第13話 女中、解雇通告

 おびただしい血が、オリガの頭から流れだした。崩れ落ちたオリガは、コチュンの呼びかけにも反応せず、桃色の唇もカサカサになっていく。

 ドゥンは肩で息をすると、取り乱すコチュンを、オリガから引き剥がすように抱き起こした。コチュンの視界が一気に広くなる。

 周りには衛兵が集まっていて、看護師を呼んだり、応急処置をしたりしていた。彼らは統制の取れた動きで、オリガを抱きかかえると、そのまま王宮へと走り出した。

 コチュンも後を追おうとしたが、またしてもドゥンに止められた。ドゥンは顔面蒼白で、すがるように夜の曇天を見上げた。

「終わったんだ」



 ニジェン皇后が大怪我を負い、医者に運ばれたという知らせが入るなり、晩餐会は慌ただしく幕を閉じた。

 取り仕切っていたダオウ上皇は、怒りに顔を染め、閑散とした会場の花飾りを、毟り取った。

「ドゥンのアホめが、わしに恥をかかせよって!」

「ですが上皇様、これはむしろ、喜ぶべきことではないですか?」

 側近のサザが、散らばった花飾りを拾い集めて、グシャリと丸めながら告げた。ダオウ上皇は鼻を鳴らし、サザの広い掌から、玉になった花飾りを奪い取った。

「ふん、喜ぶのはまだ先だ。ニジェンの正体は、まだ公表するなよ。ドゥンに王位を退かせたら、直ちにわしがユープーに対して声明を出す」

 ダオウ上皇は、ユープーの楽団が演奏していた舞台に向かって、玉を投げた。

「ユープー国に、条約を破った落とし前をつけさせてやる」

 空中で玉が崩れ、花の飾りが散り散りに落ちた。まるで上皇の門出を祝う花吹雪のようだ。だが、サザは舞い上がる血飛沫を見たように、顔をしかめて俯いた。


 それは、鮮やかな赤だった。

 コチュンは、オリガの頭から流れた血の色を思い出していた。

 あの騒動の後、自分は蓮華宮でも女中宿舎でもない、小さな部屋に閉じ込められていた。どうやら、昔の門番が寝泊まりしていた小屋のようだが、今は埃をかぶって、蜘蛛の巣だらけだ。

 そこへ、膨らんだカバンを持ったドゥンが、人目を避けるように滑り込んできた。コチュンは立ち上がり、掴みかかるように問いただした。

「オリガ様は?」

「今は何も言えない」

 ドゥンは死神のような顔で答え、コチュンの前にひざまずいた。コチュンは先程のように謙遜けんそんすることなく、皇帝の頭頂部に向かって声を張り上げた。

「なんてことをしたんですかっ」

「許してくれ、わたしも気が動転していて、自制が効かなかったんだ」

 ドゥンの顔には凛々しい王の輪郭などなく、コチュンを脅迫し、生贄にしようとした弱い男が浮き彫りになっていた。

 コチュンはドゥンを睨み、吐き捨てるようになじった。

「皇帝のくせに、わたしのような小娘に頼ろうとするなんて、どうかしています」

 すると、ドゥンは今にも泣きそうな声を出した。

「本来なら、わたしは王になるはずじゃなかったんだ」

 ドゥンは、ダオウ上皇の息子として生まれたが、器量も人望も、先に生まれた姉に劣っていた。それに目くじらを立てたダオウ上皇は、ドゥンから王位継承権を剥奪し、姉婿にあたる貴族の男子を、次代の王にしようとしていたのだ。

「しかし、婚姻交渉を進める中で、ユープーから条件が出た。わたしがバンサの皇帝にならなければ、ユープーの姫は嫁がせないと」

 ユープー国の姫が、バンサ国の皇后となる。

 敵対国の人間を王家に迎え入れることに、多くの反対意見も出た。だが、戦争を防ぎ友好関係を築くためには、ユープー国の申し入れを、受け入れるほかなかったのだ。

 ダオウ上皇にしてみれば、相手の条件を飲むだけでなく、期待外れの息子に、王位を継がせることになってしまった。バンサ国に無能な王を立てた後、ユープー国が攻めてくるのではないかと、新たな不安が膨らみ、気が気ではなかっただろう。

 しかし、ドゥンにとっては、嬉しい誤算だった。

「王になれると分かったときは、天にも登る気分だったよ」

 期待外れの出来損ないとこき下ろされ、ゆくゆくは王家からも名前が消される運命だったドゥンは、思わぬ光明にしがみついた。

「わたしは、ニジェンがいなければ王になれない。だから、たとえ奴が男だと分かっても、婚姻交渉を破棄することなんて、出来なかったんだ」

「ニジェン様との結婚は、バンサとユープー、両国の和平のために、オリガ様と画策したのではなかったのですか?」

 ドゥンの言葉を聞くなり、コチュンは体を震わせて問い詰めた。痛みも忘れて、両手にギュッと力が入る。対するドゥンは肩の力を抜き、乾いた笑みを浮かべた。

「おれは、オリガのように気高い志なんて持てなかった。王になれさえすれば、和平など、どうでも良いことだ」

 コチュンは、腹の奥底から地響きのような震えが走るのを感じた。歯を食いしばり、湧き上がる憎悪を外に出してはいけないと踏ん張った。だが、抑圧しきれなかった感情が、煮立った湯のように溢れでた。

「オリガ様を、利用したんですね」

「おれは上皇を見返したかったんだ」

「だけど、あなたは王の器ではなかった。虎の意を借りる、ただの狐だわ」

 コチュンが毒舌を吐くと、ドゥンは悲しげな表情で、静かに頷いた。

「本当に、すまなかった」

 ドゥンは、がっくりとうなだれた。コチュンは怒りのあまり、頭がキンと冷え切ったように感じた。だが、そのおかげで、優先させるべき事案が、はっきりと脳裏に浮かんできた。コチュンはドゥンの前に膝をつくと、弱り切った皇帝に尋ねた。

