月を喰う迄

 ヘルメットを脱ぐと、途端に冷え冷えとした水の香りが鼻をいた。駐輪場は墓地に面していて、どの家もく手入れされて見えるのに、入口の仏像の頭だけがどこかへくなっていた。

 目前の国道には車輛が忙しなくしていたが、たかしには夢に見る景色のように色彩を感じられなかった。空は低く垂れ、北の風が雲をしていた。

 崇は祖母の墓を洗い、手を合わせると、脇の極端な石段をのぼりはじめた。両岸を住宅の側面にさしはさまれ、濁ったねこけのペットボトルが等間隔に控えていた。こちらへ向いた室外機が崇に汗を噴きださせた。その不快な湿気がかえって過去を鮮やかに思いださせた。

 角度のある箇所で踊り場のように拓けた場所に差し掛かると、都度何らかの店舗が現われた。それはうなぎ屋であり、そろばん教室でもあった。汚れた看板がそれとわからせた。何れもすでに戸をてていた。振り返ると過去の段差は家々の背後にかくれており、崇をいかにもの気持ちにさせた。とはいえ所詮は行き止まることのない抜け道であって、だからたまに現れる店舗の影にどこかのびのびとしたものがあるのかもしれなかった。

 幼い頃、崇は迷い子だった。やはりこの道にいて、そのときは山頂から階段を下っていた。

 夏休みにひとり暮らしの祖母の家を訪ると、彼女は決まって崇を外へった。崇は家の中のほうがよかった。いわれたからには適当な時間まで周囲を彷徨さまよった。山を降りても道路しかないので、上へ足を向けるしかなかった。しかし、祖母の家をさかいに畑と工場しかない地域になった。

 その日の帰り道がこの路地だった。子どもの足にはやや一段が広く思えた。まして両岸を灰猫色に汚れた壁に遮られているので、ますます閉塞感を募らせた。

 ……人の気配などそれまでなかった。ところがふと幾度めかの曲がり角を折れたとき、崇は突然大勢の人間にくわした。

 多くは老齢に見えるいささか草臥くたびれた男性たちだった。ある者は石段に坐り込み、ある者は踊り場の小さなベンチに腰を下ろし、無闇に焼き鳥を頰張っていた。

 道幅も勾配もそれまでと変わらない。息の詰まりそうな家々の壁もそのままだ。それだけに本当は印象ほどの人数はいなかったのかもしれない。が、すくなくとも僅かではない数の人間が集結しているのは確かだった。

 路地に面した一戸の窓が開いており、鳥を焼く女性の姿があった。窓の周囲にはだとかだとかだとか、短冊状の真っ黄色の紙に筆で大書されたものがべたべたと貼られていた。

 気が付けば路地には目に沁みるほどの煙が充満していたが、ここへくるまでかすかな脂の香りさえも嗅ぐことはなかった。酒を手に持っている人間も珍しくはなかった。彼らは確かに食べているのに、食べ進んでいるという気配は感じられなかった。食べるという概念だけがそこにあるようだった。どこか崇の想像力を超えていた。

 路地は角度を変えながら続くのだったが、その頃には振り返っても、もはや彼らの姿は見えなかった。

 祖母の家に帰ったのは正午のことだった。崇はふと思いついて昼食に焼き鳥はどうかと提案しかけたが、祖母が已にとうもろこしを茹でていた。

 あの路地の焼き鳥屋について、あとから振り返るほうが不思議だった。その場では現実を疑う余地のないほど、まざまざとした光景だった。併しふとした拍子に思いかえしてみれば、観念的なものばかりが濃くなる。細部を思いだそうにも、思い出すはしからするするとほどけてゆく。崇は祖母の家に泊まる都度石段に通ったが、ついに痕跡を見つけることはできなかった。

 陽が暮れかけていた。たまに蚊をはたながら崇は石段を上った。大人になってみれば、記憶にあった以上に狭苦しい場所だった。腐った雨樋や、朽ちて傾いた家々の塀や、欠けた鉢植えが物悲しさをいよいよ募らせた。それら自身も朽ちるのを望んでいるかのようだった。

 やがて幾度めかの曲がり角でいくらか道が拓けた。暗い中にぽつねんと明かりのともった食堂があった。屋根に乗った看板は縁が欠け、逆光で読むことはできなかった。出入口がふたつあったが、そのどちらにも戸がなかった。併し狭い店内は大入りで、コの字型のカウンターで男性客が何人も背を丸めてどんぶりつついていた。

 すこしさきにもやはり寂れた食堂があり、ただしそちらはいささか閑古鳥が鳴いているようでもあった。店の前に椅子を出して青年がふたり、質素なねぎなべを囲んでいた。店内にはそもそも厨房しかなく、難しい顔をした老人がまないたに向かっていた。

