水夫と金平糖
何かが光ったと思ったら彼女だったのだ。
付け加えると、それは陳腐な比喩ではない。――僕はその時まだ十六で、水夫としては新米もいいところだった。航路ではあの悲劇のような白い鯨やクラーケンとの血なまぐさい死闘などもちろんなく、僕らは極めて正確に迅速に、荷を積んで日本と海外とを往復していた。僕らの船が横浜港へ着きふたたび発つまでの五日間、僕らには休暇が与えられた。仲間たちは
怪しげな香りのする中華街を抜け、僕の脚が横浜公園に差し掛かった時、ほとんど月と星だけが照らす薄明かりの中でふときらりと何かがひかったのを目に止めた。一瞬そちらを見ると、それが彼女だったのだ。
池は彼女ひとりだけのために律儀に水を噴きあげていた。それに月明かりが雲母のように輝いていたが、いましがた僕が気にしたそれではなかった。彼女は噴水の池の脇に車椅子を停めていた。長い髪を三つ編みに結わえ、風を受けた
思わず目があうと彼女は不安などどこにもないようにほほえんだ。そうして口をひらき何かをいいかけたらしいのだが、僕はあわてて背を向けてしまった。僕は――いまでもそうなのだけれど――彼女のもつ、いわゆる『優雅さ』やら『品』やらとかいうものに、てんで免疫がなかったのだ。
乱痴気で陽気な男どもと暮らしているせいだろうか。それにしても彼女のやわらかさ、どことなく感じる強かさのようなものに、僕は萎縮してしまった。いや、無駄に言葉を費やすのはよそう。つまり、『照れた』のだ。で、『逃げた』のだ。
『精神的なもの』と診断してくれた名医のおかげで、僕は子ども時代の夏のひとつを陰気な療養施設で過ごす破目になってしまった。病棟の僕を含めたほとんどの子どもたちは極めて健康で、極めて規則ただしく、極めて退屈しきっていた。
周囲の洋館には洒落た、小ぎれいな、ようするに金持ちの子どもたちがたくさんいた。運動の時間などに、柵をはさんで見かける彼ら(もしくは彼女ら)は
翌日は朝から雨だった。体に悪そうな雨が横浜港を湿らせていた。今が貴重な休暇中であるという点に目を瞑れば、船内に仕事はいくらでもあった。僕はだらだらと掃除や荷の整理をしながら、公園の彼女のことを考えていた。というよりも、自分の態度についてひとりで反省会をひらいていたのであった。
夜になると、船にもどってくる仲間たちがぼつぼつあらわれはじめた。あの老いぼれ船長のいぬまにと漏れなく赤い顔をして色のついた呼気を吐きながら、
僕には、公園の彼女よりも、こちらの空気のほうがしっくりくる。品がなく、筋と義理を重んじ、クレタ島の迷宮のような
喧しくなってきたので、僕は船を降りてまたぞろ
僕の居場所はどこにもなかったし、居場所のある自分が幸福なのかもよくわからなかった。
中華街の派手な門をくぐると、途端に喧騒と毒々しい原色の明かりが嘘のように静まりかえった。虫の
彼女がいた。
昨日とまるで変らない様子で、物静かに車椅子に腰をおろしていた。僕には彼女だけが見えた。彼女のドレスが薄明りを青白く返していた。まるで彼女自身が発光しているとさえ思えた。
「いつもここにいるの?」
僕はさすがに驚いて問うた。
「うん」
「ひとりで?」
「そうよ」彼女の声は輪郭がとてもはっきりしていた。
「あなたもね」
「僕は……」
正直にいって、僕はここへきたこと、話しかけたことをほとんど機械的に後悔しはじめていた。今夜はきっと、盛大なパーティになることだろう。つい目をそらすと、水の中を月と星が泳いでいるのが見えた。
「それ、金平糖? かわいいもの食べるのね」僕は別の角度からも恥ずかしくなった。
「これしか食べられないんだ」
「あら、なんで?」
「わからない」
「ずいぶんご苦労なさっているのかしら」
「そうじゃない。病気だそうだ」
「なんのご病気なの?」僕は自分のことをしゃべりすぎたと思った。それでつい、
「君は案外ずけずけとものを訊ねる人なんだな」不機嫌な調子になってしまった。
「あっ、ごめんなさい」彼女は『しまった』という顔をした。それでかえって、僕のほうがそんな気持ちになってしまった。
「かわりにかわたしのことも話すわ」見て。
彼女は腰をととのえて軽くかがんだ。肩から彼女の髪がこぼれた。ドレスの裾に指をかけ、それを膝までめくってみせた。思わぬことに面食らったが、スカートからのぞいたそれは鈍色をした金属のかたまりだった。
「わたしね、義足なの」
「えっ」
「ひとつくれる」
咄嗟に何のことだかわからなかった。金平糖の話なのだと、気がついたのはやや時間がしてからだ。池で何かが跳ねた。金平糖の包みをひらくと、彼女の手のひらにみっつほどこぼした。彼女の手は爪が長かった。
「おいしい」彼女が口をきくと、中からころころと音がした。
「ロマンチックな病気だと思うわ」
「そうかな」僕はいつも頭の中でしているような、当意即妙というのだろうか、洒脱な受け答えは既にあきらめていた。かといって彼女や船の仲間たちのように、尊敬すべき無邪気にもなりきれなかった。ようするにいつものやつというわけだ。
ふたたび池で何かが跳ねたと思ったら、雨だった。弱いものだったが粒が大きい。僕は傘をひらくと彼女に手わたした。
「送るよ」これが僕にできる最大限紳士な振る舞いでしかなかったのだ。
僕はうまれてはじめて車椅子というものに触れた。もっとも、持ち手には滑り止めがついていた。雨がすこしずつ強くなるのが
彼女の脚もこんな感触がするのだろうか、と思った。
「ありがとう。でも、いいの。すぐに父が迎えにくるわ」
彼女がすぐそばの家を指さした。
「あの家よ。わかる? いつも父が窓辺から見てくれているのよ。わたしがでていってしまうから……」
なるほど、暗くてわからないが、たしかに向こうからこちらへ近づいてくる影があるような気がする。
彼女は傘をこちらへ倒してくれていた。僕にできることは——それはもうあとどれほどの時間があるとも思えないが——精々それをやさしく押しかえすことくらいのようだった。彼女もそれをだまって受け容れた。
「きれいね」彼女が金平糖をひとつつまんですこし高くへかかげた。
「きれいよ」金平糖はどこかの明かりを目ざとく見つけて、僕らの傘の中で一瞬ひかった。
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