「これから、どうするのですか」

「万が一に備えて、もしものときのことは、オリガと計画を立てている。これからは王家同士の話し合いになるだろう」

「では、わたしは何をすれば良いのですか?」

 コチュンが、凛とした声を出してドゥンに言った。ドゥンは、意表を突かれたように、視線を持ち上げた。目の前には、力強いコチュンの眼差しがあった。ドゥンは口元を綻ばせると、穏やかに告げた。

「そうか、君もあいつと同じ、そんな人間だったな」

 ドゥンはゆっくり腰を伸ばして立ち上がると、コチュンを上から見下ろして告げた。

「コチュン、君には王宮を出て行ってもらう。ここに君の仕事は、もはやない」

 コチュンは呆気にとられて、ドゥンの顔を見上げた。

「わたしを、クビにするんですか」

「そう、解雇通告だ。だが勘違いしないでくれ。これは、オリガからの頼みなんだ。君を、安全に王宮の外に逃すように言われている」

「そんな、オリガ様が大変なのに、外に出るなんて」

 コチュンは首を振りながら、ドゥンに撤回するようにすがりついた。だが、ドゥンは目をキッと吊り上げると、厳しい口調で突っぱねた。

「君がいても、事態が好転することはない。それよりも、君は拷問や処刑を受けてみたいのか?」

 恐ろしい言葉に、コチュンの胸がズドンと重くなった。自分が王宮に残る意味を考えてみると、悲しくなるほど何もなかったのだ。

 口をつぐんだコチュンに、ドゥンが告げた。

「その扉を開けたら、王宮の外に通じる隠し戸がある。使われなくなって随分経つから、見張りもいないだろう」

 ドゥンは、持ってきた鞄をコチュンに手渡すと、入口とは別の扉の取手を捻った。軋んだ音と大量の埃を撒き散らしながら、錆び付いた扉がゆっくりと開かれる。外は真っ暗で、月明かりもなかった。

 コチュンは唇を噛みしめながら、外の世界へ足を進めた。

「……オリガ様を、よろしくお願いします」

「できることは、全てやる」

 ドゥンは言い残すと、錆びた扉を勢い良く閉めた。埃が夜風に舞い、コチュンの顔の傷を撫でて消えた。コチュンは王宮に背を向けて、真っ暗な道を歩き出した。

 

 こうして、王宮から一人の女中が消えた。



 執務室に籠もっていたドゥンのもとに、上皇がやってきたのは、月がちょうど空の真ん中にきた頃だった。

 ドゥンは青白い顔をして、固唾を飲み込んだ。

「上皇様、夜遅くまでご苦労様です」

「ドゥンよ。お前にはがっかりさせられてばかりだが、今回は心底驚かされたぞ」

 ダオウ上皇は、舐めるような言い方でドゥンの前に腰を下ろし、じっくりと時間をかけながら言った。

「……あの皇后は、いったいどこの誰なんだ?」

 部屋の松明が、ジジジと音を立てて掠れかけた。まるでドゥンの心境を表しているようだ。

 ドゥンは、舌を噛みそうになりながらも、声を絞り出した。

「実は……、わたしも全く知らないのです」

 ドゥンの背中を、一筋の汗が流れて行った。



 コチュンが王宮を出てから数日。ピンザオの市内には、綿のような雪が降り始め、街の露店から、薪木が飛ぶように売れていた。

 コチュンは、ピンザオの下町にある、トギの宿舎に身を寄せた。ここの住人は、みんなトギと同じ乗合馬車の御者ばかり。彼らは顔を隠した小さな元女中を、無条件で招き入れてくれたのだ。

 コチュンは、せめてもの恩返しにと、宿舎内の仕事に手をつけた。冷気を遮るものがない窓に、埃をかぶった馬車のほろでカーテンをあしらったのだ。

 足りない布地は、手拭いや古着の布をつなぎ、模様にように縫い上げた。かつて手拭いを合わせて、ニジェンのドレスに布細工をあしらえたことがあった。そのときの記憶が、コチュンの仕事をはかどらせたのだ。

 出来上がったカーテンの向こうに、見えないはずの王宮の面影が浮かんでいた。コチュンがぼんやりと眺めていると、後ろからトギの声が飛んできた。

「おお、部屋があったかいぞ!」

 仕事から帰ってきたトギは、驚いた声を出して駆け寄ってきた。コチュンの横に並ぶと、見違えるように暖かく、綺麗になった窓を眺めた。

「これ、全部コチュンがやったのか?」

「泊めてもらうお礼に、これぐらいしかできないから」

「めちゃくちゃすごいな、同僚たちも喜ぶよ、絶対!」

 トギは満面の笑顔で告げるなり、コチュンに膨らんだ紙袋を手渡した。

「おれの方も、仕事でちょっとした昇給があったんだ。これはその分の金で買ったんだ。開けてみろよ」

 コチュンは言われるままに、紙袋の中を改めてみた。そして、中身を見るなり、飛び上がりそうなほど驚いた。

「トギ、これ……」

「コチュンに、受け取って欲しいんだ」

 トギは大真面目な顔で、袋の中から見事な金細工の髪飾りを取り出した。

 髪飾りを送ること。それがどんな意味なのかは、この国の人間なら誰もが知っている。

「本当は、もっと前にお前に言うべきだったんだ」

 トギは、唖然としているコチュンを抱き寄せて、川がせせらぐような、優しい声でささやいた。

「コチュン、おれと結婚して、一緒に田舎に帰ろう」

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