第11話 仮面舞踏会

 上皇への不安が拭えないまま、時間だけが過ぎた頃。民衆の間で、まことしやかに囁かれる、ある話のたねがあった。

 春に嫁いできたニジェン皇后に、冬になってもご懐妊の知らせがない、という話題だ。

 “皇后と皇帝は、不仲に違いない”

 そんな噂が、王宮内にまで流れだしていた。

 この無神経な人々のせいで、ニジェンは蓮華宮に引きこもるようになった。誰に何を言われるか、わからない。そんな不安まで、病巣のように膨れ上がっていたのだ。


 だからこそコチュンは、皇后と二人きりになると、こぞって本当の名を呼んだ。

「オリガ様、白い冬鳥を見に行きましょうよ」

 名前を呼ぶと、ニジェンの強張った皇后の仮面が剥がれ、彼の本当の顔が現れる気がするのだ。

 だが、オリガは寝そべるように座りながら、ぐったりと返事をした。

「悪いが無理だ。言っておくけど、上皇のせいじゃないぞ。バンサの冬が寒すぎるからだ」

「本当に寒くなるのはこれからですよ? ユープー国の冬は暖かいんですね」

「ユープーは島国で、ぐるりと暖かい海に囲まれている。だから、バンサほど冷たい風はふかない」

「羨ましいなあ。わたしの田舎は、冬になると雪に囲まれて、陸の孤島になっちゃうんです」

「同じ島でも、まるで違うな」

 オリガが皮肉を込めて笑ったのを、コチュンは笑顔で受け止めた。

「何か温かい飲み物を作ります」

「腕は大丈夫なのか」

「元どおりに治すためにも、腕は動かした方がいいらしいので」

 コチュンは胸を張ると、湯を沸かす準備を始めた。せめて自分だけは、オリガが冬を越すための、火種にならなければ。そんな思いが、腕の鈍痛を抑え込んでいた。


 ところが、二人のなけなしの心がけは、ドゥンが持ち帰った知らせによって、粉々に砕け散ってしまった。

立冬りっとうの日に、上皇が晩餐会を催すと言ってきた。しかも、王宮の庭園での、野外パーティーだと」

 ドゥンは疲れ切ったように椅子に沈むと、青くなった妻の顔を見上げた。

「どうするニジェン。上皇の晩餐会には、皇后も出席しなければならないぞ」

「待ってくださいドゥン様、立冬の日って、急すぎるじゃないですか!」

 同席していたコチュンは、こらえきれずに二人の会話に割って入った。なにしろ、立冬は明後日だ。

「そのうえ野外で晩餐会なんて。寒さに弱いニジェン様に嫌がらせをしているんじゃないですか?」

「察しがいいな、団子。上皇の狙いはそれだ」

 コチュンは思わず言葉を失い、縋るようにオリガを見た。だが、オリガは強気な顔で笑った。

「いい暇つぶしにしてやろうぜ」


 とは言ったものの、なんの手立てもないまま、当日を迎えてしまったコチュンは、不安で不安で仕方がなかった。オリガの体に晩餐会用のドレスを着つけることになっても、口数は少ない。

