自殺者と森

 不案内な隣町の森の中を奥へ奥へと歩いている。

 森といっても勾配はだらだらとして見通しもよく、雑草は無節操に繁茂していたが最低限道らしきものは用意されていた。時折道からはずれた場所にかぎって、古びた物置や小さな鳥居、ブルーシートに包まれた社を発見できた。湿った木の葉や砂がそれらに懐いていた。

 が部屋に引きこもって半年になる。

 四月二十四日の朝、絵未は引きこもろうと思った。

 詳しくいえば、そのさらに数ヵ月前から徐々に部屋から出る気力を失ってきた。絵未の世界は高校から町内、家、部屋、自分の内側と迅速に縮んでいった。

 が、とにかく四月二十四日に彼女は決心して、それから正確に部屋のものを処分していった。

 親に見つからないように、小物からすべて処分した。売れるものはすべて売ったが、たいした額にはならなかった。

 昨日、両親がいない隙に簞笥や本棚もすべて業者に引き取らせて、絵未の部屋は無事からになった。だから、彼女はここへきた。ありていにいえば、死ににきた。

 それでいて陽の高い時間帯を択んだのは、暗いと怖いからである。

「……これから死ぬ人間がおかしいでしょうか」絵未は息を切らせながらひとりごちた。

「でも、それとこれとは別」きのこを踏んだ。気味の悪い感触だった。

「怖くなく死ぬ人がいるのでしょうか?」

 四月二十四日から絵未の人生はすべて絵未の想定する範疇に留まってきた。絵未にはそれが心地好かった。そうであれば、自殺はむしろ彼女にとってひそかな愉しみのひとつでしかない。

 無論、それは所詮頭のなかでの理屈に過ぎないともいえた。先日、絵未はマンションの非常階段の踊り場に立ち、落下してゆくありさまを思い描いた。目を閉じて二秒かぞえると、自分は最早死んでいる。彼女はその場で幾度か死んだ。貧血に似た症状で踊り場の床に横たわり、黙ってむやみに呼吸を繰り返した。顔の横に液体の形をした錆があった。

 ……次第に道が繁茂する野草に埋もれだした。見上げると蜘蛛の巣が天井のように張り巡らされていた。

「もうすぐ着きます」少し先に、見るからに空の広い拓けた場所がある。そこには鉄塔が建っている。

 行きしな古紙に出してしまった帳面に、絵未は半年間欠かさず日記をつけてきた。もとよりそれをもって遺書に代える積もりは毛頭ない。絵未は書き出しを、すなわち四月二十四日の文章を、架空の友人に宛ててこんなふうに書いた。

「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」。

 以来、彼女は意味もなく思考を語りかけるような文体でしてしまう。

 途端に周囲が明るくなった。木々が拓け、頂上だった。

 頂上は猫の額ほどの空間で、そのほとんどが鉄塔とその柵に埋まっていたが、脇にはベンチもある。ニス塗のベンチで、公園にありがちな造形だった。

 絵未は埃を払うと腰を下ろした。さすがに草臥くたびれていた。足が重たいような、痛いような感じだった。高校の制服にローファーでは山歩きには向かない。かといって着飾る理由はなく、どうでもよいわけでもない。

 鞄から紙パックの水(捨てることができないので、彼女なりに配慮した結果だった)を取りだすと、半分でを潤し、もう半分で精神科で処方された強い薬をまとめてのみくだした。三十分も待てば眠りにつき、もう目が覚めない。

「可愛い下着は残したり」絵未は目を瞑った。太陽がまぶたの裏を赤く透かした。

「自殺するっていうのは不思議なものですね」

 絵未はそれまで、死の間際はもっとのっぴきならないものだと思っていた。だが世界も感覚も正常に機能している。殺されるなら必死になるかもしれない。投げやりな時は停滞していて死に向かう意欲もない。絵未の心はいま、ようやく、中庸だ。

 鉄塔の影がまぶたの裏にしばらく残っていた。ぬるま湯のような風がゆるやかに吹いていた。絵未はたまに枕にした鞄の位置を動かした。背中が少しじゃりじゃりする。それもやがて痲痹してくるだろう。

「あなたともお別れです」絵未は頭のなかで架空の友人に日記を問わず語りに呟いた。

「わたしはあなたに親しみを持っていました」

「同い年のかわいい女の子なのかなとは思っています」

「学校にはあなたよりかわいい女の子はいません」

「そういえば名前もないままでした」

「あなたはなんという名前だったのでしょうか?」

「イシュマエルと呼んでくれ」

 絵未が目をひらくと、コーヒー色のマスクごしの目が彼女を覗きこんでいた。慌てて身を起こした。男は原発作業で見たことのある線の入った防護服に身を包み、陽の光を青白く照り返していた。三つに分かれた口もとから呼気の音がかすかに漏れていた。手に縄を持ち、縄のさきは、背後の女性の首輪へ続いていた。

 綺麗な女性だった。短い髪で、男とは対照的に軽装だった。長い腕や脚には、ところどころにあおぐろい痣と出血のあとがあった。絵未は反射的に身構えた。薬のせいでふわふわした。

 立ち上がって距離を取っても、男には余裕があった。ゆっくりと間を詰めながら、

「こんなところに誰もこない」マスク越しの男の声はくぐもっていた。

「俺が手伝ってあげる」

 次第に朦朧としてゆく意識を堪えながら、絵未は「なめんな」とひさしぶりに自分の言葉を思い出した。

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