ハッサンの犯罪(三)
冷蔵庫の桟の隅っこに、埃が溜まっている。結露を含んで重くかたまり、楊枝で
「今日はもう駄目だな」ぼやきながら店長が事務所から出てきた。ドアの奥にふと見えた時計が十六時過ぎを指していた。店長は大儀そうに肩を回して、「及川、いいよ、今日は。無理に仕事つくんなくても」
私も苦笑すると、砕いた埃をティッシュで拭った。今日は十七時には上がりの早番だ。もっとも、こんな時にかぎって家族連れがきたりするものだ。店長が冷水機から水を
彼はわたしよりもふたつ上の男性で、入社もちょうど私より二年早いらしい。忙しくなると剃った頭に汗の玉が目立って暑苦しいのだが、とうぜん今は涼しげだ。
「
「月曜日だしな。家族連れが何組か来ただけだろ。夏休みだってのにちょっとひどいな」
「仕込み、余っちゃいますね」
「で、済めばいいけど」わざとらしく頭を搔いて自分の水を汲む。「売上がな。たぶんこれからハッサンの時給ぶんもでないぞ」
「これからですよ。わかりませんよ」
「込む時は最初から込む。込まない時は込まない。飲食ってそうだよ。ホール俺ひとりでもよかったな」
「……その前に店長ひとりで回りません?」
「だからハッサンに仕事残しとけってこと」
口調は冗談めいていたが、真剣だった。口に近づけたコップの縁が白く曇った。
「あ、ハッサン休みにしちゃえばいいんじゃないですか?」
店長が変な顔をした。
「そりゃ駄目だろ」
「夜からどうせ二時間でしょ、今日。休みになったら嬉しいですよ、普通は」そうだろうか。思いつきで話しただけに、私は自分のために多弁になった。……ハッサンの今月のシフト……源泉徴収……故郷の家族……はないのか、生活費……遊び人ではなさそうだけれど……。
「ああ、まあ、そう、かな?」店長はものを考える時、ないはずの髪をいじる癖がある。しばらく器用に架空の前髪をいじっていたが、じゃあ、そうするか。そんなことをやって、頭の中の何かに目を遣った。
「あいつ、基本電話でないんだよな」
あんなところに回線は引いていないだろう。
「電話でたら休み、でいいんじゃないですか?」
「いいのかなー……」店長には店長として、何かしら思うところがあるようだ。私は残った水を飲み
「おーい」
木立に向けて呼びかける。アブラゼミの粘っこい鳴き声が大きくなった。
以前に一度覗いたことで、脳が見かたを覚えたのだろうか。相変わらず葉叢が視界を蔽ってはいたが、今は枝の破れ目の奥に家をしっかり確認できた。
するとひとがとおったので、あわてて背を伸ばした。逃げた猫でも探しているのだと、都合よく解釈してくれるだろうか。帰途思いつきで寄ってはみたが、彼が昼間から入り浸っているのかまでは知らない。
今日にかぎって、ひとどおりが途切れない。私は次第に苛々して、思いきって木立の隙間に割って入った。回りこめばどこかに門があっただろうと、気がついたのは肩の蜘蛛の巣を払っている時だった。
近くで見る家は想像よりも旧いものだった。太陽が屋根の一部を白く抉っていたが、ほんとうに欠けているのかもしれなかった。壁の罅はそれじたい意思を持っているかのようだった。
繁茂する雑草は、生きているのかわからない色合いだ。敷地は公園くらいはある。そのくせ四方を低木で囲われていて圧迫感があった。わかりやすく家まで草が潰れている。湿った土もそこだけは乾いて、砂を踏む感触が靴の底で目立った。
「ハッサン」
玄関の敷石に立ち、私は〝おそるおそる〟といった感じで閉まりきっていない引き戸に声をくぐらせた。廃屋のくすんだ香りが漏れているだけで、ひとの気配はない。丸い輪の把手があったが、一面に黴じみた緑青が茂っていて触る気にはなれなかった。
