第3章 ともだちになりましょう

第9話 陰鬱な朝と同級生の影

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 わたしは、見慣れた天井を見つめながら、そう思った。


 見慣れた天井?


 そんなはずはない。


 だって、わたしは、もう、この家にはいないはずで……。


 ああ、そうか。

 これは、夢なんだ。

 遠い遠い、過去の記憶だ。


 あの日の記憶が、またしてもわたしを苦しめる。

 だから、もうすぐ聞こえてくるはずだ。


 ガシャン!

 ガシャンガシャン!

 ガシャンガシャンガシャン!


 ほら、聞こえてきた。


 これは、お父さんが、食器を壊している音。

 そして、お母さんの悲鳴のような声も、一緒に聞こえてくる。


 お父さんは、ただただ乱暴に、食器を床に叩きつける。

 同時に、こんな台詞を叫ぶのだ。


 ――どうして、あいつは……。


 やめて、お父さん。

 お願いだから、それ以上は言わないで。



 ――どうして、あいつは■■■■■■■■■!!


〇 〇 〇


「愛美ちゃーん! 朝だよー!」

 痛い頭を押さえながら身体を起こすと、無精ひげを生やしたままの中年の男性が爽やかな笑みでこちらを見ていた。

 ああ、はいはい。このパターンね。


「……おはようございます、由吉さん」

 さすがに二回目だったので、免疫がわたしの中で付いてしまったのかスムーズな対応をすることができた。

 なるほど、これが人間の進歩ってやつか。


「うん、おはよう!」

 わたしなんかより数倍元気な声で挨拶を返してくれる由吉さん。

 どっちが子供かわかったものではない。

「いやー、昨日は相当疲れているように見えたからね。どう? 体調は大丈夫?」

 ああ、由吉さんなりにわたしを気遣ってくれているんだと実感する。

 どうやら昨日のわたしは、相当ナイーブになってしまっていたらしい。

 これだけ能天気な由吉さんにすら気を使われてしまうのだ。憂ちゃんはともかく、蓮さんや久留実さんには余計な心配をかけてしまっているかもしれない。これは反省しなくては。


「はい、一日寝たらすっきりしました」

 というわけで、いつも通りに思ってもいないことを口に出す。

 本当は、全然すっきりなんてしていないけれど、目の前の人がこうでも言わないと引き下がってくれないというのを既にこれでもかというくらい思い知らされているので、自分なりの精一杯の元気のある声で言ってみた。けれど、正直ただの無理している人にしか見えないだろう。

 だが、由吉さんには、こんなわたしの態度でも通用するらしく、「よかった! それじゃ下で待ってるよ!」と、昨日とほぼ同じやり取りをしてわたしの部屋から出て行ってしまった。


 もしかしたら、隣の部屋から憂ちゃんが出てくるまえに退散したかったのかもしれないけれど。まぁ、理由はなんであれ、とにかく一人になれた。

 正直にいえば、まだ少し頭痛がする。

 ついさっきまで何だか嫌な夢をみていたような気がするのだが、上手く思い出せない。

 それとも、わたしが思い出したくないだけなのか……。


 いや、もう気にするのはやめようと、わたしは部屋のクローゼットから、まだ着なれていない制服を取り出して、上のパジャマを脱いだときだった。

「あっ、そうだ! 愛美ちゃん! 今日は久瑠実さんが昨日のうちに作ってくれたプリンがあるんだよ! 早くみんなで食べ……」


 勢いよく扉を開けた由吉さんと対面する、下着姿のわたし。

 うん、もうこの展開も慣れてきちゃった。


「ごっ、ごめん!」

 そう言って、バタンと扉を閉めた由吉さんだったけど、わたしの部屋から慌てて出て行くところを憂ちゃんにバッチリ見られてしまっていたらしく、結局、わたしがリビングに着いたころには、朝から久瑠実さんの前で正座をさせられている可哀そうな由吉さんの姿を見るはめになってしまった。


〇 〇 〇


 そんないつも通りのトラブルがあったものの(もう『いつも通り』と表現している自分がちょっと怖い)普通に登校してきたわたしを待ち構えていた試練は、意外なものでもあったし、必然だったかもしれない。


