第5章 おはなしをしましょう

第15話 連絡先の交換

 気が付いたら、わたしはベッドの中で、震えていた。


 やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。


 何度もそう呟いているのに、誰も聞いてくれなくて、遠くからモノが壊れる音が聞こえてくる。


 どうして?


 どうしてこんなことになっちゃったの?


 寒くもないのに、身体が震えて、歯ががくがくと震えた。


 おねがい、だれか……。


 ガバッ、とわたしを守ってくれていた布団が、剥ぎ取られる。


 溜まっていた涙をこすって見上げると、そこにはお母さんがいた。


 今までわたしの前で、見せたこともない、無感情な表情だった。


 そして、お母さんは、わたしを見下すような視線を向けて、言った。



 ――どうして、あんたなんか■■■■■■■?


〇 〇 〇


「イヤッ!」


 跳ね起きたわたしは、うるさく鼓動する心臓を抑えながら、息を整えようとした。

 汗でぐっしょりと濡れた自分の身体が気持ち悪くて、胃に残ったものを全て吐き出しそうになるのをなんとか堪える。

 全く、なんて夢を見させるんだ。


 大丈夫。

 ここは、あのときの、あの場所じゃない。

 耳を澄ませても、何も聞こえない。

 そして、お母さんもいない。

 だから、大丈夫。


 そう自分に言い聞かせているうちに、頭に張り付いていた景色が消えていく。

 呼吸もうまく元のようにできることを確認すると、随分と気持ちも落ち着くことができた。

 机に置かれている時計を見ると、時刻は六時を過ぎたくらいで、窓のカーテンからも、朝の日差しが漏れていた。いつもより早く起きてしまったらしい。

 だけど、二度寝するには、中途半端な時間だった。

 仕方ないから、学校に行く準備をすることにしよう。


 部屋の鍵を閉めて(さすがのわたしも学習はするのだ。こういうときに限って、由吉さんは来なかったが)制服に着替える。

 一週間も経てば、知らなかった制服も着慣れるものだ。

 そして、そのまま部屋でゆっくりしようと思ったのだが、どうしても喉が渇いてしまって、わたしはリビングに向かってしまった。

 すると、キッチンにはちょうど朝食を用意している久留実さんの姿があった。


「あら? 愛美ちゃん……? 今日は早いわね……」

「……ええ、ちょっと目が覚めて」

 わたしは適当な相槌を打ちながら、冷蔵庫から麦茶を頂く。

 今は家族全員分のお弁当を作っているようで、卵焼きの美味しそうな匂いがただよってくる。

 その家族分のお弁当に、わたしの分も含まれていることに、わたしは目を背けそうになってしまった。


「そうだ、愛美ちゃん。愛美ちゃんは何かお弁当に入れてほしいものはあるかしら?」

 わたしの視線に気づいたのか、笑顔でそう問いかけてくる久留実さん。

「……いえ、久留実さんの作ってくれるものは何でも美味しいですから、大丈夫です」

「あら~、そんなこと言ってくれるなんて、とても嬉しいわ」

 わたしの言葉を素直に受け止めて、久留実さんは朗らかな笑顔を浮かべる。

「でも、食べたいものがあったりしたら、いつでも遠慮なく言ってね。私もお弁当のメニューを増やすことができるから」

 そう言ってくれた久留実さんに、わたしは「検討しておきます」なんて堅苦しい返事をして、キッチンから出て行った。


 わたしのお弁当を作ってくれるなんて、これもまた随分と久しぶりだったはずなのに、わたしの生活の当たり前になって来ている。

 それがどうしてか、わたしは受け入れることができないでいる。

 どうしてなのか、自分でも分からない。

 近江家の人たちは、決して悪い人じゃないってことは、嫌というほど思い知らされた。

 本当に、嫌というほど。


「……くっ」

 今日の朝に見た夢と、近江家で過ごしたこの一週間が交互に再生される。

 わたしにとっては、どっちの世界も、好きになれそうにない。

 いつになったら、わたしは普通に暮らせる場所を見つけられるんだろう。

 考えたくもないことを考えてしまう、そんなくだらない早朝になってしまった。


 その後、部屋で適当に時間を潰したあとに、再びリビングに向かう。

 久瑠実さんがつくってくれた朝食を食べて、学校に向かう。


 これも、慣れてしまった風景。

 慣れてしまってはいけない、風景。


 わたしは、この家族に混ざってはいけない。

 カンバス描かれた美しい絵に、黒いインクが一滴垂れていたら、それはただの汚れたカンバスになってしまう。

 そんなこと、絶対に、許されることじゃない。


「愛美お姉ちゃん、どうしたの? 怖い顔して……」

 登校中、どうやらわたしに何かを話しかけていた憂ちゃんが、心配そうな顔をしている。

 わたしは、きちんと相槌を打ってあげていなかったらしい。

「なんでもないよ。ちょっと疲れただけだから」

「そうだよねー、月曜日って、元気出ないよねー」

 憂ちゃんはわたしの言い訳を都合よく解釈してくれたようで、大袈裟にため息をついた。


「そうだ、愛美お姉ちゃん。スマホ、ちゃんと持ってきてる?」

「うん、持ってきてるけど……」

 すると、憂ちゃんはちょっと言いにくそうに、話を切り出した。

「うーんとね、昨日設定した通信アプリなんだけど、アレ、通知来ても、音が鳴らないようにしといたほうがいいよ」

 何故か憂ちゃんは、背伸びをしてわたしの耳の近くで、そっと囁く。

「パパね、私たちが学校行ってるときも、どーでもいいこと報告してくるの。ママが上手く返信してくれているから、基本、返信しなくてもいいけれど、たまにテキトーに相手してあげないと拗ねちゃうんだよねー」

