第8話 彼女は女神の顔をしてる

 凄まじい破裂音が、稲妻のように響き渡った。皇帝夫妻の特等席が、バキバキと悲鳴をあげて崩れ出したのだ。支柱が真ん中からひしゃげ、傾いた櫓は枯れ木に残った葉のように揺れだした。

 真下にいた観客たちは、一目散に逃げ出したが、櫓の上のコチュンとニジェンに、逃げる暇などあろうはずがない。コチュンはなんとか柱にしがみついたが、縁に寄りかかっていたニジェンは、振り子のように宙に投げ出されてしまった。足が床を離れ、地面に向かって真っ逆さまに落ちようとしている。

 ニジェンの左腕に、コチュンが飛びついた。

「ニジェン様っ!」

 コチュンは両手でニジェンの左腕を握りしめると、グイッと引き戻した。

 ニジェンの体は、コチュンが想像していたよりも、ずっと軽かった。ニジェンは舞い上がったカーテンみたいに跳ね上がり、コチュンはその反動で、空中に押し出された。

「団子っ!」

 千切れそうなニジェンの悲鳴が、上へ消えた。


 次の瞬間、コチュンは頬に鋭い衝撃を受けた。続けて、全身を痛めつけられ、鈍い音が身体中から鳴り響いた。土煙の中をゴロゴロと転がり、ようやく止まった時には、コチュンの焦点は、まるで合わなくなっていた。

「いった……」

 コチュンの口から、自分のものとは思えない、掠れた声が漏れ出た。両腕も両足も、千切れて飛んで行ってしまったみたいに、力が入らない。頭を持ち上げようとしたところで、ヌメヌメした感触が、頬を触った。自分の顔を、真っ赤な血がタラタラと流れているのだ。

 流血に視界を遮られながらも、コチュンは生まれたての馬のように体を持ち上げた。

 すると、視界の隅で黒い塊が蠢いた。コチュンの視線の先に、大きな黒牛が鼻息を荒くさせ、イナゴさながらに飛び回っているのだ。なんの前触れもなく櫓が崩壊したため、錯乱状態になってしまったらしい。

 牛が、コチュンの視線に気がついた。コチュンは息を呑み、咄嗟に血まみれの体を持ち上げた。

 牛は咆哮をあげ、周囲の勢子せごたちをなぎ払った。内臓を身中の虫に食われているがごとく飛び上がり、目を血走らせて走り出した。角の矛先は、コチュンに向かっている。

 コチュンは起き上がろうとしたが、激痛が全身に走り、冷水を被ったように血の気が引いた。よく見れば、腕があらぬ方向に曲がっているではないか。痛みと貧血でコチュンは立ち上がることができない。

 闘技場の観客たちから悲鳴が上がった。コチュンの命は、ここまでに思えた。


 そのとき、凍りついた空気を裂いて、鋭い笛の音が響き渡った。おかげで、コチュンの薄れかけた意識が、一瞬にして呼び戻された。

「それはお前の獲物ではない!」

 崩れかけた櫓から、ニジェンが足場を探して飛び降りようとしていたのだ。思わず目を剥いたコチュンの先で、ニジェンはドレスを羽衣のようになびかせ、土俵の上に転がった。

 ニジェンは土を被りつつも、起き上がるやいなや、指を口に加えて口笛を轟かせた。すると、荒れ狂った牛は耳をパタパタと動かし、視界の中にニジェンを捉えた。ニジェンは、牛の視線を受け止めながら、ドレスの裾を引き裂いて、その中に食べかけの焼豚を包んで結び目を作った。

「さあ、こっちだ!」

 ニジェンは茶色く染みたドレスの裾を、投げ縄のように回し、片方の手で再び口笛を鳴らした。

 その途端、牛が嘶いた。ブルンと頭を振るうと、ニジェンに向けて角を突き出し、勢いよく走り出したのだ。

 ニジェンは“しめた”と言わんばかりに笑うと、踵を返して駆け出した。ところが、ニジェンの足元がグラリとふらついた。ニジェンは、土俵の上に突っ伏すように転んでしまったのだ。

 コチュンの視線の先で、巨大な大牛が、ギロチンの刃のようにニジェンに向かっていく。

「ニジェン様っ」

 絞り出した悲鳴も、牛の蹄の中に掻き消えた。


 その時、牛の両側から縄が飛んできた。勢子の投げ縄が、牛の首を通ってぎゅっと締め付けたのだ。勢子たちが一斉に踏ん張った。牛の勢いが弱まったのを見計らい、何人もの勢子が牛の体に飛びついていく。角や頭を押さえつけられ、牛の勢いが鎮火していった。

 牛が土俵の隅に引っ張られていくと、入れ替わるように、王宮の衛兵たちがなだれ込んできた。その先方にいるのは、ドゥンだ。

「ニジェン無事かっ?」

 ドゥンはニジェンの前に膝をつくと、皇后の剥き出しの足を自分の羽織で覆い隠した。

「まさかこんな事故が起こるとは。皇后に医者を呼んでくれっ」

「それよりもわたくしの女中が大変です」

 ニジェンが悲痛な表情で訴えたのと同時に、土俵中に若い男の絶叫が響き渡った。

「大丈夫かコチュンっ」

 観客席から、衛兵の制止を振り切って、青年が土俵の中に飛び込んできたのだ。彼は一目散にコチュンに駆け寄ると、血まみれの身体を抱き起こした。

「コチュンしっかりしろっ、 おれだ、トギだ、わかるか?」

 トギはコチュンの顔を覗き込み、今にも泣きそうな声で訴えた。コチュンはぼんやりと目を開けると、たどたどしく答えた。

「トギ、ニジェン様は無事?」

「皇后様はピンピンしてるっ、それより、お前が大変だぞ!」

 コチュンは目を動かし、ニジェンを探した。すると、衛兵に守られるように立っている、皇后と目が合った。彼女の顔は、まるで宝物を落とした子供みたいな表情をしているではないか。

