第17話 映画館と図書館

「お待たせ。ちょっと準備に手間取っちゃった」

 えへへ、と照れくさそうにする智子は、いつものヘアピンをつけた髪型は同じだったのだが、私服が黄色いワンピース姿に、ピンクのカーディガンを羽織っていた。ヒールも新品のようにきれいな純白だったので、今日初めて履いた物かもしれない。

 まるでデートをするような恰好じゃないか、と思ってしまったのは、朝の由吉さんの発言に引っ張られてしまっているのかもしれない。


「それで、どこに行くの?」

 わたしは、智子の質問には答えずに、ぶっきら棒にこれからの予定を聞いた。

「うーん、愛美ちゃんは、どこに行きたい?」

「……わたしは、暇つぶしできるなら、どこでもいい」

「そっか」

 わたしの発言を聞いて、微妙な反応をしたけれど、どうやら智子はあらかじめ、ある程度の予定は決めていたようで、「それじゃあ、映画でも見よっか」と提案してきた。

 もちろん、わたしに反論の余地はない。

 それどころか、映画とはなかなかいいチョイスではないか、と感心したくらいだ。

 ここで、智子が「カラオケに行こう」なんて言ったならば、わたしは即座にこの場でUターンして立ち去っていたかもしれない。


 まだ土地勘に不慣れなわたしは、智子の後ろを付いていくようにして歩く。

 すれ違う人たちがわたしたちを見たら、仲のいい友達同士なんて思うのだろうか?

 今まで友達なんていなかったわたしには、想像できない話であった。

 数分間、案内されるがままに歩いたわたしたちは、無事、映画館にたどり着いた。

 外装はレトロな感じで、こういっちゃなんだが、あまり流行っているようには見えなくて、上映予定として紹介されている映画のポスターも、わたしの知らないものばかりであった。

 多分、智子がマニアックな映画を好んで、この場所を選んだのではなく、単に、わたしが人目を気にするから、クラスメイトなんかと遭遇しない映画館を選んでくれたのだろう。

 そういう気遣いをできる子であることを、わたしはこの数週間でわかっていた。

 と、ここである考えが、わたしの中で浮かんでしまった。


 智子は、わたしが本当の家族じゃない人たちのところで居候している事情を知っている。

 だから、もしかして智子は、わたしが休みの日に近江家にいることの気まずさを察してくれて、連絡してきたのだろうか?

 思えば、この子がわたしを無理やりどこかへ連れて行こうとしたときは、必ず、わたしが逃げ出したいときだった。


 現実からも。

 あの幸せそうな近江家からも。


 わたしは、逃げ出してばかりだけど、いつもわたしが辿りついた場所には、智子が待ってくれている。


「愛美ちゃん、どれ見ようかー」

「えっ? ああ、うん。智子が適当に選んで」

「そうだねー……」

 余計なことを考えてしまっていたので、智子の顔をちゃんと見ずに返答してしまったことを、わたしは少し後悔する。

 この子は、わたしと見る映画の選択を、どんな顔をしながらやっているのだろう……。


 無性に気になってしまうのは、どうしてなのか……。

 わたしは、わたしの気持ちが、わからなかった。


「うん、これにしよう」

 そう言って、智子が指さした映画は、洋画のラブストーリーもので、やっぱりわたしが聞いたことがない作品だった。

 ちょうど、上映時間の十五分前だったので、わたしたちはすぐにチケットを買って座席に着いた。

 正直に告白してしまえば、わたしは映画館に来るのが随分と久しぶりだったので、隣に知り合いがいるというのは、どうしようもない違和感が生じてしまう。

 周りは薄暗いから、わたしの顔なんて見られる心配もないのだろうが、どうしたって気にしてしまう。

 ただ、わたしにとって幸いだったのは、見た目通り、この映画館はあまり流行っていないようで、日曜日のお昼だというのに観客はまばらで、近くに知らない人がいるという状況にはならなかった。

 それどころか、この広い空間の中に、わたしと智子しかいないような錯覚をするくらいだった。

「楽しみだね」

 智子がそう呟いて、わたしが返事をするよりも先に、映像の音が館内中に響き渡った。


 そして、始まった映画の内容は、まぁいわゆる純愛ラブストーリーというやつだった。

 二人の男女が恋をして、様々な障害を乗り越えて、愛を育む、どこにでも転がっていそうな、ごくごく普通の物語。

 二時間ほど見せられたその物語に、わたしはやっぱり、何の感情を持つことができなかった。

 こんな話、わたしにとっては別の世界の物語だ。

 もちろん、映画である以上、フィクションの世界だということは理解できる。でもきっと、この映画を見たカップルなんかは『私たちも彼らのように幸せな時間を過ごそう』と思ったりするのだろう。


