第22話 嘘つき
放課後、わたしは普通に帰るルートより随分と大回りをして近江家に戻ってきた。
今日も、憂ちゃんには、いつものように智子と一緒に勉強をするからと伝えて、彼女から逃げようとしていたのだが、昼休みにメッセージアプリで、今日はクラスメイトたちと遊びに行くから迎えにいけない、という連絡が入っていた。
いや、迎えに行くって……。相変わらず、どこか考えがズレているような気がする。
まぁ、言い訳をして彼女を遠ざけようとした手前、余計な嘘をついて憂ちゃんから撤退するということに頭を悩ませずに済んだことは吉報だった。
そして、わたしにとって嬉しいニュースは他にもあった。
今日は近江家一同、帰りが遅くなるらしい。
メッセージアプリの情報を見ると、由吉さんは残業があるらしく、久瑠実さんも町内会の集まりで家を空けるとかで家には夕方の少し遅い時間に帰ってくるらしい。
そして、蓮さんはいつものように学校から塾に直接向かう予定だそうだ。
つまり、今の近江家は誰もいない。
誰にも遠慮せず、一人になれる場所ができた。
それでも、既定のルートとは程遠い道のりで帰ったのは、霧島たちの尾行を気にしたためだ。特に、憂ちゃんと仲良くしているわたしの姿を見られてしまえば、最悪の可能性として、わたしと下校しているところに目をつけて、標的を彼女にシフトチェンジすることも十分に考えられた。
憂ちゃんも一緒にあの万引き騒動のときに同伴していたけれど、憂ちゃんならわたしと違って霧島たちがコンタクトをとってきたのなら、一番に家族のみんなに相談するはずだ。
今日の朝も、そしてメッセージアプリのトークルームでも、そんな話題は一度も出てこなかったし、現在進行形でわたしに友達と一緒に遊んでいるカラオケの様子を報告してくれている。
普通ならうざったい憂ちゃんの行動だったけれど、この時は元気なことを知らせてくれて、ホッと胸をなで下ろした。
とにかく、まだあいつらのターゲットは、わたしだけ。
わたしが近江家にお世話になっていることを、あいつらが知っているのかは定かではないけれど、それでも用心に用心をこしたことはないだろう。
あの人たちに今のわたしの状況がばれたら、色々と面倒だ。
これは、わたしが献身的に近江家の人たちを守っているような発言に聞こえてしまうかもしれないが、現実はそうじゃない。
智子をわたしから引き剥がしたのも、あの子の身を心配したからじゃあ、決してない。
わたしはただ、自分のために行動しているのだ。
もし、今回の霧島たちとのやり取りを問題視された場合、わたしが被害者であるのは事実だが、それでも、わたしが問題の中心にいたことは言い訳できない。
そして、最悪のケースが、わたしの行動が問題視されて、本来の保護者ではない近江家から追い出されてしまうことだ。
もし、そんなことが起こってしまったら、わたしはあの忌々しい本当の家に戻らなくてはならなくなる。
それだけは、嫌だ。
あんなところに帰ることになったら、それこそ潔く、家出をしよう。
たとえその途中の道端でのたれ死んでも、あの家に戻るよりは何百倍もマシだ。
久瑠実さんには、もうわたしの様子がおかしいことに気付かれているけれど、彼女は詮索してくるタイプではないから、このまま上手くこなしていれば大丈夫なはずだ。
そう思って、近江家の扉を開けたところで、わたしは自分の考えの浅はかさを思い知らされることになった。
そこには、わたしの予想していなかった人物が待ち構えていた。
「やぁ愛美ちゃん。おかえり」
玄関のまえに立っていたのは、高校の制服を着た蓮さんだった。
端正な顔立ちで口角を上げる彼に、わたしは震える声で、尋ねる。
「蓮さん……どうして、ここに」
「ん? おかしなことを聞くね、愛美ちゃんは。ここは僕の家だから、居ても不思議じゃないだろ?」
わたしが聞きたいのはそんなことじゃない。
それは、蓮さんもわかっているはずなのに、彼は澄ました顔で笑うだけだった。
しかし、このままはぐらかされると思っていたのだが、蓮さんはあっさりと、わたしに告げる。
「今日はね、塾をサボってきたんだ。たまには僕だって、そういうことをする人間ってことだよ」
