第20話 思い出がわたしを苦しめる

 放課後、逃げるように教室を後にしたわたしは、フラフラと街を彷徨っていた。

 もちろん、『逃げるように』というのは、霧島や伊丹からではない。あいつらに怯えるくらいなら、死んだ方がましだ。


 わたしが逃げてきたのは、自分自身の心だった。


 くそっ、どうして智子のことを考えるだけで、こんなに苦しくなるんだ。

 今のわたしは絶対におかしい。

 街を歩いていると、色々なことを思い出す。

 そんな風に、ぼうっ、と徘徊していたはずなのに、いつの間にか、初めて智子と出会った文房具屋にも立ち寄ってしまっていた。

 文房具屋は、今日も制服を着た女の子たちで店内を埋めていて、一人でいるのはわたしだけだった。


 店内の喧騒の中、茫然と立ち尽くすわたしは、ふと考える。

 もしも、わたしがあのとき、智子を助けなかったら、あの子はどうなっていたのだろうか……。

 いや、あの子のことだけじゃない。

 わたしはどうなっていたのだろう……。

 智子は、わたしを正義のヒーローのように慕ってくれていた。


 でも、違うんだよ、智子。

 やっぱりアレは、わたしがあんたを助けたんじゃないんだよ。

 でも、あんたはそんなことを言っても、全然聞いてくれないだろうね。

「ありがとう愛美ちゃん」って、いつものように笑って言ってくれるだけなんだろうね。


 でも、ごめん、智子。

 わたしは、あなたのそんな感情を、受け止めきれない。

 わたしなんかが、受けていいものじゃないからさ。

 だから、わたしの選択は、正しかったんだ。

 あんな形になってしまったけれど、あの子と離れて、正解なんだよ。


「ああっ、もう!」

 本当に、今日のわたしは、どうかしている。

 こんなんじゃ、わたしという存在が、おかしくなってしまう。


「……って、おかしいのは、元からか」

 そう呟いたけど、わたしの言葉を聞いてくれる人なんて、誰もいなかった。

 とにかくわたしは、智子のことを思い出さないよう躍起になった。

 街を歩いて、あるいてあるいてあるいてあるいて、彷徨い続けた。

 だけど、この街には、智子との思い出が多すぎた。

 どこにいっても、あの子の顔が脳裏に過ぎる。

 そして、もうわたしには行く当てがなくなってしまった。

 だから、わたしはもう戻ることしかできなかった。

 あの人たちがいる、あの家に。


「あら、おかえりなさい。今日は早かったのね、愛美ちゃん」

 玄関を開けると、エプロン姿の久瑠実さんが出迎えてくれた。

「……はい、今日は友達がいなかったので」

「そう。それなら連絡してくれればよかったのに。蓮くんも憂ちゃんも、帰ってくるのが遅くなるって言ってたから、お菓子用意してないの。ごめんね、愛美ちゃん」

 申し訳なさそうに、頬に手を当てて困ったような表情で謝ってくる久瑠実さん。

「いえ、わたしのことは気にしないで下さい。わたしも連絡していませんでしたから」

 本当は、スマホのアプリの連絡で、蓮さんも憂ちゃんもいないことがわかっていたので、わたしは早く帰ってきたのだ。


 この家なら、智子との思い出はないから……。

 あの子のことを考えずに、済むような気がしたから……。


 わたしは、お弁当箱を久瑠実さんに預けて、そのまま部屋へと引きこもった。

 制服のまま、ベッドに潜り込んで布団を被る。

 そうすると、心が少し、落ち着いてくるような感じがした。

 独りの世界でも、ちゃんと生きていけるような気がした。

 大丈夫、わたしは大丈夫だからと、いつものように自分に言い聞かせる。

 そして、そのまま夢の中へと逃げ込もうとした瞬間、コンコンッ、と扉を叩く音がかすかに聞こえた。


「愛美ちゃん、ごめんなさい。ちょっと部屋に入ってもいいかしら?」

 久瑠実さんの声だった。

「部屋に……ですか?」

「ええ、少し、お話がしたいの」

 久瑠実さんが、由吉さんのように、いきなり部屋に入ってくる人ではないのが救いだった。