 でも、わたしには無理なのだ。

 わたしは、幸せになることを許されない人間なのだ。


 ふいに、隣に座っている智子を見た。

 暗闇の中、わずかに見える彼女の横顔は、ただじっとスクリーンを見つめていた。


 無表情に。

 まるで、そこからなにかを得ようとするように。

 いつか読んだ本で、こんな台詞があったことを思い出す。


『人間は、幸福を求めなければ、幸福になることはできない』


 もし、その言葉が本当ならば、智子はこの映画を見て、幸福を得ようとする努力をしているのかもしれない。

 以前のわたしなら、そんな彼女の姿をみて、ただ冷笑を浴びせていただけかもしれない。

 だけど、今のわたしは、そんな彼女の姿勢を見て、心底羨ましいと、思ってしまったのだった。


 〇 〇 〇


「どう? 愛美ちゃん。面白かった?」

「面白かったよ」

「あはは、あんまり面白くなかったんだね」

 わたしのお世辞をあっさりと看破する智子。

 まぁ、おそらくはかなり無愛想な表情になっているであろうわたしの発言なんて、信頼にも値しないのだろう。

「でも、ありがとね、愛美ちゃん」

「……なんでお礼なんていうの?」

「うーん、なんとなく、かな」

 にこっ、とほほ笑みながらわたしを見る智子。その表情は、どこか憂ちゃんに似ていて自然と顔を背けてしまった。

 そんなわたしの反応には気づいていないのか、智子は話を続ける。


「愛美ちゃん。もう家に帰る時間かな?」

「いや、まだ帰りたくない」

 近江家に戻ったところで、憂ちゃんも蓮さんもまだ帰ってはきていないだろう。それなのに、わたしが戻るわけにはいかない。

 というか、由吉さんと久瑠実さんがイチャイチャしているところに一緒だなんて、わたしの神経が持たないよ……。

「じゃ、暇つぶしはもう少し続くってことかな?」

「そうだね……。次も人目がつきにくくて、ゆっくりできるところがいい」

 わたしの卑屈な注文に対しても、智子は嫌な顔ひとつせず、「わかった」とだけ言って、次なる目的地へと足を向けた。


 そして、わたしたちが辿りついた場所は、街から少し離れた公民館で、智子はここの図書館に行きたいということだった。

「先に言っとくけど、休日まで勉強するなんて嫌だからね」

「さすがにわたしもそこまではしないよ。今日は純粋に、本を読みたいの。それなら、愛美ちゃんも時間、潰せるでしょ?」

 たしかに、二人で会話をしなくても過ごせるとなれば、好都合かもしれない。

 ほら、図書館って静かにしなきゃいけないし、基本、携帯機器は電源OFFっていうのがマナーだしね。近江家グループの通知が溜まっていくことに辟易することもない。


 というわけで、わたしたちは館内に入って、図書館で読書に勤しむことにした。

 館内は、いつものわたしたちのように、参考書を広げている学生もいれば、机いっぱいに英字で書かれた本を広げて、なにやらノートに写している初老の男性もいた。

 みんな自分のやることに夢中で、わたしたちが入ってきても、誰も気に掛ける様子もなく、それがわたしには心地よかった。

 智子は探している本があるということなので、一度わたしたちは別行動をすることになった。

 わたしは、適当にお薦めの本として陳列されていたものを物色する。

 本というのは、その人の特徴や特質がわかると云われている。それは著者だけじゃなくて、読者も同じだ。部屋に置いてある本棚を見れば、その人がどういう人なのか、だいたい理解できる。

 だからこそ、わたしは少し気になってしまった。

 智子は、どんな本を探して、ここに来たのだろうか?

 わたしは、自分で読む本を探す振りをして、智子を見つけようとしたが、彼女はすぐにわたしのところに戻ってきた。

 ぎゅっと、抱きかかえるようにしてやってきた智子が持っていたのは『Good Luck』という題名が書いてあった本だった。


「これね、わたしのお気に入りなの。愛美ちゃんに読んでほしいと思って……」

 わたしの視線に気が付いたのか、照れくさそうにしながら智子はわたしに持っていた本を渡してくれた。

 どうやら自分で読むためにではなくて、わたしのために選んでくれたらしい。

 それとも、自分の好きな本を読んでもらって、わたしに自分のことをわかってほしいと思っているのだろうか?

