第9話 隠しもの見つけた

 黄昏時の薄暗い部屋で、影を帯びたニジェンの顔が、コチュンの顔に近づいた。甘い香りがコチュンの鼻をくすぐった途端、コチュンは悲鳴をあげて、ニジェンの横っ面を押し返した。

「何をするんですかっ」

 コチュンが怒鳴ると、ニジェンは唖然として顔を強張らせた。

祖国ユープーでは、王族を守って怪我をした家臣には、その患部に口付けることが王からの謝辞だったんだ。だからおれも仕来しきたりに沿って、お前の顔にキスをしようと…」

「バンサでは、顔への口付けは深い意味しか持ってません。愛する人にだけする行為です!」

「すまん、そういう感情は持ち合わせていない」

「じゃあ、やめてください」

 コチュンは跳ね上がった心臓を宥めるように、大きく息を吐いた。目と鼻の先には、残念そうに眉を下げたニジェンの顔がある。コチュンは弱りきって、手繰り寄せるようにニジェンの頬を撫でた。

「仕来りなんかなくても、ニジェン様のお気持ちは、確かに受け取りましたから」

 すると、ニジェンはフワリと微笑んでから、コチュンの手の甲を取って、そっと口をつけた。

 日が沈んでいてよかった、と心から安堵した。これが、単なる挨拶程度の意味しかないとわかっていても、コチュンは自分の耳まで真っ赤になったのがわかったのだ。



 それから数日、コチュンは王宮勤を休み、トギの元へ身を寄せた。トギは、

「きっと皇后の暗殺計画に巻き込まれたんだ」

 と持論を展開し、コチュンが再び王宮に戻ることに強く反対した。だが、コチュンには他に高給取りの仕事は望めない。折れた腕を布で吊るし、顔の生々しい傷を包帯で隠し、女中の服に袖を通すしか、選択肢はないのだ。

 バンサの王宮は、闘技場の事故のせいか、警備が厳しくなり給仕人たちも緊張した様子だった。コチュンは包帯だらけの体に女中着をまとったので、すぐに衛兵に止められてしまった。

「わたしは女中です。この怪我だって皇后様を庇ってついたんですよ」

 コチュンは必死に説明したが、衛兵たちには信じてもらえず、門前払いをくらいそうになってしまった。

 ちょうどそこへ、女中仲間のテュシが通りかかった。焦っていたコチュンは、胸が一気に軽くなるのを感じた。

「テュシ、丁度いいところに! わたしが王宮の女中だって証明してくれないかなあ、衛兵に怪しまれちゃって中に入れないの」

 ところが、テュシはコチュンを一瞥いちべつしただけで、顔を背けて走り出してしまった。テュシのキュッと結んだ黒髪が、逃げる子ヤギの尻尾みたいに遠ざかっていく。コチュンがテュシを呼び止めようとしたとき、後ろから聞きなれた声がした。

「コチュン、もう王宮に出てきても大丈夫なの?」

 女中長のキランが、息を切らせてコチュンの元へ駆け寄ってくれたのだ。キランのおかげでコチュンの汚名は晴れたが、コチュンの胸には、嫌なわだかまりが残っていた。



 そんなことがあったせいで、コチュンが蓮華宮の橋を渡り終えると、出迎えたニジェンが怪訝そうに眉をひそめていた。

「顔色が悪いぞ、まだ休んでいた方がいいんじゃないか?」

 テュシの一件で落ち込んでいたコチュンの顔は、ニジェンを見るやいなや、暖炉のように熱を帯びだした。コチュンの脳裏には、手の甲に触れた、ニジェンの口づけの名残が蘇ってきたのだ。

 コチュンは、わざと不機嫌な顔をつくって、答えた。

「けど、わたしが居ないとニジェン様が困るでしょう」

 脱ぎっぱなしの衣服に、使いっぱなしの食器、埃や、紙くず、抜けた髪の毛がコチュンを出迎える。

 と、思っていたのに。蓮華宮の居間はこざっぱりしていて、清潔感を保っているではないか。コチュンが目を丸くしていると、ニジェンがニヤニヤと勝ち誇った顔をした。

「怪我人に仕事をさせるわけにはいかないからな。ドゥンと二人で昨日のうちに片したんだ」

 しかし、コチュンは椅子にかけられた優雅な織り物を、ペロリとめくってみた。すると、埃っぽくて嫌な臭いのするものは、全部その中に詰め込まれていた。コチュンは白い目をして、ニジェンを振り返った。

「この片付けに点数つけるとしたら、五点ですね」

「団子は、相変わらず皇后相手にも強気に出てくるな。わかったよ、やり直すから、どうすればいいいのか教えてくれ」


 その日は、コチュンが椅子に腰かけ注文を飛ばし、ニジェンが腕まくりをして働きまくるという、奇妙な時間が過ぎていった。

 ニジェンは驚くほどに身辺整理が下手くそで、ほうきの使い方も、ゴミの捨て方も、皿の洗い方まで知らないと白状した。コチュンは、ニジェンが服をグシャグシャにたたむ様子を見て呆れ返ってしまった。

「今までどんな生活してきたんですか? 布も畳めない人がいるなんて、夢にも思いませんでしたよ」

 その直後、コチュンはしまったと唇を噛んだ。

 自分は、皇后になる前のニジェンを知らない。政略結婚のために、ユープーの生活を捨ててきた彼に、過去を蒸し返す発言は、あまりにも不躾だと気づいたのだ。

 ところが、ニジェンは乾いた声で笑い出した。

祖国ユープーにいた頃は、闘牛に出すための牛を育ててたんだ。可愛い子牛だったけど、目が強くて、足ががっしりしてて。鍛えれば化けると信じて毎日一緒にいた」

「だから、あの闘牛場でも牛の注意を惹きつけられたんですね」

 コチュンが驚いて頷くと、ニジェンは鼻で笑ってこけおろした。

「だけど、子牛が土俵に上がる前に、おれはバンサに渡ることを決めた。かなり急な決定だったから、子牛の処遇もちゃんとしてやれなくてな。今頃、どうしているかもわからない。牛飼いとしては失格だ」

