第5話 わたしの初めての日

「はい、ここが愛美ちゃんの部屋よ。自由につかってくれていいからね」

 久瑠実さんに案内された二階の部屋は、ベッドと学習机、本棚が置いてある部屋で、ここがわたしの部屋になるらしい。


 よかった。もしかしたら憂ちゃんと共同の部屋を使うように言われるかもしれないことを覚悟していたわたしは、ひとまず安心した。


「あっ、これは私からのアドバイスなんだけど、着替え中のときなんかは、これをドアノブにかけておいたほうがいいわよ」

 そういって久瑠実さんがわたしに渡してきたのは、『着替え中! 絶対に開けるな!』と乱暴な字で書かれた、フック式のメッセージカードだった。


「由吉さん、結構ドジっ子属性っていうのかしら? よく憂ちゃんが着替えしているときに限って部屋のドア開けちゃったりするのよねー。ホント困った人なんだから」

 うふふ、と、はにかみながらそんなことを言う久瑠実さんは、どこか楽しそうだった。

「はぁ……、わかりました」

 全然わかってなかったけれど、返事をしたわたしに「本当に気をつけてね?」と催促したのち、久瑠実さんは部屋から退出した。

 久々に、一人になる時間ができたような気がした。


 いやいや、とにかく疲れた……。

 慣れないことをするもんじゃないな、やっぱり……。


 しかし、これからも慣れないことをしなくてはならないことに違いはないので、陰鬱な気持ちを抑えながらも、とりあえず、目の前のベッドに飛び込みたい衝動を押さえて、わたしはリュックサックから荷物や着替えを取り出して整理する。


 整理をしながら、今までのことを振り返る。


 うん、近江一家は、至って普通の家族、と表現しても問題ないだろう。

 普通の家族、というのを忘れてしまったわたしだけれど、これが一般的な家庭の様子なのだというのはなんとなくわかる。


 もしかしたら、運の悪いわたしのことだ。変な家族に引き取られでもするんじゃないかという心配をしていないでもなかったけれど、どうやらそういうことはないらしい。


 いやいや、全く。

 本当に、みんな幸せそうな顔しちゃって。


 近江一家は、わたしを新しい家族として迎え入れてくれようとしているみたいだけど、わたしがその期待に応えることは不可能だろう。



 ――だって、わたしは家族なんて嫌いなのだから。



 そんなことを心の中で呟いているうちに、わたしの荷物整理が終わってしまった。残りの荷物は宅配で届くはずなのだけど、時間指定などはしていなかったのでまだ届いていないらしい。

 時間を持て余したわたしは、緊張からなのか普段よりも汗を流してしまってベトベトになってしまっている。

 気持ちの切り替え、という意味でも、服を着替えようと思い、上の服を脱いで下着姿になった。


 ――そのときだった。


「愛美ちゃん!」


 バンッ、と、勢いよく開かれたドアの向こうに無邪気な笑顔を浮かべている由吉さんと目があった。


 目が、合ってしまった。


「あっ」


 先ほどまでの元気な声とは裏腹に、素っ頓狂な声を上げる由吉さん。

 一方、茫然と立ちすくむわたし。


 えっと、こういうときって、どういう反応したらいいのだろうか?

 声にならない声が、わたしの口から出ていこうとする中、由吉さんの表情をみると、由吉さんも自分の失態に気づいたらしく、額から冷や汗をかいている。

 すると、固まったまま動かない二人の空間に、不穏なオーラを纏った人物が、由吉さんの後ろから肩をトントン、と叩く。


「由吉さん、私、何度も注意していますよね……? いくら家族っていっても、みんなの部屋に入るときは必ずノックしてからですよって……」


「あっ、はい、久瑠実さん…………。えっと…………」

「いいから早く出ていって下さいっ!」

 久瑠実さんの一声が部屋で木霊すると、地獄に引きずり落とされるがごとく、目の前の扉が無情に閉められ二人とも姿を消してしまった。

 そして、取り残されたわたしは、どうしたものかと、目をぱちくりさせて固まるだけになってしまったのだった。


〇 〇 〇


「愛美お姉ちゃん。ほら、元気出して。あたしのお気に入りのチョコレートあげるから」

 心配そうな顔で、憂ちゃんがわたしに銀色の紙包みを手渡してくれた。

 開けてみると、リーフ型になった小さな粒のチョコレートが四、五個入っていた。

 どうやら、憂ちゃんはわたしの元気がないと感じたのか、励ましてくれているらしい。

 もちろん、わたしは別に着替えを覗かれたことにショックを受けているわけではないので、落ち込んでいるように見えてしまったのなら、それは生憎、素の状態も他人から見れば陰鬱に見えてしまうということだ。

