが集まっていた。衛兵たちは、オリガを牢屋から連れ出した。
オリガは行き先を知っていて、無邪気な笑顔をコチュンに見せた。
「ありがとうな、コチュン!」
オリガはそう言い残すと、衛兵たちに囲まれて、牢屋を出て行った。
シンと冷えた牢屋に、コチュンの咽び泣く声が響き渡った。そこに、重なるように誰かの鼻を鳴らす音が聞こえた。振り返ると、コチュンと同じ牢屋に、テュシが丸まって寝ているではないか。
「テュシ、しっかり!」
コチュンはぐったりしている親友に、急いで駆け寄った。だが、抱き起こそうとした手を、すぐに止めた。テュシの目元は真っ赤に腫れて、声を押し殺して泣いていたのだ。
「テュシ、もしかして、ずっと起きてたの?」
「ごめんね、結構前から起きてた」
テュシは涙をぬぐいながら起き上がると、コチュンを見て再び涙を流した。
「ごめんねコチュン、わたしのせいだ。わたしが、あんなところにいたせいで、キラン女中長に話したせいで、コチュンの計画を台無しにしちゃった」
テュシは赤ん坊のように声を上げて泣いた。
「コチュンが王子様と恋人だなんて知らなかった。本当に、本当にごめんねコチュン」
コチュンは顔を真っ赤にしたが、うまく反論の言葉が出てこなかった。
「こ、恋人ではないよ」
「誤魔化しちゃだめだよ、コチュンは、王子様のこと好きなんでしょ」
コチュンは、こんなに強気なテュシを初めて見た。コチュンが
呆然とするコチュンを置いて、テュシは泣きながら鉄格子に駆け寄った。
「ああ、どうしよう。早くここから出ないと。王子様を助けられないよ!」
泣き崩れるテュシに、コチュンはハッと息を飲んで聞き返した。
「わたしたち、牢屋に入れられて、どのくらい時間が経ってるの」
するとテュシは、身内の死を告げるように、声を沈ませた。
「コチュンは、キラン女中長に毒を打たれて、一晩中寝てしまっていたの」
「ひ、一晩……って」
コチュンは、牢屋に一つだけある通気口を見上げた。そこから白い光が差込んでいる。生まれたばかりの、朝日の光だった。
今日は、処刑の日だ。
処刑台は、王宮前広場に作られていた。
ただ人間を吊るすだけの台座なのに、すでに禍々しい怨念が宿っているみたいに不気味だった。
ドゥンは、仲間を葬る装置を見物し、空を見上げた。観衆に囲まれたこの場所は、あの闘技場にそっくりだった。
「ドゥン様、そろそろ王宮にお戻りください」
後ろから、従者と言う名の監視に告げられた。ドゥンは黙ったまま頷き、踵を返した。
そのとき、広場の向こうに、数台の馬車が走り去っていくのが見えた。
「おかしいですね、市内の商売は全て禁止されているはずなのに」
それを見た従者がぼやくのを、ドゥンはすぐに咎めた。
「今この瞬間にも、赤ん坊が生まれそうな女がいるし、親の死に目に急ぐ者もいる。いちいち目くじらを立ててはいけないぞ。このことを、王宮に報告しなければいいんだ」
すると従者は、目からウロコが落ちたように、素直に頷いた。ドゥンは満足そうに彼の肩を叩き、誘うように王宮に足を進めた。
だが、ドゥンは去り際にもう一度だけ振り返った。
ドゥンの見間違いでなければ、あの馬車は、危篤の人間やお産に臨む女など乗せていなかった。あの馬車が乗せていたのは、人ではなく、言葉だったのだ。
同じ頃、コチュンは牢屋の鍵を外そうと躍起になっていた。細長い枝を錠前に差し、鉄格子を外せないか確かめ、そしてがっくりと肩を落とした。
「誰か、誰かいませんかっ? 無実なのに投獄されているんです!」
テュシは通気口に向かって必死に叫び続けていた。だが、もちろん助けなんて来るはずがない。それでも、コチュンも望まずにいられなかった。
「お願い、誰かきて……」
コチュンは歯を食いしばり、流れそうになる涙を必死にこらえた。
突然、牢屋の入り口が軋んだ音を立てた。コチュンとテュシは、飛び上がってドアを見た。古い扉は、焦らすようにゆっくりと開かれた。だが、そこから現れた顔を見て、コチュンもテュシも、がっくりとうなだれた。
姿を現したのは、先輩女中のリタだったのだ。いや、正確には、元先輩女中の、である。
「こんにちは、お二人さん。牢屋にぶち込まれたって聞いたから、最後に見にきてあげたのよ」
「リタ先輩、どうしてここへ?」
「あんた、これを見ても文句が言えるかしたら?」
リタは自慢げに鍵束を取り出して見せた。コチュンは飛びつくように鍵を見て、再びリタを振り返った。
「お願いします、私たちを出してください」
「ばーか、そのつもりで来たのよ」
思いがけないリタの申し出に、コチュンもテュシも目を丸くした。すると、リタは不服そうに鼻を鳴らした。
「まさか親切心で逃すわけないでしょ。あんたとキラン女中長の話を、部屋の外から聞いてたのよ。あの女、ユープー国の内通者なんでしょ。なのに、わたしをクビにするなんて許せない」
リタは吐き捨てるように罵ると、コチュンとテュシを牢屋の外に引っ張り出した。
「だから約束しなさいよ。あの
執念深くて姑息なリタの性格が、まさかこんな助けになるなんて。コチュンもテュシも受け入れ難いまま佇んでいたが、思い出したように走り出した。
しかし、テュシ足を止めて振り返った。
「だけど、あなたが私たちを苛めたことは、絶対忘れないから!」
「負け犬が吠えてんじゃないわよ。また水ぶっかけられたいの?」
リタが意地悪く笑うと、テュシは悔しそうに顔を歪めた。その手を、コチュンが引っ張った。
今は、いがみ合ってる場合じゃない。
「ありがと、リタ先輩!」
コチュンはぶっきらぼうに言い残して、牢屋を駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます