第2章 よろしくおねがいします

第6話 わたしが生まれ変わっていく日


 朝、目が覚めたら知らない天井が見えた。


 その瞬間、生まれて初めて味わうような高揚感が生まれる。


 わたしは、あの家族から解放された。

 そんな現実が、今まさに目の前で広がっている。

 いっそのこと、このままベッドから出たくない気分だ。

 ――と、思っていたのだが、部屋の扉が勢いよく開かれた。


「おはよう愛美ちゃん! 朝だよ!」

 子供のようにはしゃぐこの声を聴いて、わたしの中で思い浮かぶ人物像は一人しかいない。

「……おはようございます。由吉さん」

 わたしはまだ半開きの瞼をこすって、しっかりと由吉さんに挨拶をした。

 おお、わたしってちゃんと「おはようございます」って言える人間だったんだと気付いて、自分自身で驚く。


 こんな台詞、口にするのは随分と久しぶりだ。


 しかし、そんな感動に浸っていることなど露知らず、由吉さんはわたしが返事をしてくれたのが余程嬉しかったのか、無精ひげを触りながら、にこやかな笑顔を浮かべていた。

「いやー、今日から愛美ちゃんも学校だからさ。寝坊しちゃいけないと思って起こしにきたんだよ」

 あ、そっか。

 昨日は日曜日だったから、早速わたしは、今日から学校に行かなくちゃいけないんだ。


「本当はもっとゆっくりさせてあげたかったんだけどね。手続きとかも僕たちが済ませちゃったし」

「いえ、むしろ助かりました」

 わたしにしては珍しく、偽りのない感謝の気持ちを述べる。

 由吉さんが言ってくれたように、本来はわたしも一緒に学校に行って手続きを済ませなきゃいけなかったんだけど、面倒なことは全部由吉さんたちがやってくれた。

 わたしはただ、あの帰りたくない家で、ただじっと解放されることを待っていただけだ。

 わたしが転校することを知っても、同級生たちはまるで関心のない様子だったし、先生からも特に理由を聞かれることなく別れを済ませた。

 わたしがあの家族と一緒に暮らしていた跡を消していくように、わたしは何の未練も残さずに去っていったのだ。

 きっと、もうあの町には、わたしがいたという証拠は全て消えているはずだ。

 それが、わたしが望んだことだから。


「あー、パパそこ邪魔だからどいてー」

 ふと、そんなことを考えてしまっていたところに、今のわたしの現実が再生される。

 廊下には、髪型をボサボサにしたまま下の階に向かおうとする憂ちゃんが横切るのがみえた。

 しかし、何かに気付いた憂ちゃんは、一度通り過ぎたわたしの部屋に再び戻ってきた。

「ん? っていうかパパ! また勝手に愛美お姉ちゃんの部屋に入ってるじゃん! ママに怒られても知らないからねっ!」

「うげっ、そっ、それは困る! 愛美ちゃん! それじゃ下の階で待っているから!」

 そう言い残して、由吉さんは急いで下の階へと戻っていった。


 朝から慌ただしい人たちだ。

 さて、わたしもリビングに向かう準備をしたほうがいいだろう。

 昨日のうちに久瑠実さんが用意してくれた学校の制服に着替えてから、洗面台にいって自分の顔をみる。

 鏡の中の自分の顔を殴りたい衝動を今日も抑えながら顔を洗ったのち、リビング前のドアを開けると、すでに一家団らんという具合に、近江一家が席についていた。


「おはよう愛美ちゃん。さぁ、みんなでご飯、いただきましょう」

 朝からでも、久瑠実さんのおっとりとした笑顔は健在だった。そして、わたしの姿をみると、空いている席に座るように促した。

 だけど、しばらくわたしはその場で固まっていた。


「愛美お姉ちゃん?」

 そんなわたしを不思議そうに見てくる憂ちゃん。

 そして、わたしは絞り出すような声で近江一家に尋ねる。


「あの……、みなさん、まだご飯……、食べていないんですか?」


 わたしは、食卓に料理が並べられているというのに誰一人として手をつけていないという光景に、疑問を呈するほかなかった。

 だが、そんなわたしの質問に、あっけらかんと答えてくれたのは、由吉さんだった。


「んー? そんなの決まってるじゃない。食事はみんなで食べるもんだよ」


 由吉さんの発言に続くように、蓮さんが言葉を紡ぐ。

「これが、父さん……、近江一家の掟みたいなものなんだよ」

「ほらほらー、愛美お姉ちゃんも早く席に着きなよー」

 今のわたしと同じ制服を着た憂ちゃんがわたしを呼ぶ。


 そういうもの、なのだろか? 