 まぁ、だからと言って反論することもおっくうなので、こうして黙っているわけだけど。


 しかし、お菓子で元気になると思っているところが子供らしい発想だ。

 別にそれが悪いわけじゃないし、これくらいの年齢の子供なら、むしろ気遣いの出来るいい子なのかもしれない。


「っていうか、パパ本当にありえないよっ! あなたはラブコメの主人公の生まれ変わりかなにかですか! あたしが着替えしているときも部屋にしょっちゅう入ってくるし、その癖どうにかなんないのっ!?」

 腕組みをしながら、私の座っているソファの隣に一緒に座っている憂ちゃんは、顔を真っ赤にして眉間にしわを寄せていた。


「うう……、本当に面目ない」

 そして、リビングの絨毯の上で正座させられている由吉さんは、ひどく落ち込んでいる様子だった。

 あのあと、つまり、由吉さんがわたしの着替えているところを目撃したあとのことなのだけど、どうやら憂ちゃんと久瑠実さんという女性コンビにこっぴどく叱られてしまったらしい(蓮さんが教えてくれた)。

 だが、まだまだ怒り足りないのか、久瑠実さんは正座する由吉さんの目の前で笑顔を浮かべながら仁王立ちしているし(笑っているのが逆に怖い)、憂ちゃんはこの通り、頭から煙が出るんじゃないかといわんばかりに怒っているのがよくわかる。

 そして、蓮さんは巻き込まれるのが嫌なのか、ホットコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいた。