 ほんと、どっちが子供なのかわかんないよー、と愚痴っぽく溢す憂ちゃんだったけど、少し自慢げにしているような話しかただった。


「わかった、ありがとう」

 えへへ、と隣で笑う憂ちゃんの助言に従って、わたしは通知アプリの設定をし直しておくことにした。

 それは、スマホを買ってもらったばかりのわたしには、丁度いい操作練習の時間となった。


〇 〇 〇


「あっ、愛美ちゃん。スマホ持ってたんだ……って、どうしたの?」

 昼休み、智子と一緒に体育館の横のベンチでご飯を食べているところ、何気なく取り出したスマホの画面を見て、わたしは愕然としたまま、智子に問いかける。


「ねぇ……。通知件数が121件って……異常だよね……」

「……うん、異常だね」


 ですよねー。

 珍しく、智子が引いているのがわかった。

 もしかしたら、スマホ初心者のわたしの感覚がおかしいのかもしれないという可能性は、これで消失した。


「変な通知だったら、見ないまま消しちゃったほうがいいよ……」

 心配してくれているのか、智子が不安そうな声で聞いてきたけど、お生憎様、迷惑メールみたいな類のものではないのだ。

 いや、迷惑であるのは間違いないのだけれど……。

 憂ちゃんの忠告を聞いておいて、本当によかったと思いつつ、わたしはそのアプリで展開されているやり取りを確認した。


『今日、職場に行くとき黒い猫が横切った! こわいっ!』

『大丈夫ですよ、由吉さん。今日もお仕事頑張ってくださいー』

『ありがとう、久瑠実さん! みんなも気を付けろよ』

『はーい。ってか、猫が横切っただけで大げさすぎ(笑)』

『いやいや、迷信って油断してたら怖いんだぞー』

『父さん、心配しなくても、ある地域では黒い猫が横切ったら、幸福の訪れの兆候なんていいますよ』

『あら? ということは由吉さん、今日はラッキーな日なのかもしれませんよ?』

『おおっ! そうだったら嬉しいな!』

『じゃあパパ、運試しに宝くじ買ってきてよ。もちろん当たったら私のお小遣いだからね?』

『よしっ、じゃ、帰りにロト6買ってくる!』


 この後も、どの数字を選んだらいいのか、などという、世界一どうでもいい家族会議が開催されていた。

 それゆえの通知121件である。

 …………何やってんだろ、この人たち。

 っていうか憂ちゃん。わたしには通知を切るように指示しておきながら、自分はちゃんと返信してるじゃないか。

 まぁ、あの子はなんだかんだ言って、家族のこと好きだからな。

 わたしとは、大違いである。


「ふふっ、何だか楽しそうな人たちだね」

 智子はわたしが触っていたスマホの画面を覗きながら笑みを溢していた。

 ここは、「人のスマホの画面を勝手に見るのはマナー違反だよ」と忠告してあげるべきかもしれなかったが(今まで携帯を持っていなかった人間でもそれくらいは知っている)彼女の楽しそうな顔を見ていると、怒る気にもなれなかった。

「変な人たちだよ、ホント……」