優しい声色で、だけど、どこか含みのあるその言い方は、正直いえば、わたしの心を見透かされているようで、怖いと思った。
「それとも、僕が塾をサボってここにいることが、愛美ちゃんにとって何か不都合があるのかい?」
「いえ……そういうことじゃあ……」
不都合ってほどではないはずだ。だけど、ここに留まり続けることが正解じゃないことくらいはわかった。
「あの……、わたしは部屋でゆっくりしています」
だから、わたしはこの場から一刻も離れたくて、足早に二階へと上がろうとする。
「ちょっと待って」
だが、蓮さんは、素早い動きでわたしの腕を握って、止めようとした。
蓮さんにとっては、ただわたしを引き留める為の行動だったのだろう。
でも、わたしにとっては違った。
その映像が、わたしの中で昨日の出来事とシンクロしてしまう。
どうしようもない恐怖が、増幅して、わたしを襲う。
「やめてっ!」
蓮さんに腕を掴まれる寸前に、彼の腕を思いっきり叩いてしまった。
持っていた鞄も、勢いよく落ちてしまう。
「……あっ」
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
蓮さんは、先ほどまで浮かべていた笑みを消して、わたしを見つめる。
「愛美ちゃん。悪いけど、僕は父さんや母さんのように甘くはないし、憂のように世間知らずじゃない」
蓮さんは力強く、男らしく、わたしの制服を掴む。
「少し乱暴になるのは先に謝っておくよ。だけど、どうしても確かめておきたいことがあるんだ」
そう言うと、蓮さんは壁にわたしの身体を押し付けて、ブレザーのボタンを取っていく。
「なっ、何するんですかっ!?」
傍から見れば、わたしは蓮さんに襲われているように見えるだろう。
だけど、わたしは、蓮さんのしようとしていることがすぐにわかった。
「やっ、やめてくださいっ!」
必死で抵抗したが、蓮さんは本気らしく、わたしはされるがままに、制服のブレザーのボタンを全て取られてしまう。
「お願いです! やめてくださいっ!」
わたしの悲痛な叫びも、蓮さんは全く意に介した様子がなく、機械のように、淡々と、しかし確実に、わたしの制服を乱暴に脱がしていく。
そして、蓮さんは、ついにスカートの少し上の部分のカッターシャツに手を伸ばして、まくり上げる。
すると、わたしのお腹のあたりの皮膚が露わになる。
禍々しく、紫に変色した肌が露出された。
この時点で、わたしはもう、抵抗するのを止めた。
「なん……で……」
その代わり、理解が追い付かないわたしの頭の中が、悲痛な声となって漏れるだけだ。
しかし、蓮さんはそんなわたしの声がまるで聞こえていないかのように、冷酷な目つきをしたまま、わたしに詰問する。
「……愛美ちゃん、これ、いつ、どこで、こうなったの?」
わたしはせめてもの抵抗として、奥歯を噛みしめたまま蓮さんを睨みつける。
だが、蓮さんは意にも返さずに、話を続けた。
「昨日から、ずっとお腹をかばって歩いていたよね? それに、母さんがずっと君のほうに視線を投げかけていたのもわかっていた」
「……たったそれだけのことで……わたしにこんなことをしたんですか?」
「そうだよ。たったそれだけのことさ。だけど、僕にはそれだけで、確かめるには十分な根拠だった。違っていたら、いつもの父さんのように謝るだけさ」
そして、蓮さんは、一呼吸おいて、わたしに聞いてくる。
「お願いだ、愛美ちゃん。今、君はどんなことに巻き込まれている? どんな酷い目に遭っている?」
蓮さんの声は、いつもより鋭く、余裕がない感じだった。
蓮さん。あなたはやっぱり、油断ならない人です。
わたしが警戒していたにも関わらず、あなたはわたしの正体にいち早く気づいて、そして、わたしの力になろうとしている。
だけど、あなたは最後に失敗した。
そのまま、わたしの制服を剥ぎ取ったみたいに、力ずくでわたしから話を聞けば、わたしは吐露していたかもしれない。
でも、蓮さんは最後まで、わたし自身が助けを求めるように説得してきた。
あなたは、優しさの片鱗をみせた。
この家族の特徴である、無償の愛のようなもの。
お互い助け合って、どんなことでも一緒に乗り越えようとする思想。
それは、わたしの精神を逆なでる、最悪の材料だっ!