 わたしの記憶の中には、もう誰かと一緒にご飯を食べるというものが存在しなかったので、これには衝撃というか、一種のカルチャーショックのようなものを与えられた気分だった。


 郷に入れば郷に従え、か……。

 わたしは昨日、夕食を食べた同じ自分の席(らしい)に座って、朝食を摂る。

 食卓にはロールパンとベーコンエッグが並んでいたが、昨日の夜と同様、それぞれに配分されてはおらず、一カ所に集められたバケットと皿のなかから手を伸ばしていく方式だった。


 ホテルのバイキングみたい、という突っ込みをどうにか飲み込んで、わたしは遠慮がちにロールパンをひとつだけ頂いて、乱暴に牛乳で流し込んだのだった。


〇 〇 〇


 公立こうりつ宿木やどりぎ中学校。

 それが、わたしが新しく通う、中学校の名前だ。


「それじゃ愛美お姉ちゃん! がんばってねー」

 わたしを職員室まで案内してくれた憂ちゃんは、元気いっぱいに手を振って去っていった。

「んー、あの子、君の妹?」

 頭をかきながら、セーターを着た男性教員がわたしにそう尋ねてきた。

「いいえ、あの子はわたしがお世話になっている親戚の家の子です」

 そして、わたしは教科書の文字を読み上げるように淡々と返事をした。


 妹だったら一緒にここに残るでしょ? と、余計なことを言いそうになったところで、「ふーん、そう」という、さもどうでも良さそうな返事があって、それで憂ちゃんの話題は終わってしまい、男性教員は自分の自己紹介を始めた。


 まぁ、わかっていたことだが、彼はわたしの担任の先生で、クラスは2年A組ということらしい。

 クラスの人数は三十人。おおよそ男女半々という、わたしには全く興味のない情報が先生の口から発せられた。

「じゃ、HRでみんなの前で挨拶してね」と言われて、わたしは先生の後ろについていって教室へと案内される。

 すでにチャイムは鳴っていたので、廊下には生徒がおらず、わたしと先生だけが歩いている。

 っていうか、憂ちゃんは遅刻にならなったのだろうか? チャイムと同時に座っていなければ遅刻扱い、なんて校則の厳しい学校じゃなければいいのだが……。

 いやいや、今は憂ちゃんの心配より、自分の心配をしなくては。


「じゃ、ここで待っててね」

 そう言われて、わたしは二年A組の教室の廊下の前に一人にされる。

 教室に入った先生は、「今日からこのクラスの仲間が一人加わります」なんてお決まりの挨拶をする。

 男子生徒の声で「男子ですか!? 女子ですか!?」なんて、これまたお決まりの返答をして教室をざわめかせていた。

 おいおい、ハードルあげるなよ。と、眉間にしわを寄せたところで、「おーい、遠野」と、わたしの名前を先生が呼んだ。

 まぁ、これぐらい、どうってことはない。

 大丈夫。自己紹介なら、近江一家の前でもやったじゃないか。


 そう自分に言い聞かせて、わたしが教室の扉を開けた瞬間、クラス一同の視線が一斉に集まった。


 ――うわっ、これって思ったよりもキツいかも…………。


 荒くなりそうだった呼吸を整えて、わたしは教卓の前に立ち、緊張している女子生徒という立場を保ちながら、言った。


「遠野……愛美です。これからどうか……よろしくお願いします」


 わたしは最低限の挨拶だけして、ちらっと先生を見た。

 先生は「えっ、それだけか?」という表情をしていたが、わたしがこれ以上は何も言わないことを察してくれたようで「……それじゃ遠野は、一番後ろの席を使ってくれ」と告げてHRを再開した。


 席について、ふっ、と肺に溜まった空気をすべて吐き出す。

 少しまごついたかもしれないが、おそらく許容範囲だろう。

 このクラスの人間は、わたしのことを普通の転校生だと思ってくれたはずだ。

 注目が集まっているのは今だけで、その好奇心もすぐにはがれていくだろう。

 そうすれば、わたしは空気のように、ただ当たり前にそこにいるけれど、認識はされない存在になっていくはずだ。

 これからの学校生活は、誰とも関わらないと決めている。


 だからこそ、わたしはみんなの前で、「仲良くしてくださいね」なんていう社交辞令を、口が裂けても言わなかった。


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