「あっ、あの! 遠野さん!」


 クラスに入った瞬間、前髪にヘアピンを付けた女の子に話しかけられた。


 わたしが声を掛けられる理由なんて、転校生としてまだクラスに馴染めていない子のために同級生が気を使って話しかけてきた、というシチュエーションくらいだろうけれど、今回はそうではないことはすぐにわかった。

 何故なら、その子は昨日憂ちゃんと遭遇した、万引きと勘違いされてしまった女の子だったからだ。

 えっと、名前は確か……。


「倉敷さん……だっけ?」

 人の名前を覚えるのは苦手だけど、確かそんな名前だったはずだ。

 すると、どうやら正解だったようで、彼女の顔に赤みがかかる。

「うん! ちゃんと覚えててくれたんだ……」

 あっ、別に忘れててもよかったのか、と半ば後悔しながら、彼女はわたしに名前を憶えてくれていたことが余程嬉しかったのか、そのまま頬を紅潮させながら話を続けた。


「あのね、昨日……ちゃんとお礼言おうとしたのに言えなかったから……」

 お礼……ねえ……。

 照れくさそうにする倉敷さんには申し訳ないのだが、未だに転校生という少し目立った立ち位置にいるわたしは、これ以上クラスの人たちから注目されたくなかったので、早々に話を切り上げるように努める。


「あのさ……昨日のことならもういいよ。わたしも好きでやったわけじゃないから」

 これはわたしの紛れもない本音。

 巻き込まれたというのならば、わたしだって倉敷さんと同じ被害者だと訴えてもいいくらいだ。

「それに……お礼なら、一緒にいた子にしてよ」

 これも、昨日と全く同じ台詞だった。

 面倒事を押し付けるようで悪かったが、憂ちゃんなら、わたしと違って彼女の厚意を真摯に受け止めるだろう。

 残念ながら、わたしは他人からの厚意さえ、気持ち悪いと思ってしまう人間なので、倉敷さんに嫌な思いをさせてしまっても困る。

 お互い、距離感をもって接することが大切だ。

 しかし、そんなわたしの心境が分からないようで、席に着こうとしたわたしを阻むように、道を開けてくれない倉敷さん。


「でも、せっかく同じクラスなわけだし、わたしは……遠野さんにもきっちりお礼がしたい」

 この子は、『小さな親切、大きなお世話』という言葉を知らないのだろうか?

 ただ、倉敷さんの意思は強いようで、わたしが適当なことを言ってはぐらかしても、納得してくれそうな様子はない。


 さて、どうしたものか。

 ここで、変に見繕っても問題を先延ばしするだけなのは目に見えている。

 ならば、ここできっぱりと、関係を絶っておいたほうがいいだろう。

 わたしは、教室にいるクラスメイトたちに聞こえないように配慮しつつ、倉敷さんにお願いした。

 お願いというには、やや乱暴な口調で、彼女に告げる。


「お礼がしたいっていうのなら、今後一切、わたしに声をかけないで」

「……えっ?」

 冷たく言い放ったその言葉に、倉敷さんの表情が強張る。

「それじゃあね、倉敷さん」

 そのタイミングを見計らって、わたしは倉敷さんの横を通って席に着いた。

 それでも、倉敷さんはわたしの席のところまでやってこようとしていたようだけれど、結局は自分の席に戻った。


 そうだ、これでいいんだ。

 わたしは誰とも関わらない。

 誰とも仲良くならない。

 そう決意して、ここに来たんだ。


 幸い、倉敷さんはクラスでも目立つ存在ではないと思うので、先ほどのわたしの態度を流布するようなことはしないだろう。

 誰とも仲良くするつもりはないが、クラスメイトから『生意気な転校生がやってきた』なんて思われるのも癪だ。


 よし、学生は学生らしく、今日も勉学に勤しもう。

 そんなわたしの気持ちと連動するように、学校のチャイムの音が教室に響く。

 そして、寝癖がついたままの担任の先生の話を聞き流しながら、気持ちを切り替えて、一時限目の授業の準備をする。


 わたしは、鞄の中から乱暴に教科書を取り出した。


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