 なんだか、わたしのせいでとんでもない事件が発生してしまったようだ。

 そんな空気に耐えられなくなってしまったわたしは、誰とも目を合わさずに、ぽつぽつと独り言のように呟いた。


「あの、わたし、気にしていませんから。その、由吉さんを、許してあげて下さい」

 そうだ、こんなことになってしまったのもわたしが原因なのだ。

 無警戒に服を脱いでしまったこともそうだが、数分前に久瑠実さんが忠告していたにも関わらず、わたしはドアノブにメッセージカードをかけることを忘れてしまっていたのだ。

 原因はわたしにもあるわけで、由吉さんだけが悪いわけじゃない。


 そうだ。

 どんなことがあっても、大抵のことはわたしが全部悪いのだ。


「うっ、ううー……。愛美ちゃん、君は僕を許してくれるのかい?」

 許すもなにも、はじめから怒ってないんですけど……。

 そんな言葉が頭の中に浮かび上がったけれど、口には出さずにわたしは黙ってこくんっ、と首を縦に動かした。


「おおっ、愛美ちゃん! 君はなんていい子なんだ!」

「調子に乗らないっ!」

 正座の姿勢から勢いよく立ち上がってわたしに抱きつこうとした由吉さんを、華麗な右足正面蹴りで撃退する憂ちゃん。

 うわー、痛そう……。

「愛美ちゃん。パパの扱いは、大体こんな感じでいいからね」

 こんな感じって言われても、絶対に真似はしないでおこうと心に誓った。

「ううっ、なかなか鋭い蹴りをするようになったじゃないか……。もう父さんから憂に教えることはなにもない……」

「いや、そもそも何も教わってないから」

 そんな親子のやりとりを聞いて、本を読んでいた蓮さんが少し笑ったように見えた。


「もうー。愛美ちゃんが許してくれたからいいですけど、本当に気をつけて下さいね、由吉さん。思春期の女の子はデリケートなんですから」

 呆れながらも、さっきまで放っていた不穏なオーラを収めた久瑠実さんが、由吉さんに問いかける。

「ところで、由吉さん。愛美ちゃんの部屋を訪れたってことは何か用事があったんですか?」

「あー! そうそう! そうだよ久瑠実さん! 忘れるところだった」

 大声をあげて、由吉さんは一度リビングから退出したかと思うと、すぐに戻ってきて自慢げにこう言ったのだ。


「家族写真を撮ろう!」


 そう宣言した由吉さんの手には、カメラが握られていた。

 それもデジカメとかじゃなく、本格的な一眼レフのカメラだ。あまり機械には詳しくないわたしだけれど、これもまた車と同じでお高いやつだと思う。

「今日は愛美ちゃんが来てくれた記念日だからさ。ちゃんと写真に残したくって」

「おっ、パパにしてはいい考えだねー」

 由吉さんの発言に興味を示した憂ちゃんが、そんな声を上げる。

「あら、それじゃ私もおしゃれしなくちゃいけないかしら?」

「何いってんのさ、久瑠実さんは今のままで十分綺麗だよ」

「やだぁ~、由吉さんったら! みんながいる前でそんなこと言わないで下さい。照れるじゃありませんか」

 先ほどまで怒っていたはずの久瑠実さんが、頬をピンク色に染めて照れていた。

 見た目がまだ幼さを残している久瑠実さんなので、照れている姿は、女の私から見てもちょっと可愛いな、なんて思ってしまった。


「父さんも母さんも、そういうのはあまり子供の前で見せないでほしいんだけどね」

「蓮お兄ちゃんの言うとおりだよ。見てるこっちが恥ずかしい」

 そんなことをいう二人だったけど、わたしには、蓮さんも憂ちゃんも、自分のお父さんとお母さんを誇らしく見ているような気がした。

 それをわたしは、羨ましいなんて絶対に思わないけれど。


「さぁさぁ、それじゃ家をバックにして、写真を撮ろうか!」

 由吉さんの号令で、皆がリビングから出ていこうとする。

「さぁ、愛美ちゃん。今日の主役はあなたなんだから!」

 そういって私の手を掴んだ久瑠実さんは、ソファからわたしを立ち上がらせて一緒にリビングから出ていった。

 写真は、由吉さんの指示通り、家をバックにして撮影される。


 わたしは、その写真の中で、どんな表情をしていただろうか?

 きっと、不機嫌そうな顔を浮かべているに違いない。

 わたしは、そういう人間だ。


 由吉さんは、「現像するのが楽しみだ」なんて言っていたけれど、わたしは全然これっぽっちも楽しみなんかじゃなくて、見たくもないと思った。

 やっぱり腐ってるな、根性が。

 いや、根性じゃなくて、心まで腐ってしまっているのだろう。

 今日は、わたしにとって、まるで異世界に迷い込んでしまったような、そんな気分だった。


 特に夕食を食べるときに、驚いたことがひとつあった。

 今日の夕食は、わたしが来たお祝いということで、からあげやオムライスといった、いかにも子供が好きそうなメニューが豊富に並んでいたのだが、それら全てが、種類ごとに大きなお皿一枚の上に並べられていたのだ。

「こうやって、みんなで仲良く分けて食べるのが、うちの食卓のルールなんだよ」

 得意げに、由吉さんがそう説明してくれた。


 実際、みんなはそれぞれの皿に手を伸ばして、好きな食べ物を自分の小皿に乗せていった。

 憂ちゃんは、蓮お兄ちゃんがあたしの分のオムライスまで食べていると嘆き、蓮さんはやれやれと溜息を吐きながら、最後に出てきた兎型に切られたリンゴを憂ちゃんに一つ多く渡したり、そんな、実に兄妹らしいやりとりをしていた。


 殆どコンビニ弁当だったわたしには、誰かと食べ物を分け合ういう考えが全く理解できなかった。

 だけど、それが『家族の食事』なんだと、教えられたような気がした。

 その後、お風呂に入るときに憂ちゃんが『愛美お姉ちゃんと一緒に入りたい!』と言われたのだが、そこはさすがに辞退して(蓮さんが止めてくれた)一人ゆっくりと疲れを取るように湯船に浸かり、早々にベッドの中へと潜り込んだ。

 わたしは、久々に両親たちの怒鳴り声が聞こえない夜を過ごしながら、瞼を閉じた。



 ――このまま、一生目を覚まさないことを祈りたい気分だった。


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