ハッサンの犯罪(二)

 店のごみを集積所に抛り、ビルの更衣室にゆくと誰もいなかったのでほっとした。仕事の終わりや休憩時間に、仕事中とはまた違う種類の仲の好さを強いられるのが苦手だった。心の護身用にイヤホンをはめて、聞きたくもないラジオなんかを流しながら買い物する。

 買いものを済ませて駅舎をぬけると、そこでハッサンが待っている。縁石に腰かけてスマホをいじっている。無視して通りすぎるとハッサンは肩を並べてついてきた。

「及川サン、偶然ですね」

「なんであんたが待ち伏せしてるわけ?」

「ゲームに夢中になってしまって」

「夢中になっててよ。巻き込まないで」

「偶然、負けました」

 ハッサンの笑いは目もとだけの笑いだ。下のまぶたがすこしだけ歪む。坂の正面の信号が赤だった。私が無視して横断すると、ハッサンも無視する。

「ねえ、怖いんだけど」駅とコンビニの明かりがまだ届いているうちに、私は歩をゆるめていった。

「はい。怖いので、そこまで一緒に帰りませんか」

「……今まで反対行ってたでしょ?」

「はい、そうです。野暮用ですわ」

「こんなところに何の」

 ではここでとハッサンが急に止まるので、私もつられて止まってしまった。私が昨日、伸び縮みする影を見かけたあの場所だった。あの影はハッサンだったのか。

 いまさら気がついてみると、雑木林は雑木林ではなかった。目を凝らすと野放図に絡み合った枝葉の奥に建物があって、木々が塀の代わりに道と敷地を分けているのだ。

 それでいて木々は私の胸もとにまで枝垂れ、足もとには太い松の根が這い、ここが入口というわけではなさそうだ。暗いのと木立が邪魔をして見えないが、それでも拓けた場所があり、さらに奥に全体に大きく傾いた黒いかたまりが見える。明かりはない。私まで後ろめたい気持ちになるような建物だ。

「住んでるの?」

「いえ。だれも」

「警察……入国管理局か」

「国籍は日本にありますし、住んでるわけじゃないですって」さもおもしろい冗談を聞いたように額に手のひらを当てる。ついでに甲で汗を拭う。

「呼ばれたんで、来たんです」

「誰に」不法滞在の仲間とか……。

「家に」

 家? 変ないい回しをするので、私は思わず眉間に皺を寄せた。ハッサンは眉を顰めて、正確にいうと家族ですといらない訂正をする。私がそらきたと若干わくわくしていると、むかし住んでた家に似てるんです。そんなことを照れくさそうにいう。

「坂道にあったんです。火事で焼けて、それで両親死にましたね。ああ、そうではなくて、木と木を分けて入るんですよ。ここを知ったのは最近で……」

「何だ、ただのホームシックか」ハッサンはそんなもんですと応じると、自分でも困っているのだというように照れ笑い、ポケットに手を突っ込んだ。

「ほどほどに」と、私は訳のわからないことをいった。中高年のような語彙に私は自分で勝手に恥入ったが、ハッサンはありがとうございますと礼までいった。

 気を許したわけではないが、とりあえず、唐突な自分語りに照れるような態度が思いのほか気に入った。じゃあ、明日。私のほうから声をかけてやると、ハッサンは軽く会釈をして雑木林をくぐった。

 彼が数歩も進んでしまうと、もはや影に飲まれるように何も見えない。それと知っているから動くものが彼とわかる程度だ。庭なのか拓けた場所には月が差しこみ、多少は明るい。ハッサンらしきひと影はそのまま直線に黒いかたまりに吸いこまれた。

 すると、庭の一部からいきなりひと影が起きあがった。びっくりして声をあげそうになったが、あげなかった。

 影はそのまま家へ歩きはじめた。すると家に比べていささか身長が高すぎる気もするのだが、夜目の遠近感なんてこんなものかもしれない。昨夜と同じように極端な伸び縮みを繰り返しながら、最後はやはり建物に吸いこまれた。