縁側の木材は干からびて輪郭をなくしていた。触れただけで崩れる粘土か何かにでも見える。窓は開け放したままだ。建て付けの問題か、暑いからなのかはわからない。
異様に暗く、太陽はすぐ手前で遠慮がちに途切れている。何か散乱しているのが破れた天井から落ちてきたものらしいと、思いつくまでに時間がかかった。中は畳なのだが、腐りきっておおいに波打っている。
あらためて疑問が濃くなる。これのどこかトルコに似ているというのか。
「ハッサンやーい」もういちど声をだした。
「もう帰るよー」
「何ですか、一体?」いきなり声がかえってきて、私は咄嗟に声をあげた。
声の主はもちろんハッサンだったが、いつもと顔が違って見えた。私を見る黒目がちいさく痙攣していることに気づいた。太い眉に汗がいくつも潜んでいる。私はようやく、自分で自分の行動に疑問を覚えた。
「驚かさないで」
「僕の科白です。てっきり――」
「何」
「あいつかと……」
ハッサンは私の脇を抜けると、持っていたビニール袋を縁側に置いた。傾いた袋からペットボトルや缶詰がはみでた。二リットルの水が二本。缶詰も相当な量だ。小分けになった箸とフォークもいくつか見受けられた。
「やっぱ住んでんじゃん?」
「そういうのじゃないですけど」
「あいつって何よ」
「探偵です。しつこいんだ、これが」
妙な方向からの単語にまごついた。
ハッサンはいつもの顔に戻っていた。ただ、縁側に腰を下ろす所作がうんざりしていて、いつもの鬱陶しい軽さはない。ビニールから煙草を取りだすと、遠くを見るような何も見ていないような目で包装を解いた。
「今度は探偵に呼ばれてんの?」
「死んだ家族が差し向けたんでしょうね」
「ていうか探偵って」
「探偵は探偵です」ハッサンはため息に煙を混じらせた。「僕の行動をいちいち監視している、執念深い男です。どこにいてもあいつの影が、……、いや、影そのもののような男で、影だからうまく闇にまぎれるし、厚みがないので隙間からいくらでも入り込んでくる。今もどこかに潜んでいるのでしょう、僕が油断すると姿を見せて愉しむ性格の悪い男です」
何をいっているのか、私にはちょっと理解できない。
「探偵って、トルコ人なの?」
「影ですから、わかりません」
「家族が雇った、って外国の家族?」
「たぶんそうでしょう」
「亡くなる前から雇ってハッサンを監視してたの?」
「たぶんそうでしょう。及川サン」
「何」
「めずらしいですね。及川サンからいろいろ訊いてくるの」
急に恥ずかしくなった。あんたが意味わからないこというから、理解するのに必死なんだよ。抗弁すると、必死なんですか。ハッサンは鸚鵡返しに返して笑う。恥ずかしいのが、今度はかちんときた。
「ハッサン、頭おかしいふりすんのやめな」
「日本の夏は暑いですからね」
「そのまえからトルコ人のふりしてんじゃん」ハッサンは何もいわなかった。ただ煙草の火を移動させているだけだった。
「トルコ人かもしれないけど、日本人なんでしょ?」
「どうして」
「言葉だって、この家も、――。まあ、それはうまくいってるかもしれないけど、変なこというのは、気持ち悪いよ」
ハッサンは几帳面に確かめる調子で、気持ち悪いですか。といった。それで私は自分の興奮に気づいたけれど、肯定した。彼は腿の上に落ちた灰を雑に払うとまた目だけで笑った。
「及川サン、探偵みたいですね」
「バイトこなくていいから」
これだけだと意味がとおらないかと思ったが、
「わざわざ、おおきにありがとうございます」やはり丁寧に声をかけてくるのが、おおいに私の気分を害した。
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