第8話 近江家の食卓
憂ちゃんとわたしが近江家に戻ってくると、すでにリビングからはカレーのいい匂いがしていて、反射的にお腹が鳴ってしまいそうだった。
だが、そんな呑気な感想とは裏腹に、玄関まで出迎えてくれた久瑠実さんは、とても心配そうな顔だった。
「憂ちゃん! こんな遅くまでどこに行ってたの! 携帯に連絡しても全然返事来ないから心配していたのよ!」
今にも娘に抱き着こうと云わんばかりの勢いだった久瑠実さんだったけど、憂ちゃんは「いやー、携帯の充電切れててさー」と、実に呆気らかんとした態度だった。
その様子に毒牙を抜かれたのか、久瑠実さんは大きくため息をついたあとに、わたしのほうに目線を向けた。
「愛美ちゃん、ごめんね。この子のわがままに付き合ってくれていたんでしょ?」
柔らかい笑みを向けながら、そう言ってくれる久瑠実さん。
その態度に、妙に気恥ずかしくなってしまったわたしは、
「いえ……別に……大丈夫です」
と、そっけない返事をしてしまった。
でも、それで満足したのか、久瑠実さんは笑みを崩さないまま、わたしたちにこう告げる。
「お腹、すいてるでしょ? そろそろ蓮くんも由吉さんも帰ってくるから、二人とも夕食の準備、手伝ってくれないかしら?」
はーい、と返事をした憂ちゃんと一緒に、わたしは、久瑠実さんと夕食の手伝いをした。
久瑠実さんのいう通り、すぐに蓮さんと由吉さんが帰って来たところで、食卓には今日の晩御飯が並べられた。
さすがにカレーは一人一皿だったが、サラダは相変わらず大きなボウルに入れられて、そこから、それぞれ取っていくという方式だった。
これ、相手に遠慮して自分が欲しい量が取れないから止めて欲しいんだけどなー、と思いつつも、家庭のルールに居候のわたしが口を挟めるわけもないので、黙秘を貫く。
わたしはこう見えて、結構我慢強いのだ。
いただきます、と皆で言って(こんなやりとりでさえ、わたしにとっては新鮮だ)食事が開始されると、早速、近江一家の会話も弾んでいく。
話題を振ったのは憂ちゃんで、内容は、もちろんほんの数時間前に遭遇した、万引き犯(万引き仕立て上げ犯?)の事件についてだった。
かなり大袈裟に言っている部分があったものの、語り部としては、申し分ないくらい、話し運びが上手という意外な一面を見せる憂ちゃんだった。
「それでね! 愛美お姉ちゃんがビシッっと言い放ったんだよ!『犯人はお前だっ!』って!」
言ってないよ。
わたしのキャラが全然違うじゃないか。
それに、『犯人はお前だっ!』なんて、多分一生、使うことのない台詞なんだけど。
「おおっ! 凄いじゃないか愛美ちゃん!」
しかし、由吉さんは娘の発言に一切の疑いを持たず、嬉しそうにわたしのほうを見て屈託のない笑顔になった。
「愛美ちゃんは、かなりの洞察力を持っているみたいだね。正直、僕が現場に居合わせていても、そこまではすぐに考えなかったと思うよ」
蓮さんも、感心したような口ぶりでわたしを褒めた。
「でも、世の中には悪いことを考える人がいるものね。ちょっと怖いわ」
久瑠実さんが、頬に手を当てながら困ったような表情でそう呟くと、由吉さんがドンと胸を叩きながら、言い放った。
「なに、心配しなさんな! 家族の誰かがピンチのときは、必ず父さんが駆けつけてあげるからな!」
しかし、そんな勇ましい父親の様子に、息子と娘は冷たい眼差しを向ける。
「えー、パパじゃ頼りないよー」
「僕も憂に同意です。父さんが来ても、余計に状況をややこしくしそうです」
「こら子供たち! 一家の大黒柱になんて酷いことを! 父さんだって、やるときはやるんだぞ!」
「まぁまぁ、落ち着いてください。私は由吉さんのこと、頼りにしていますよ」
「おおっ、ありがとう久瑠実さんっ!」
夕食中、近江一家は食卓を囲みながら、だいたいこんな感じの会話を繰り広げていた。
もちろん、わたしは一言もしゃべっていないし、「この人たち、よくご飯を食べながら会話できるな」と、見当はずれな感想を抱いていた。
気が付けば、わたしは皿に盛られていたカレーを、食べ終えてしまっていた。
おかわりする気にはとてもなれない。
早く、この場所から離れたかった。
わたしは、小さな声で「ごちそうさま」と呟いて席を立った。
「愛美ちゃん、大丈夫? 何だか疲れているみたいよ?」
そうわたしに問いかけたのは、久瑠実さんだ。
おっとりしていて、久留実さんは鋭いところがある。
「いえ……。初めてのことばかりだったので疲れちゃって……少し部屋で休んできます」
「愛美ちゃん。あまり無理をしちゃいけないよ。今日はただでさえ憂のわがままに付き合ってくれたんだ。大変だっただろ?」
蓮さんまで、心配そうな声色でわたしを気遣ってくれたが、「ちょっと蓮お兄ちゃん。それってあたしが悪者みたいじゃない!」と、憂ちゃんに噛みつかれてしまったので、すぐにわたしから意識を外してくれた。
由吉さんもなにか言いたそうにしていたけれど、
「それじゃ、ゆっくりしておいで。お風呂が湧いたら呼びに行くから」
と、わたしに告げるだけだった。
わたしは、ぺこりと頭を下げて二階へ上がる。
ベッドの前にたどり着いたときには、限界だった身体を乱暴に放り投げる気力しか残っていなかった。
カレーは美味しかったはずなのに、今は全く味を覚えていなかった。
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