 その心理は、わからなくもなかったし、智子がわたしに好意を抱いているのも、もう否定できない事実だった。

 それならば、わたしにも『倉敷智子』という人物を、理解する努力をしなくてはならないのかもしれない。

 わたしは、素直に智子から本を受け取って、近くの席に座って読書を開始する。


『Good Luck』

 四葉のクローバーの写真が表紙の本は、海外の文学らしかった。

 見た目からして、難しそうな本だと感じたけれど、読んでみれば、童話のような、それでいて哲学じみたお話だった。

 簡単に内容をまとめるならば、二人の登場人物が、それぞれ同じ出来事に出くわすのだが、理解や解釈の仕方で、一方が幸せになり、一方は災難に襲われてしまうというお話だ。

 見えている世界が同じでも、感じかたが違えば、結末が変わってしまう……。

 そんなことを、言われているような気分になった。


 ――だけど、わたしはどうなのだろう。

 ――今のわたしが見ている景色は、他人から見たら、幸せな景色なのだろうか。

 そんなことを、考えさせられる物語だった。


 ただ、わたしはいつの間にか、熟読してしまったらしく、智子が声をかけてくれたときには、すでに図書館が閉館時間に差し迫っていたところだった。


「どうする? その本、借りてみる?」

「いや、いいよ。続きは、また来たときにする」

「……そっかー」

 そう返事をした智子は、とても嬉しそうにしていた。

 わたしはこのとき、智子が嬉しそうにしていた理由は、自分の本に、わたしが夢中になってくれたことだと思っていたけれど、後になって気づいてしまった。 


 わたしは、無意識のうちに、ここに来る予定を自分でつくったのだ。

 そして、おそらく智子は、来週もわたしと一緒にこの図書館に来れると思って、喜んでくれたのだろう。

 でも、気が付いたところで、わたしは別にそれでもいいかな、って考えていたと思う。

 誰かと一緒にいるということが、わたしにとっては空気が徐々に吸えなくなるような、そんな感覚だったはずなのに、智子といたら、自然な自分でいられた。


「ねえ、ちょっとだけ、公園でお話しようよ、愛美ちゃん」

「別に、いいけど」

 だから、そう言われたときも、わたしはすぐに返事をしてしまった。

 一応、電源を切っていたスマホを復活させて時刻を確認したけど、まだ夕ご飯までには時間がある。

 相変わらず、通話アプリには未読のメッセージがたっぷりと溜まっていたけれど、見なかったことにして、再びポケットに直す。


 わたしたちは、公民館の前にあった小さな公園に設置されたベンチに腰掛ける。

 まだ空の色は茜色に染まったばかりだったけど、わたしたち以外には誰もいなかった。


 しばらく、わたしも智子も、何も口には出さなかった。

 ただ黙って、空を見上げているような無駄な時間が流れる。

 それでも、わたしは別に悪い気分にならなかった。


「……ねえ、愛美ちゃんはさ、覚えてる?」

 しかし、智子が小さな声で言葉を紡ぎ始めた。

 それは、わたしに語り掛けているというよりも、独り言を呟いているような感覚だった。

「私が、愛美ちゃんと似ているかもしれない、って言ったこと」

「……忘れた。あんた、そんなこと言ってきたんだ、わたしに」

 わたしは、いつものように平気で嘘を吐く。

「うん、それ、何でだったと思う?」

 しかし、智子はわたしの返答を無視して、話を続けた。

「私も一緒なんだ。誰も自分のことを見てくれなくて、本当に私はここで生きているのか? って疑問に思うことがあるの」


 わたしは、首だけを動かして、智子を見る。

 彼女は下を向いたまま、こちらを見てこない。

 わたしの視線だけが一方的に、彼女を捉える。


「これも、愛美ちゃんに言ったことだけど、私、家にいるのがちょっと気まずくて……。私のお父さんね……私のお母さんと離婚して、今は別の人と結婚しているの」

「…………そう」

 事情を知ったところで、わたしが打てる相槌などこの程度だった。

 同時に、それだけ言ってくれれば、智子が今いる環境がどういったものなのかも、ある程度想像できる気がした。

「私の本当のお母さんはね、その、お父さんと結婚しているのに別の男の人とそういう関係になっちゃって、ある日、突然家から出て行ったの。事情を知らない私は、お父さんから教えてもらったけれど、その時はまだ小学生だったから、何も分からなかったんだ」

 そこで、智子はフフッ、と笑みを浮かべる。

「本当に、テレビの中のお話を聞いているみたいだった。それどころか、私はお父さんが嘘をついているんだって思ってたくらいなの。でも、お父さんの話は、全部本当のことで、私たち家族は、お母さんに捨てられたんだ」