「あなたには……あなたたちには、関係ないっ!」
家中に響き渡る、大声だった。
さすがの蓮さんも、わたしのそんな反応は予想していなかったのか、一瞬だけ、わたしを押さえつける力が弱まった。
そのとき、さらにわたしたちの予想しない出来事が起こった。
ガチャ……と、玄関のドアノブが動く音がしたのだ。
蓮さんの目が、玄関のほうに向く。
その瞬間を、わたしは見逃さなかった。
力のゆるまった蓮さんの手を振りほどいて、落としてしまった鞄を拾ったあとは、一目散に階段を駆け上がった。
勢いよく自分の部屋に駆け込んで、急いで鍵をかける。
蓮さんが、わたしを追いかけてきている気配はない。
「ただいまー。ってアレ? 蓮お兄ちゃん、どうして家にいるの? 塾は?」
わたしがドアの前で膝をついた頃に、玄関から呑気な憂ちゃんの声が聞こえてきた。
「あっ、うん……ちょっと急に体調が悪くなってね……それより、随分帰ってくるのが早かったな、憂」
「うん、なんかみんな明日小テストがあるから早めに帰って予習するんだってさ。たかだか小テストなのに、みんなはりきりすぎって、あたしは言いたかったんだけど……って愛美ちゃんも帰ってきてるの?」
わたしの玄関の靴でも確認したのだろう。憂ちゃんがそう蓮さんに尋ねた。
「……ああ、さっき帰ってきたところだよ。彼女もまだ体調が優れないみたいだから、静かにするんだぞ」
「えっ、そうなんだ? 昨日も風邪っぽいって言ってたし、もしかして季節外れの風邪がうちで流行ってるのかなー?」
「そう思うなら、憂もすぐに手を洗っておいで」
「はーい。そうするねー」
そんなのどかな会話が、わたしの耳に入ってくる。
もしかしたら、そのまま蓮さんがわたしを追いかけて部屋にやってくるかもしれないと思ったが、彼はリビングへと向かったのか、二階に上がってくる気配はなかった。
どうやら、話の続きはしてこないつもりらしい。
果たして、それが良かったのか悪かったのか、わからない。
「何やってるんだろ、わたし」
思わず、笑ってしまいそうになる。
どんどんと、自分の精神がおかしくなっていくことも、実感していた。
もう、いいや。
どうにでもなっちゃえばいいんだ。
わたしなんて元々、この家にいちゃいけない人間なのだから。
そんな、自暴自棄になっているわたしを包む静寂が、打ち破られる。
ブーブー、とポケットに入れていたスマホが震え始めた。
もしかして、蓮さんからの連絡?
そう思って、恐る恐る、スマホの画面を見て、驚く。
「智子……」
画面には、智子からの着信を告げるものだった。
電話なんて、今まで一度もしてこなかったじゃないか。
どうして、こんなときに……。
「智子…………」
わたしはとっさに、電話に出るためのボタンを、タップしてしまった。
『もしもし……愛美ちゃん』
弱々しい、智子の声が聞こえてきたかと思うと、彼女はわたしの返事を待たず、用件を伝えてきた。
『お願い。これがわたしの最後の頼みだから……聞いてほしいの』
――図書館の前の公園で、待っているから来てほしい。
彼女は泣きそうな声で、わたしにそう告げた。
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