 この夜以来、私はうっかり懐かれてしまったらしい。ハッサンはシフトがかぶる日はかならずそこで私を待つようになった。

 決まって同じ縁石に腰をかけ、時には煙草を喫い、私がくると焦って隠した。私が何もいわないうちからいいわけをするように、あの、目もとだけの笑いを寄越すのだ。

 鬱陶しくはある。ただ、彼と別れるまでは信号を待っても精々一、二分のことに過ぎない。ぶっきら棒にしていてもハッサンが構うようすもなく、そのくせさほど距離を詰めてくることもないので、つまり、害はないと判断した。

 彼と別れる木立の入口を、明るいうちに覗いてみたことがある。葉は夏の終わりに向けていっそう繁茂していた。視線を落とすと、枝葉や雑草が絡まりあうなかに茶室の入口のような小さな穴が空いていた。

 目を凝らすと、雑草の見事に茂った庭の奥にあるのは質素な日本風の建物だ。縁側らしいものさえある。粉を吹いて見える壁には巨大な亀裂が走り、今にも崩れてしまいそうだ。家じたいもそれを望んでいるように見えた。瓦屋根はすでに一部崩れている。木材らしい部分は目に沿って割れていた。トルコ人が夜な夜な心の慰めにするほどのものらしいが、私に異国情緒が想起されることはない。

 ただむろん私にトルコの知識はほぼなく、想像できるのはそう、壁に窓を穿った住居だ。……カッパドキア、アイス、サッカーで何かあったっけ……自分の知識と想像力のなさにうんざりする。

 あるいはハッサンはどこか似ている一部を愛でているのかもしれない。


「僕は過去に呼ばれているんです」

 その夜、ハッサンは哲学的なことをいった。

「家族っていってなかった」

「僕の中は空っぽで、その中に死んだ家族が入るんです。両手に妹と弟が、両足には父母が、肩や腰には祖父母が、叔父が、叔母が、僕の手足を操るんです」

 彼はあくまで真剣だ。私は反射的に周囲を見回した。もうすこし露骨にいえば、咄嗟の逃げ道を探した。そのせいか、

「――どうやって?」思わず見当違いの言葉が口をいて出た。

」ハッサンもまた見当違いの球を抛って寄越す。すっきりしないまま、その日は別れた。私が彼の言葉をぼんやりと理解するのは、もうしばらくあとのことだ。

 という名のロボットが、十八世紀に流行ったらしい。自動でチェスを指すというので話題になった。もちろん中はがらん堂で、中にひとがはいってで操作しているのだった。

 ナポレオンとかフランクリンとかポーとかいった歴史上の人物を巻き込みながら世界を行脚し、誰にも種がわからないまま落ち着いた先の博物館で焼失した。燃え盛る炎の中に、人形の「チェック! チェック!」と叫ぶ声が響いていた……という短編小説みたいな落ちがつく。

 インターネットで偶然出会い、一読私は首をひねった。不意の冗談として成立するほど、有名な話なのだろうか。

 いや、思えばハッサンにはそんなところがあった。饒舌なくせに、相手の反応に頓着しない。

 ハッサンと別れて坂を上る。左に折れて、またしばらく上る。線路を跨ぎ、道端の萎れた向日葵を後目に進む。途端に平らに削られた道があり、朝から夜中まで営業している妙な八百屋がある。うなぎ屋の店さきには空の水槽が泡を立てている。

 住宅のところどころに空き地がはさまっていて、隙間に用水路が割り込む。排水が反響して低い音がする。いよいよ街灯がなくなって、複雑なかたちをした階段坂に差しかかるともうすぐ着く。

 ハッサンと話すようになってから、私はラジオを流さなくなった。単純に、止めたり流したりと面倒だからだ。すると帰途の頭の中では、いつも子どもの頃の坂が思いだされた。私は坂を上っているが、頭の中でも上っている。むかしの家は坂を上りきった場所にあった。借家だが一軒家だった。部活を了えて帰宅すると、居間で両親が死んでいた。強盗だった。

 坂を上りきらなければ、私は死んだ両親を見ずに済むのではないか。などと時折哲学することもある。私がドアを開けるまで両親は死んでいて、生きている。……一時期入院していた病院には、人形を人間が操っていることを信じない人間はいくらでもいた。私もその笑止な空想を一瞬信仰しかけた時期があった。けれども極めて遺憾なことに、私の頭は健全だ。

 だから、部屋のドアに鍵を挿したあと躊躇するような、しおらしい真似は私にはできない。ドアをあけると、ひとり暮らしの乾いたにおいがした。

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