 ニジェンは、服を畳むのを諦めて丸めると、無造作に箪笥の中に押し込んだ。片付けを無理やり終わらせて、清々しくコチュンを振り返った。

「そういう団子は、女中になる前は何してたんだ」

 コチュンは、言葉を探すように少し間を開けた。

「わたしの家は、小さな土地の領主でした。でも両親が早くに亡くなったので、土地を売ってそのお金で学校に通いました」

「田舎に病気の身内がいるんだろ?」

「母の姉です。身寄りのない私を引き取って、学校に通える歳になるまで育ててくれました。叔母はあまり体が丈夫じゃなかったんですけど、わたしのことをすごく可愛がってくれました。もう一人の母親には違いありません」

 だからコチュンは、叔母に恩を返したい。女中として働くのは、叔母のためだ。そう締めくくって、コチュンはニジェンに笑いかけた。

 ニジェンは、神妙な面持ちでコチュンの笑顔と向き合い、呟いた。

「なかなか大変な人生だな」

「それはニジェン様もでしょう。わたしたちって、運に恵まれていませんね」

 コチュンが皮肉に嘲笑すると、ニジェンは静かに首を振った。

「おれはそうは思わない。幸運ラッキーな方ではないけど、珍しい経験を重ねただけだ。不運なんてものは、自分が不運だと思わなければ、存在しないんだよ」

 ニジェンの柔らかい声のせいで、コチュンは毒気を抜かれたみたいに、口の端が緩んだ。

「そんな風に、考えたことありませんでした」

「一つ賢くなったな」

 ニジェンは最後の服を箪笥に押し込むと、立ち上がってグイッと腰を伸ばした。服の袖から、筋張った肘が覗いた。美しいドレスの下には、硬くてごつごつした四肢が隠れているのだ。

 コチュンは、不運ではないと語ったニジェンの人生に想いを馳せて、尋ねた。

「ニジェンというお名前は、女性の名前ですよね。もし、ユープー国の牛飼いだった貴方にも名前があるなら、教えてください」

 ニジェンはゆっくり振り返り、悲しげに微笑んだ。

「……オリガだ」

 そうやって笑う皇后の顔は、真っ青な海のような、17歳のユープー国の少年だった。これが、本当の彼の姿なのだ。コチュンは、目の奥がジンワリと熱くなるのを感じながら、微笑んだ。

「オリガ様、とても良い名前ですね」

 すると、オリガの口元もほころんだ。



 日が傾く前に、コチュンは蓮華宮を後にした。振り返って手を振れば、扉に寄りかかった皇后が、気だるそうに答えてくる。側から見れば、女友達の挨拶に見えるだろう。同僚のテュシと、交わしたやり取りのように。

 コチュンが橋を渡り終えて王宮に戻ると、若い女中たちがおしゃべりに夢中になっていた。その中心に、コチュンを嫌っている先輩女中のリタがいた。

 久しぶりに同僚と話せると思ったのに。コチュンは肩を落とし、彼女たちの雑音に耳を塞いで立ち去ろうとした。

「見てよ、コチュンが戻ってきたわ」

 しかし、リタのよく通る意地悪な声は、コチュンの耳にぐさりと突き刺さってきた。

「ひっどい顔で、可愛そう。あんなになったら、恋人もできないでしょうね!」

 リタがコチュンの容姿を茶化すと、女中たちは火がついたように笑い出した。リタの後輩いじめは、さらに磨きがかかっていた。

 コチュンは、嫌味の一つでも言い返してやろうと意気込み、振り返って目を丸くした。

 リタの隣に、テュシが並んで立っていたのだ。

 するとリタは、勝ち誇ったように微笑みかけてきた。

「おかえりコチュン、体の具合はもういいのぉ? 落ち武者みたいで不気味なんだけど」

 女中たちはまた笑い出した。テュシの口元も、上がっていた。

 コチュンは弾かれるように顔を背けて、思わず走り出していた。同僚で友達で、親友だと思っていたテュシが、自分をいじめている人たちと仲間になっていたなんて。いくらコチュンでも、簡単には受け流せなかったのだ。


 王宮の一番隅まで逃げたコチュンは、肩で息をしながら壁にもたれてしまった。激しい運動のせいで、腕も顔も、胸の奥までズキズキと痛んでいた。

 こんなことでさえ、オリガは“不運ではない”と言い切れるのだろうか。

 コチュンは恨みのような感情を抱いて、ふらふらと歩き出した。女中の宿舎に戻る気にもなれない。かといって、これから仕事に取り掛かる気力もない。いつも心配してくれていた友達の励ましも、もうないのだ。

 コチュンの目に、ジンワリと涙がこみ上げてきた。

 前を気にする余裕もなかったせいだろう。広い廊下の曲がり角に差し掛かったとき、コチュンは恰幅のいい衛兵と衝突してしまった。コチュンはその反動で転びそうになってしまったが、ぶつかった相手に腕を掴まれた。

「すみません、前をよく見ていなくて……」

 コチュンは振り返って礼を言いかけ、言葉をなくしてしまった。

 そこに立っていたのは、コチュンが闘技場でぶつかり、焼き鳥のタレをつけてしまったあの男だったのだ。

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