第4話 近江家の人たち

 帰りの道はあまり混んでいなかったようで、三十分ほど車を走らせて着いた場所は、住宅街の一角にある立派な一軒家だった。

 薄々気づいていたけれど、由吉ゆきちさん、もしかして結構なお金持ち?

 まぁ、少なくともうちの親にお金を貸せるくらいには余裕があるのは分かっていたので、それほど驚きはしなかったけれど。


「さぁ、ここが今日から愛美まなみちゃんが住む家だよ」

 扉の前で、にこにこしながらそう言う由吉さんは、立ち止まったまま扉を開けようとはせず、わたしに「どうぞ」といわんばかりに手を広げていた。


 わたしに扉を開けろ、ということだろうか?

 全く知らない家の扉を開けるというのは、違和感というか、ちょっとした気持ち悪さもあったけれど、他人の家の前でずっと突っ立っているほうが不審者に思われかねないので(通報されたら由吉さんがかわいそうだ)、わたしがおそるおそる扉を開けると……。



「愛美ちゃん! 近江家へようこそ!!」



 パァン! という空気がはじける音とともに、私の目の前で色とりどりのリボンが宙を舞っていた。

 いきなりのことに、固まってしまっているわたしに最初に声をかけてくれたのは、優しい顔立ちをした女性だった。


「愛美ちゃん、いらっしゃい。長旅で疲れたでしょう?」

 由吉さんとはまた違う、女性特有の母性溢れる雰囲気をもつその女性は、わたしに近づいてきて、優しく微笑みかけてくれた。

 わたしがそんな彼女と一方的な握手を交わしていると、また別の人物が声をかけてきた。


「愛美ちゃん。父さん、君に迷惑かけなかったかい?」

 彼は眼鏡をかけた男の人だった。由吉さんと同じくらい背が高かったけど、端正な顔立ちで、たぶん高校生くらいだと思う。


「それがさー、パパったら一時間も愛美ちゃんのこと待たせたらしいよ! 女の子を待たせるなんてほんっと男として失格だよ!」

 そして、その男の人の隣で怒っている女の子は、少し茶色が混じってウェーブのかかる髪の毛が特徴的な子だった。年齢はわたしと同じか、年下のようにみえる。

「あっ、愛美ちゃん。あたしがパパに教えてあげたクレープ食べた?」

「あっ、はい……。ごちそうになりました」

 女の子の質問は、念のため敬語で対応しておいた。

「おっ! どうだった? ういちゃんオススメのクレープの味は?」

 頬と頬がくっつくんじゃないかと思うほど顔を近づけてくる。


 そんな彼女の名前は、ういちゃんというらしい。

 そういえば、由吉さんからその名前を聞いたような気がする。

 得意げな顔で見つめてくる憂ちゃんに、わたしはどうしたらいいのかと困っていると、先ほどの眼鏡の男の人が彼女の服を引っ張りながらため息をついた。


「ごめんね愛美ちゃん。うちの人たちって、僕以外はだいたいこういう感じの人たちだからさ。ちょっと騒がしいけど勘弁してね」

れんお兄ちゃん! あたしはね、愛美ちゃんとあまーい女子トークをしようとしてるの。邪魔しないでよねっ」

 ねー愛美ちゃーん。と人なつっこい笑顔でそう言われたけれど、わたしに会話を振られるのは非常に困る。

 そんなわたしの心境を悟ってくれたのか、はたまた憂ちゃんの扱いが慣れているのか、眼鏡の男性、蓮さんは憂ちゃんをそのまま引っ張って後ろに下げさせた。


「だから、愛美ちゃんを困らせるなって言ってるだろ」

 蓮さんは指で眼鏡の位置を直しながら、わたしに目線を送ってくる。

 その瞳は、まるでわたしを吟味しているように、じっと見つめてくる。

 しかし、蓮さんはすぐに先ほどの笑みを戻して、会話を再開させた。

「よし、せっかくみんないることだし、改めて自己紹介しようか」

 そんな蓮さんの言葉に最初に反応したのは、由吉さんだった。


「はいはーい、それじゃ、まずは僕からね! 僕は近江由吉。今年で四十二歳の厄年だよ」

 私の後ろで、由吉さんが勝手に自己紹介を始めてしまった。

 っていうか、名前はさっき聞いたから由吉さんの自己紹介は必要ないんだけど。

 厄年なのは知らなかったけれどさ。

 そして、由吉さんに続くように、おっとりした笑顔を浮かべる女性が「はい」と手を挙げて、口を開く。


「私は近江おうみ久瑠実くるみ。由吉さんの妻で、この子たちのお母さんです」

 優しそうな微笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げる久瑠実さん。


「んじゃ、次はやっとあたしの番だね。あたしは近江おうみういだよ! 今年で中学一年生になりましたー。えっへん」

 どうよ、といわんばかりに胸を張る憂ちゃん。その仕種が、逆に子供らしいと思ってしまった。


「それじゃ最後は僕だね。僕は近江蓮(おうみれん)。高校二年生だよ」

 よろしくね、と眼鏡の奥から見える瞳からは、久瑠実さんの微笑みと同じ感覚があった。どうやら、蓮さんが久瑠実さん似で、憂ちゃんが由吉さん似みたいだ。


 そんなことを考えていると、目の前にいる三人が、わたしに期待を向けるような目線を送ってきていた。


「ほら、次は愛美ちゃんの番だよ」

 後ろにいた由吉さんが、わたしの肩に手を置いて、話しかけてきた。


「あっ、えっと……」

 どうしよう、さっきは由吉さん一人だったから何とか自分の名前を言えたものの、わたしは会話というものが苦手だし、それ以上に、こんな大勢(四人でもわたしにとっては『大勢』だ)の中で、自分のことを紹介するなんて……。


 数秒間、沈黙が続く。


 それでも、由吉さんたちは何もいわず、困ったような顔も浮かべないで、にこにこしながらわたしを見つめる。


 このままじゃ埒があかない。

 そう思ったわたしは、震える声を振り絞って、なんとか言葉を紡いだ。


「遠野……愛美です。今日からよろしくお願いします」


 これが、わたしの精一杯の自己紹介だった。

 自己紹介どころか、自己表現もできていないひどい有様だったので、恥ずかしくて一刻もここから立ち去りたい気持ちになってしまった。


「わーい、愛美ちゃん! 愛美ちゃんは今日からあたしのお姉ちゃんだよ! ねぇねぇ、これからは愛美お姉ちゃんって呼んでいいかな!」

 しかし、そんな感傷に浸る余裕もなく、憂ちゃんが靴置き場を裸足のまま降りてきてわたしに抱きついてきた。


「あっ、ずるいぞ憂! お父さんも愛美ちゃんに抱きつきたい!」

「あらぁ由吉さん……。それは妻としても、母親としても聞き捨てならないお話ですねー」

「いやいや! そういう意味じゃないよ久瑠実さん!」

 ゴゴゴ、と優しい目を向けているはずなのに、どうしてか目の前で不穏なオーラを放つ久瑠実さんに対して、必死で弁解を試みる由吉さん。


「愛美ちゃん、こんな騒がしい家族だけど、これからもよろしくね」

 無邪気に抱きついてくる憂ちゃんに困りながらも、小さな声で呟いた蓮さんの言葉がわたしの耳に届いた。


 今日から、この人たちと暮らすのか。

 わたしが知らない、家族の形。

 きっと、これが普通で、ごく当たり前の家族なのだろう。


 背負っていたリュックサックが、ちょっとだけ重くなったような気がした。

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