ハッサンの犯罪(一)
「トルコからきました。名前ハッサン・サイです。二十四歳です。半分、日本です。事故で、親、死にました。親戚のいる日本きました。どうぞよろしくお願いします」
というわけで、職場のみんなはあっさりと彼をかわいそがった。とくにパートの奥様がたの同情をおおいに買い、そうかい、そうかい、苦労してんだねえ。あの
けれどもそれはハッサンの、いわば世渡りの一種だったのではないかと私は思う。彼の日本語はおそるべき速度で上達していて、あるとき気がついたらすでに訛りはあとかたもなかった。思えばあの自己紹介の日から文法の詰めの甘さもわざとらしく、発音も〝日本人が想像する外国人〟のそれに近かった。ありていにいえば、演技していたのではないか。
と、ここまでいっておいてなんだが、あまり私の推理を信用しないほうがいい。嫌いとまではいわないまでも、私は彼が好きではない。
両親が死に、親戚の家を転々とした。セオリーどおりで口にするのも気恥ずかしいのだが、虐待と売春と精神病、ついでにリストカットと馬鹿な男のおまけつきだ。幾人かの人間に(精々さわりは)告白する機会があったが、曖昧な反応は敬遠に変わる。果ては得体の知れない悪意さえ向けられる始末だ。
私はそれはそれとして自立しているし、いまさら同情も共感もほしくもなければ必要でもない。ただそれは所詮賢しらな頭の中での威勢であって、正直に告白するなら彼の世渡りの巧みさに、嫉妬に近いものを覚えないではないのだ。
そんな自己紹介から、半年ちょっとが経過した。いまやもしかしたら日本人よりも舌の滑らかなハッサンの日本語の教科書は『ミナミの帝王』なのだそうだ。
馬鹿にしている。
息子が警視庁に入ったの。
だしぬけにそんなことをいわれた。私は食器を洗いながら、はあ。努めて気の抜けた返事をしたが、須川さんはうずうずしている。
キッチンスタッフの須川さんは、なんだか長すぎる顔をした女性だ。年相応に皺が寄ってはいるが、歯だけがいやに白くていつもぴかぴかしているのが不釣り合いで奇妙だった。
手を休めないまま、おめでとうございます。とだけサービスしてやったが、これがまずかった。途端に用意していたような笑顔になって、ありがとう、と声音を変えた。彼女は自慢話のまえに音程を変えるタイプの人間である。
「でもお、私、よくわからないのよね。警視庁にはいるって、どういうことなのかしらね? 交番にいるおまわりさんとは、違うのかしら? いきなりおおきな名前をだされても、ぴんとこないわよねえ。母親はこんなところでパートしてるんだから」
私は壁の時計を気にした。
「須川さん」
「なあに」
「十五分になってしまうので」食洗機の蓋をあけると会釈をして、いちおうの礼儀としてお先に失礼します、とつけくわえた。私も契約とはいえ社員なのだ。精々の皮肉がタイムカードとは情けないが、十五分を超えると本部がうるさい。
更衣室で手早く着替えると、案の定
私が、お疲れ様です、というと高松さんはうんといい、須川さんは何もいわなかった。
職場は繁華街の駅ビルに入っている。一階の薬局で冷凍食品を買いこんで、駅舎を裏口へぬけた。正面とはあべこべに、錆びた自動車や傾いた壁がそのままで放置されているような場所だ。罅の走ったビルに数軒の飲食店が看板を出しているのだが、極端に焼け石に水だった。
裏山の極端な坂道を上っていると、ちいさな祠を境にやがて片側が崖じみてくる。柵はなく縁石だけが埋めこまれていて、体の半分がそちらへ引っ張られる錯覚がある。右と左に地蔵がふたつもあるのはこのせいじゃないのかとすら思う。
夏の夜のとろとろとした
そういえば、と立ち止まる。洗剤を切らしていたことを思いだしたのだ。見返るとちょうど目の高さに、電車のホームが発光していた。
近くでがさがさと葉を踏む音がして驚いた。見ると横合いの雑木林からひと影がのそりと出てきた。
やけにひょろりと瘦せた影だった。かと思いきやすぐに縦に潰れてずんぐりとした。立体感はなく遠近感だけはたしかで、見ているとけれどもいきなりまた縦に伸びたりした。輪郭は曖昧なくせに手足だけはしっかりとくっついていて、妙に人間くさい印象があった。
影はそのまま、道を
街灯の下に入ると結局、影は男性らしいうしろすがたにすぎなくなった。そのうち建物に隠れて見えなくなってしまったので、私は鼻でゆるく息を吐くとまた坂を上りはじめた。
「昨日、山に」
ハッサンは後半を省いていった。私は態度を決めそびれた。いましたか?、だろうか。それとも、いました。だろうか。
近くで見るハッサンの輪郭は、ずいぶん濃くて黒ぐろとしている。太い眉は微妙に弓なりに下がり、困っているように見えるけれど見えるだけで気のせいだ。
「あのへんだからね」私は余計なことをいった。
「あ、やっぱり
「ハッサン、清掃は終わったの?」
「はい」
「お疲れ様。邪魔しないでくれる」
私はその時、照明を落とした店内でレジを締めていた。無論そのあとに店長の最終確認があるわけだが、気と頭を遣う作業であることは間違いなかった。
「どーも、すみません」
ハッサンは笑って坊主頭に手をやり、ホナ、お先失礼しまーすと軽く声をかけて事務所へ消えた。この調子なのである。『ミナミの帝王』の設定、最近忘れがちじゃないのと私はこっそり毒づく。
須川さんは、彼はまだ日本語に不慣れであると主張する。
今日、彼はオーダーミスをした。それはいいとして、執拗に彼を擁護する須川さんに私は手もなくくさくささせられた。彼に苛立つのは違うかもしれない。だがはじめから疑いの目で見ているだけに、殊更悪びれる奥でどうすれば自分が彼女に庇われるのか、計算しているのではないかと思ってしまう。
……中学生まで名古屋にいた。
名古屋は坂の多い場所で、平地はどこまでも平らなくせに、坂道に入ると延々と勾配が続く。私のいた地域は新興住宅街で、どこまでも同じ顔をしたのっぺりとした建物が並んでいた。
どうしていま、こんなことを思いだすのか。自分でもわからない。ただ私の無意識はそれを気に入っているらしく、なんでもない時にかぎってふっと過ぎった。
振り向くと足もとに点在するちょっとした樹々の頭を思いだしながら、私は帳簿を閉じた。
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