 しかし、最後の仕上げに差し掛かったところで、コチュンの指先が違和感を拾った。オリガの体は、以前に衣装を着付けたときよりも、かなり細くなっていたのだ。

「オリガ様、なんだかお痩せになられましたね。前に着付けた衣装が、お身体に合いません」

 コチュンはすぐに針と糸を取り出し、もたついた衣装の丈を始末した。オリガは鏡を見て、思わせぶりに腰を揺らした。

「コチュンはいつも手際がいいな。おかげで、おれの女らしさも一層増したな」

「オリガ様は、この国で一番の美人ですよ」

「当たり前だ。この美貌は生まれつきもあるが、日々の努力の賜物たまものだぞ」

 胸を張って答えるオリガに、コチュンは乾いた笑いで答えた。

「オリガ様の完璧主義は、一から十まで細部に渡っていますもんね」

「その通りだ。だからお前の化粧も、おれがやってやる」

 コチュンは、目を丸くして振り返った。オリガは、化粧台の前にしゃなりと立つと、コチュンに座るように促した。

「団子も一緒に晩餐会に出てもらう。ドゥンから聞いていないか?」

「初耳ですよ。絶対に無理です。わたしが晩餐会なんて、豚に真珠もいいところです」

「どっちかっていうと、月にスッポンって感じだな」

 オリガは冗談を返しつつ、無理やりコチュンを引き寄せて、化粧台の前に座らせた。そして、鏡の中のコチュンを覗き込んだ。

「どうして、晩餐会なんて無理だと思うんだ?」

「だってわたし、綺麗じゃないし、地味だし、田舎者だし……」

 コチュンが下を向くと、オリガは吠えるように息を吐いた。

「あのな、おれだって化粧落とせば、それなりに野郎の顔してるし、美貌だって半減する。つまり、団子だって少し頬に色を挿せば、どっかのお姫様みたいに変われるってことだよ」

「でも、この顔じゃ無理ですよ」

 コチュンは、顔半分を覆っている包帯に指を這わせた。骨折は治ってきてはいるが、顔の傷跡は、包帯を外せる状態じゃない。コチュンは俯くと、それっきり口をつぐんでしまった。

 オリガは、沈んだコチュンを威勢良く笑い飛ばし、花瓶に挿されていた、サザンカの花を持ってきた。

「おれに任せろよ。顔を飾るのは得意なんだぜ」

 キザっぽく笑ったオリガの顔に、コチュンは引きつった笑みを返した。



 日が暮れると同時に、上皇の晩餐会が幕を開けた。

 何十本もの松明が、王宮の庭を煌々と照らし出し、招待された王族や貴族たちが、荘厳な毛皮を、鎧のように肩に乗せて歩いている。主催者である上皇は、庭園の真ん中に妻と並び、連客人たちを出迎えていた。メイ上皇妃は、手を揉み落ち着かない様子だった。

「ニジェンは来るでしょうか。バンサの皇后として、はずかしめのないように振る舞ってもらわなくてはならないのに」

「大丈夫だろう、ドゥンがしっかり言い聞かせているはずだ」

 ダオウ上皇は、密かに微笑んだ。

 そのとき、サザが影のように寄ってきた。

「皇帝夫妻がお目見です」

 上皇は、獲物を見つけた猟師のように、ゆっくりと振り返った。

 礼服を纏ったドゥンが、妻のニジェンの手を引いて、庭園のど真ん中を歩いてきた。

 ニジェンのドレスは、生地が生きていると見紛うほどに滑らかで、歩くたびに、息を呑むほど神秘的な美しさを放っていた。

 メイ上皇妃は言葉を失ってニジェンを見つめ、ダオウ上皇は、無表情の顔を益々硬くした。

「やっと来たな、出不精の我が子たち」

 ダオウ上皇が皮肉を囁くと、ドゥンとニジェンは、恭しく頭を下げて挨拶を告げた。

「晩餐会にお招きいただき、光栄です」

 ニジェンが鈴の音のような声で答えると、ダオウ上皇はむっつりしたまま頷いた。

「お前の後ろに控えているそれは、何者だ?」

 ダオウ上皇は、ニジェンの付き人に目を向けた。編み込まれた二つのお団子髪に、顔の半分を覆う、花や絹で飾った仮面。晒された半分の素顔は、龍宮に住むと言われる乙姫のようだった。