 だから、せめてもの反抗として、わたしは疲れた声でそう呟いた。


「……あのさ……愛美ちゃん」

 すると、智子が少し言い淀んだ感じで口を開いた。

 いつのまにか、智子は右手に先ほど持っていたお箸ではなく、赤いケースカバーの付いたスマホを持ち出していた。


「わたしたちも、連絡交換とか……してみない?」


 言いにくそうに、そう智子は切り出した。

「……なんで?」

 わたしは、そんな智子に冷たく質問を返した。

 わたしの態度があまりよろしくないのを察してくれたのか、しゅんと項垂れる智子。

 だけど、完全には引き下がらなかった。

「その、やっぱりお互い連絡取り合えるようにしておいたほうが友達っぽいかなって」


 うん、それは、確かにそうだ。

 だが、そこまで、智子との友達関係を徹底する必要があるだろうか?

 昼食を一緒に食べてくれるのも助かるし、教室で二人一緒にいるのも一人で寂しくニヒルを気取っていた以前の学校生活よりも、楽ではある。

 だけど、さすがにそこまでは……。


「やっぱり、駄目だよね……。お互い干渉するのはなしって、最初に決めたし……」

 そう言いながら、智子はスマホをポケットに直そうとした。

 その表情は、酷く悲しく、心を打ち砕かれたかのようだった。


「……別にいいけど」

「えっ?」

 そんなに意外だったのか、智子は一瞬だけ身体をビクンと反応させる。

 わたしは、それを気にすることもなく捲し立てる。

「連絡先……交換するのは別にいいってこと。智子のいう通り、友達なら連絡先知ってないと可笑しいし、わたしの連絡先登録、この人たちに見られる可能性あるし……。そのときにクラスメイトの名前がひとつもなかったら怪しまれるでしょ?」


 自分で言ってて、ちぐはぐな弁明だと思う。

 第一、由吉さんたちがわたしに秘密でスマホの中身を見るなんて、あり得ないことだ。

 でも、こういう風に言い訳を並べないと今のわたしのこの気持ちをどう表現していいのか、わからなくなってしまう。

 もしかして、このわたしは『友達の期待に応えたい』なんて思っているのではないのか? なんて可能性を、考えたくもなかった。


「……どうしたの? やるならさっさとやろうよ。連絡先の交換」

「うっ、うん! そうだね!」

 戸惑う智子を急かして、わたしたちは連絡先を交換しあった。 

「学校が終わっても、少しだけなら、連絡してもいいかな?」

「……くだらないことじゃなければ」

「でっ、できるだけ努力します」


 そう言った智子の表情は、とても満足げだった。

 そんな智子を見て、わたしの心にも、何かが生まれたような気がしたのだが、それはすぐに霧散して、ちりぢりになって消えてしまった。

 きっと、もう一度拾い集めても、元の形に戻すことは不可能だろう。


 わたしは初めて『友達』と連絡先を交換した。奇妙な充実感を得たのは、きっと気のせいだろう。

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