 崇はそれらを知らなかった。すくなくとも昼にはそのような様相はなかった。あまりにびた風情は夜になりかけた気配と奇妙にれあっていた。

 それからさきには、次々と飲食店が現れた。扱うものも雰囲気も様々ではあったが、何れも戸を開け放ち、そのくせれる光は弱々しく、みちを何ら照らさないのが奇妙に共通していた。崇は飲食店街に特有のましい香りを嗅いでいた。それが夢ではない証拠に思えた。立地のためか特異な形状の店舗が多かった。ある支那そば屋には、ひと席しかなかった。ついたてに挟まれた一人前の空間で、店主は真正面に控えている。飲食店というよりは路上の占い師のようであった。またある甘味処には、むしろ店舗がなかった。青いビニールの天蓋が組まれ、簡素な骨組みの中に長椅子が用意されていた。天蓋の端は電柱にきつく結びつけられ、いちいちは畳まないようであった。また、それこそ露店のような店舗もいくつか見受けられた。併しあの焼き鳥屋だけは見つけることができなかった。……

 崇は露店でけの寿司を二貫求めた。四辺あたりはいつのまにか夜である。ますます店も人も増え、けれども一様に、已に何かを食べていた。これから向かう人や、食事をえた人を見かけることはなかった。

 崇にはその人出に見合うだけのざわめきが聞こえてはいたが、潮がくように耳の底へ、いや記憶の底へ消えていった。石段は崇が想像していたよりも長く、頂上までいくつもの灯りが蛇行して上っていた。

 頂上には満月がかかっていた。何の店なのかわからない、店主もいない、ただ開いているだけの店では電球に蛾がびりびりと飛びついていた。もっとも多いのは食堂で、短冊状の細長い品書きが壁に密集していた。中華料理屋のみせさきで中国人の子どもの人形が光っていた。みちの脇からは細い木製の電柱が生え、腐って傾いていたがまだ電線が通されていた。

 崇はいい加減空腹を持て余しはじめた。も渇いていたので、一軒の食堂の暖簾をくぐった。その店も席は厨房を囲んでコの字に並んでいた。品書きは見当たらなかったが、皆がラーメンを食べているので崇もそれを頼み、運ばれてきた水をひと息にした。

 厨房には店主と、彼の妻にしては若く見える中年の女性が立っていた。店主は顔に天狗のような皺が寄っていた。女将に促されて端の席に寄った。蜘蛛の巣の張ったスチールラックがあり、本が乱雑に積まれていた。崇が一冊手に取ると指紋の溝がすぐに埃に埋まってしまった。だがおしぼりはもらえなかった。崇は水の汗で指を湿らせると腿で拭いた。

 女将おかみは愛想く立ち回って、客にあれこれと気を回していた。だが運ばれてきたのは麻婆豆腐であった。浅い皿に豆腐が頭を突きだしていた。崇は文句はいわずに食べた。すぐさま汗がでるほどからかったが、人々の声と同じく、一瞬ののちにはまるで感覚が消えてしまう。

 ――おいッ、これはこうするんだよ。

 隣にいた男性に急に声をかけられてまごついた。男性は自分のサワーグラスに麻婆豆腐の汁を勝手にそそぐと半分ほどあおった。どうやらの焼酎をこれで割るのが、名物か、礼儀かのどちらかみたいだった。男性が得意げにグラスを寄越すので崇も飲んだ。まぬるかった。

 ――そしたら煮込みうどんで締めにいくんだよ。

 男性はさも面白い冗談であるかのようにいい、実際それは崇にも魅力的に思われた。

 ――どこで喰うのですか。

 ――どこにでもあるだろ。

 男性の言葉には説得力があった。

 ――ところで、ここらに焼き鳥屋はありませんでしたか。

 崇はそう口にしかけて、飲み込んだ。それこそ、どこにでもある、と返されそうだと思った。いや、崇自身がそれを信じはじめていた。

 崇の皿はすでに空いていた。けれども崇はまるで無感動で、自分の胃に収まったとは信じられないほどだった。結果だけが急に自分に立ち寄ったみたいだった。店の客も、気がつかないうちに入れ替わりを繰り返していた。出てゆくところも、這入ってくるところも認められないのに、顔ぶれだけは間違いなく入れ替わっていた。長居する客はおらず、皆静かに丼や、麵に向かっていた。崇も空腹ではないのに、そのくせそれらすべてを食べられそうな気がしていた。

 ――いつまで喰うのでしょう。

 崇がふいに問うと、男性はこともなげに答えた。


 ――月を喰う迄さ。


 店を出ると、崇はまた石段を上りはじめた。大人の祭りにきたような気分だった。そろそろ足の裏が痛くなっていたが、かえって崇の足取りは軽かった。石段を蹴るというよりも石段に蹴られるように、いくらでも進むことができた。

 路地は相変わらず静かで賑やかだった。いつまでも月は山の頭に刺さったままだった。連続する灯りの破線は、本当に月まで伸びていそうだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る