 そういった時の智子の声は、とても、とても冷たいものだった。

 でも、わたしには、智子の声に聞き覚えがあったような気がしたのだ。

 そう、この子が家族の話をするときは、わたしが家族の話をするときと、全く一緒なのだ。


「それから、お父さんともあまり仲が良くなくて……きっと、お父さんも、新しいお母さんを見つけたのは、私と家にいるとお母さんのことを思い出すからだと思うんだ。お父さんは、新しい家族が欲しかったんだと思う……」

 そして、智子にもまた、歪な新しい家族が出来上がった。

「でも、わたしはそんなもの欲しくなかったの。私の家族は、たったひとつしかなかったのに……どうして、お母さんは私たちを……捨てちゃったんだろね……」


 智子は、自分の左手で、右腕をぎゅっと握りしめていた。

 わたしは、智子に対して、何の言葉も投げかけない。

 ただじっと、この子の隣にいることが、今のわたしに課せられたことなのだと勝手に納得をしていた。


「おかしいよね。私ね、愛美ちゃんを見たとき、まるで、自分が鏡を見ているようだったの。私がいつも朝、大嫌いな自分が映る姿に、そっくりだった……」

 そこで、智子はちょっとだけ声を上ずらせながら、わたしに語り掛ける。

「ごめんね……やっぱり、変だよね。こんなこと言われても、愛美ちゃんは……」

「いや……別に……智子がそう思うんなら、きっと、そうなんだよ」


 家族が嫌いな、わたしたち。

 智子も、わたしとは違う形で、自分の家族を嫌いになった。


「わたしも、一緒だから……」


 わたしは、ぼそぼそと、気弱な声で答える。


「多分、わたしも一緒なんだ。その……家族が、嫌いで……」

「自分が、嫌い、なんだよね?」


 ……わたしは、コクンと、わずかに首を縦に動かした。


「そっか……わたし、間違ってなかったんだ……」

 智子は、視線を上にあげながら呟く。


「でも、わたしは好きだな。愛美ちゃんのこと」


 もう、外の景色は茜色から、少しずつ黒い空へと塗り替えられていく。

 わたしは、智子の台詞に対して、何も返事をしなかった。


 言いたいことは、たくさんあった。

 今なら、この心に溜まった感情の全てを吐き出せそうな気がした。

 この子になら、本当のわたしを見せてもいいんじゃないか?


「智子……あのさ……」

 でも、話をしようとすると、声が涸れ、喉が押しつぶされそうになる。

 同時に、お父さんと、お母さんの顔が浮かび上がる。


 どちらの眼も、まるでわたしを悪魔を見るような眼差しで見つけてくる。

 やめて。

 お願いだから、やめてよ。

 そんな眼でわたしを見ないでよ。

 わかってるから。

 ちゃんと、わかってるよ。


「……大丈夫だよ、愛美ちゃん」

「……えっ」


 いつの間にか、わたしは智子にそっと肩を置かれていた。

 もうすぐ目の前に、智子の顔があった。


「いつか、愛美ちゃんが自分の話をしてくれる日を待ってる」

 そして、彼女はベンチから立ち上がって、笑顔でこう告げた。


「だって私、愛美ちゃんの友達だから」


 自信たっぷりに、智子はわたしにそう言った。

 ずっと、仮初めの友達として過ごしてきたわたしたちの時間。

 でも、それは本当に嘘の時間だったのか、今のわたしにはもう分からない。

 いや、結論は出ているけれど、口に出したくないだけなのだ。


 やっぱり、わたしはまだ、自分のことが嫌いだから。

 だから、この子のことを……智子を友達だと認める勇気が、わたしにはないのだ。


「じゃあ、外も暗くなってきたし、今日はもう帰ろうっか」

 智子がそう言ったのと同時に、わたしのポケットに入っていたスマホが震える。確認をしてみると、久留実さんから『愛美ちゃん、どれくらいの時間に帰ってこれそう? 今日の夕飯はグラタンよ(にっこり)』というメッセージを受け取っていた。

 わたしは、それを見て、少しだけ口角をあげて、『もうすぐ帰ります』と返信を打つ。


「ふふっ、なんだか嬉しそうな顔してるよ、愛美ちゃん」

「……別に、いつも通りでしょ?」

「ううん……もっといつもは、怖い顔してる」

「……うるさい」


 わたしの反応を見て、明らかに面白がっている智子を見て、わたしはわざとらしくため息を吐いた。

 やっぱり、友達なんて、面倒くさい。

 でも、こういう人間関係も、悪くないんじゃないかと、そんな風に思ってしまった。

 また、休日に智子から誘いを受けて、適当にこの街を歩くのもいいかもしれない。

 それくらいのことは、付き合ってあげようと、この時のわたしは思っていたのだ。



 でも、今日がわたしと智子が一緒に何処かに出掛ける、最後の日になってしまった。

  

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