 コチュンは思わず、フッと笑い出した。

 ニジェンは、弾かれるように声をあげた。

「急いでお団子に医者を呼んでくれっ、早くしろっ!」

 ところが、衛兵や家臣たちは、土まみれの皇后に心配を向けるばかりで、ただの女中の怪我などには、関心すら寄せようとしない。

 ならば、と。ニジェンは声をあげた。

「わたしなら平気です。それに、最高の薬は、ここにいますから」

 ニジェンは表情をスッと変えると、隣に立っていたドゥンの頭を抱きかかえた。ドゥンが目を丸くした途端、ニジェンは情熱的な口づけをした。

 すると、今まで口々にニジェンに物申していた家臣たちは、顔を真っ赤にさせて黙りこくった。さすがのドゥンですら、狐につままれたみたいな顔をしている。だが、

「ドゥン様、助けてくださって、ありがとうございます」

 ニジェンのつま先に踏みつけられ、ドゥンはハッと背筋を伸ばした。

「あああ当たり前だ、妻を守るのは夫の務め。皇后の介抱はわたしに任せて、お前たちは負傷した女中の介助をしろ。今すぐ女中に医者をよこすんだ!」

 ドゥンに命令され、家臣たちは慌ただしく動き出した。だが、会話の流れを聞き取れなかったトギは、今の光景を目にして、怒りのままに拳を振り上げていた。

「ふざけんじゃねえぞ色ボケ夫婦! こんなところでいちゃついてる暇があったら、今すぐコチュンに医者を呼べ、クソッタレが!」

 ニジェンは、顔の泥を払うふりをして、唇をゴシゴシ擦りながらトギを睨んだ。人の事情も知らないで、なんだあいつは。ニジェンは思わず肩をいからせて、コチュンのもとに駆け出した。



 王宮に戻るやいなや、コチュンは医務室に運ばれ、治療を受けることになった。痛み止めや解熱剤を投与されると、ぼんやりしていた視界も、随分ハッキリしてきた。

 だが、ニジェンは手当を終えたコチュンを見て、言葉を失った。

 腕の骨折だけではない。コチュンは顔の右側に、大きな傷をこさえてしまったのだ。

「……団子、その顔……」

「幸い、頭の骨は無事でした」

 笑って答えるコチュンの顔が、半分見えない。覆い隠すように巻かれた包帯が、傷の惨さを語っていた。きっと、傷跡は残るだろう。

 しかしコチュンは、ニジェンの前で誇らしげに胸を張ってみせた。

「お医者様が言っていました。あそこから落ちて、骨折一本と頭の打撲だけで済んだのは、奇跡だって。わたし、運動神経だけは良いみたいです」

 ニジェンは、コチュンの自慢には無言を貫き、医務室にいた医師たちに外に出るように促した。最後の一人が出て行き、パタンと扉が閉まるやいなや、ニジェンは顔をくしゃっと歪めて、コチュンを睨みつけた。

「……なにやってんだよ、お前」

 ニジェンは絞り出すように呟くと、診療台に腰掛けているコチュンに、歩み寄った。

「なんであのとき、おれを助けた」

「なんでって、ニジェン様は、すごいお人だから……」

 コチュンが困惑しながら答えると、ニジェンは片方の眉を釣り上げた。

「そんなもんのために、死ぬような真似するんじゃねえ!」

「あなたは、わたしより価値のある人です。平和のために身を捧げ、バンサ国の皇后を演じ続けるなんて、あなたしかできないことです」

「お前が死んだら、お前の幼馴染の男はどう思う。田舎の身内は、悲しいなんてもんじゃ済まねえだろうが。 お前はいつも、考えが足らねえんだよっ」

 こんなに怒ったニジェンを、コチュンは初めて目の当たりにした。それに、ニジェンの目の中には、涙まで滲んでいたのだ。

「ど、どうしてニジェン様が泣くんですか」

「こんなことで、そんな傷をこさえて……。お前、ほんとうに、バカだよ。ほんとうに、ほんとうに……」

 ニジェンの頬を、堪え切れなくなった涙が伝い出した。ニジェンは崩れるように膝をつき、頭を下げた。

「ほんとうに、すまなかった」

 コチュンは慌てて診療台を飛び降り、ニジェンの前に膝をついた。

「やめてください、あなたはこの国の皇后ですよ。それに命を救われたのは、わたしの方です。ニジェン様が牛の気をそらしてくれなかったら、今頃……」

 コチュンは、自分が牛に突き飛ばされる光景を思い浮かべて、ブルリと身震いした。

 だが、ニジェンは涙で濡れた目でコチュンを見ると、静かに顔を振った。

「もし、おれが櫓から落ちて怪我をしていたら、今頃は医者の前で服をひん剥かれていただろう。何もかも、お終いになるところだった」

「……まさか、闘技場での出来事は、ただの事故ではないってことですか」

「断言はできないが」

 ニジェンは神妙な面持ちで答えると、安心させるようにコチュンに微笑みかけた。

「とにかく、団子のおかげで救われた。ほんとうに、ありがとう」

 そして、包帯と薬品臭いコチュンの顔に、そっと唇を寄せた。

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