 わたしは、先ほどまで自分が包まっていた布団を元に戻して、扉を開けた。

 すると、久瑠実さんはいつものような優しい笑みをしていたけれど、物悲しい瞳で、わたしに告げた。


「愛美ちゃん、もしかして、体調が悪いの? 今日のお弁当、全然食べていなかったから」

 その言葉を聞いて、わたしは「しまった」と言いそうになったのを堪える。

 すっかり忘れてしまっていた。

 本当は、こういう展開にならないように、中身は全部捨てるつもりだった。

 お弁当を残したことを不審に思われないよう、変な気遣いをさせないつもりだったから、下校するときに、どこかのコンビニのゴミ箱にでも捨てるつもりだったけど、最終的には、それができなかった。

 昔のわたしなら、なんの躊躇もなく、それを実行に移せたはずなのに……。


「ごめんなさい……ちょっと、食欲がなかったので」

 しかし、失敗をいつまでもひきずっていても仕方がない。ここは、病気ということにしてその場を乗り切ろうとした。

「そうなの……それじゃ、今日はお粥にしましょうかしら」

「いえ、ゆっくり寝たら大丈夫だと思います。気を遣わなくも大丈夫ですから……」

「そう……ちょっとごめんね、愛美ちゃん」

 久瑠実さんは、自分のおでこと、わたしのおでこをぴたっとくっつける。

「……うん、熱はないみたいだけど、気分が優れないなら、ゆっくり寝ておいたほうがいいかもしれないわね。また夕食になったら呼びにくるけれど、無理に下に降りてこなくていいからね」

 笑みを浮かべながら、わたしにそう言ってくれる久瑠実さん。

 良かった。失敗したと思ったが、むしろ事態はいい方向に進んでいるのかもしれない。

 さすがに今日は、あの家族の食卓に肩を並べるのは、精神的に無理だった。


「愛美ちゃん……ちょっとごめんね」

「……えっ?」

 思わず、わたしは呆気に取られて声を漏らしてしまった。


 何故なら、久瑠実さんがゆっくり、わたしの身体を包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめたからだ。


「くっ、久瑠実さん……」

 咄嗟のことで、思わず声をあげてしまったわたしに構うことなく、久瑠実さんはそっと耳の近くで呟く。

「愛美ちゃん。悲しいことがあったなら、私にちゃんと言ってね。あまり頼りにならないかもしれないけど、何でも相談してくれていいから」

 久瑠実さんがわたしを抱く力が、ちょっとだけ強くなったような気がしたけど、全然痛くなくて、それどころか、ずっとこうして欲しいとさえ、思ってしまった。

 わたしを押さえつけていた胸の痛みが、和らいでいく。

 だけど、久瑠実さんはわたしを解放して、にこっと微笑んだ。


「はい、これで少しは元気出たかな?」

 わたしは、何も答えずに、ただ下を向くだけだった。

 それでも、久瑠実さんは満足したのか、「ゆっくり休んでね」とだけわたしに伝えて、部屋から去っていった。

 わたしは、放心状態のまま、ベッドに潜って、顔を埋める。

 久瑠実さんは、わたしの様子がおかしいことに、気づいている。

 それなのに、無理に問い詰めることはなく、わたしを見守ってくれている。

 その優しさが、わたしにとっては、毒にしかならないはずなんだ。


 だって、わたしは家族なんて、大嫌いだから。

 温もりも、愛も、団欒も、全部ぜんぶ、嫌いなはずなのに……。


 心のどこかで、それを求めてしまっている自分がいる。

 あの日、わたしが家を出ていくときに捨てると決めてしまったものを、わたしは、求めてしまっている。


 ああ、わたしはなんて、弱い人間なんだろう。

 こんなのだから、いつまで経っても、一人で生きていけないのだ。


「……勘弁してよ、もう」

 ……止めよう、深く考えるのは。

 わたしは、瞼をゆっくり閉じて、逃げるように自分の世界へと落ちていった。

  

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