君と僕の舟
君が遠くへ行ってしまう悲しい夢を見た。君はやってきたバスに乗りこむ。立ちほうけているだけの僕が窓から見えた。やがてバスは走りはじめ、僕の姿は次第に小さくなっていった。君はかばんからアイフォンを取りだすとニュースアプリを立ち上げた。
終点で君はバスを降りた。それからアーケード街に足を向けた。アーケードというにはあまりに狭く、屋根も低い。人とすれちがうのもやっとのところへ、一定の格子状に区切られた棚が壁面を埋めている。
そこに雑貨、文具、本、野菜、あらゆるものが値札をつけた状態で雑然と置かれていた。戦後の闇市から出発したために、特殊なまま発展したのだとどこかで聞いた。湿ったコンクリートのにおいが足もとから這うように上ってきた。屋根に遮られてほの暗い路地に君が吸いこまれてゆくみたいに見えた。
僕はしばらくのあいだその場にぽつねんとたたずんでいた。知らない土地の住宅街は砂漠よりも同じ景色が続いて見えた。僕には何もかも見当がつかなかった。感情には無意識に蓋がかかっていた。それが手足にも重石をしていたが、皮膚にはぴりぴりと緊張がはしっていた。
どれほどの時間そうしていたのか、次のバスがやってきたので僕は機械的にその場をはなれた。ふと遠くに駅があることに気がついた。そこへサラリーマンの大群が中国の軍隊のように規則正しく列をなして向かっていた。
自動車が何台も放置されているような
「メーター戻してんだろうなあ」と
「それよりゆうちゃん、さっさと済ませて飲もうぜー」
「あ」と僕は思った。
「そうだね」すっかり忘れていた。同級生の関くんは同じ飲食店で働いている同輩だ。僕は雇われ店長で、関くんはたったひとりの従業員だった。僕たちは店の備品の買い出しのためにここへきていたのだった。
しばらく歩を進めると、巨大な石像が立つ辻があった。
商店はいささか想像と異なるものだった。和雑貨を扱う店で、僕にしきりに帽子の試着を勧めてくる。僕もその気になって次々に頭に載せてみるのだが、どれも結局似合わない。
「このそろばんなんかうちにどうだろう」関君が笑顔を向ける。
「電卓でいいじゃないか」僕がいうと、彼よりも担当していた従業員がむすっとした表情を見せた。僕の店なら接客指導だ。どうもこの店は全体的に接客が悪い。
アーケードを抜けると横浜港だった。道の半分が京浜工業地帯の海に沈み、それより先へは進めない。潮の香りがむっと鼻を衝いた。片側では工場が煙を吐き、もう片側は鶴見川の河川敷に連絡している。
君はホームに
「こういう風景、結構好きなんですよね」君は船頭に話しかけた。
「そんなに
海は廃水に汚染されて何も見えない。それでも時折魚が顔を出して、また闇のような海の底へ潜っていった。水面から突きでた工場の土台にはふじつぼがびっしりと群生していた。無数の杭が頭をだしていた。それぞれすでに腐っており、正体のわからない生物が蠢いていた。
店を出ると夜になっていた。店の裏から川原へ連絡する短い階段を、僕はひとの波に流されるまま上った。年に一度の祭りの日だった。
夜の川面は鉱物のように見える。波の尖端が明かりを硬く反射して、磨くまえの石の肌を思わせた。僕はそれを美しい光景だと思った。覚えず涙を流していた。僕は君と精神科の主治医しか信用していないから、君がいないと何もできない。何をすればよいのかわからないというのは、本当に恐ろしいことだ。ときおり舟が波を研磨するように下流へ向けて流れていった。僕の見る世界はおそらく間違っている。僕のとなりに君がいたらどんなに素敵なことだろうと僕は思った。
あれが君の舟であると僕が気がつくはずもなかった。
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