 ニジェンは得意げに微笑むと、付き人の少女を抱き寄せた。

「これは、わたくしの女中でございます」

「コチュンと申します、上皇様」

 コチュンはからくり人形にように、ぎこちない挨拶をした。

「この子が、お前を闘技場の事故から救ったという女中か。まるで息をする花飾りだ」

 ダオウ上皇は、コチュンの顔を覗き込むように腰をかがめた。ダオウ上皇の低い単調な声の前に、コチュンは思わず一歩下がり、深々とおじぎした。

 それが撤収の合図だと言わんばかりに、ドゥンが割って入った。

「それでは父上、今宵の晩餐会、楽しみにしております」

「そんなに早く逃げようとするな、ドゥン。臆病風に吹かれるのは、お前の良くないところだぞ」

 意味深な言葉で呼び止められ、三人は思わず心臓が凍りつきそうになった。

「お前たちに会わせたい客人がいるのだよ」

 上皇が手を振った途端に、見慣れぬ衣装の楽団が、ずらりと並んだ。コチュンは、それがだれなのか分からず、思わず眉を寄せてしまった。ところが、肩が触れたニジェンの腕が、カチカチにこわばっているのに気がついて、反射的に顔を見上げた。ニジェンは、嬉しさと恐ろしさが入り混じった、複雑な顔をしていた。

「あなたたちは、ユープー国の、王宮楽団の面々ですね」

 ニジェンが言い当てた途端、楽団員たちは、一斉に顔を輝かせた。

「覚えてくださっているとは、なんたる光栄でしょうっ」

 年配の楽団員が声をあげ、にこやかに頭を下げた。

 そのわずかな隙間に、コチュンとドゥンは顔を見合わせた。バンサとユープーは、ほとんど国交がなく、ニジェンが偽物の姫君でも、正体が男でも、バレなかったのだ。

 ところが、ユープー国からの使者が相手では、オリガの嘘が通じるはずがない。それに彼らは王宮楽団。本物のユープー国皇女の顔も知っているはずだ。コチュンの掌は、嫌な汗でじっとり濡れた。

 しかし、次に顔を上げたユープーの楽団員たちは、しっかりとニジェンの顔を見上げた後に、満面の笑みを浮かべてみせた。

「ニジェン姫君は、相変わらずお美しい。ユープーにいた頃と同様に、健やかなご様子で安心いたしました」

 その途端、顔色を変えたのは上皇だった。信じられない、と言わんばかりの目の色で、楽団員とニジェンを皇后に見比べている。ニジェンは、ダオウ上皇の困惑に気づかないふりをして話を続けた。

「はるばる海を渡ってきてくれて、どうもありがとう。楽団の演奏を、楽しみにしています」

 ニジェンの歌うような言葉に、楽団員たちが夢見るような表情を浮かべた。だが、次に彼らが発した言葉に、ニジェンは思わず顔を固くさせた。

「良いお世継ぎを御生みください、ニジェン皇后陛下」

 楽団員たちは、心の底から平和を願って、そう告げたとよくわかる。ニジェンは、戸惑いを気取られないように、優雅に頭を下げると、取ってつけたように、上皇にも頭を下げた。

「わたくしのために、祖国から来賓を招いてくださって感謝します、上皇様」

 ニジェンが小さくお辞儀をすると、ダオウ上皇は、口元だけでにっこり微笑み、ニジェンの顔を忌々しく睨みつけた。

 おそらく上皇は、ユープー国の使者なら、ニジェンの正体を暴けるとたかをくくっていたのだろう。しかし、楽団員たちは、目の前のニジェンが本物のユープー国の姫だと信じ切っていた。

 理由はわからないが、ひとまずこの晩餐会で、一つ目の危機はやり過ごしたようだった。



 晩餐会はつづがなく進み、王宮の召使いたちが、松明に何度目かの薪をくべ始めた。

 コチュンは会場の隅っこに佇みながら、その光景をぼんやりと眺めていた。本当ならオリガと一緒にいるべきなのだが、彼は上皇に呼ばれて、ユープー王宮から招かれた楽団の演奏を、目の前で聞くことになってしまった。さすがに、新米女中のコチュンを、上皇がいる主賓席には連れていけない。ニジェンを守る大仕事は、ドゥンに任せるしかなかった。

 手持ち無沙汰なコチュンは、まるで埃を被った花瓶みたいだ。会場の端っこに立ち、誰の目にも留まらない。

 コチュンがモジモジと手をこまねいていると、聞き慣れた声がコチュンの背中を叩いてきた。

「あらコチュン、今日は一段と綺麗じゃない!」

 先輩女中のリタが、意地悪な顔をしてコチュンを睨みつけていたのだ。

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