勇者様の犯罪

 勇者のなおが、かつて女を殺したことをだれも知らない。直樹を咎める影が、絶えず彼に目を光らせていた。

 影はものをいわず、ただ直樹を見ているだけだ。直樹にはそれが居心地悪かった。あるときは木立の奥から、あるときは宿のはりの上から、あるときは家々の隙間から、直樹に視線を寄越すのだった。

 視線を感じる都度、彼は女の死に顔を思いだす。そうして酒を求める。村の酒場を訪れると、

「勇者様だ! 勇者様がきたぞ!」とかならず歓迎してくれ、直樹は過去の罪から束の間解放される。


 女はといって、直樹との下校の最中に事故に遭った。気がつくと二人でこの世界に転生していた。山に居を構えながら、日本へ帰る方法を探していた。

 そのうちに、図らずも直樹は勇者様と呼ばれるようになった。何かしらの才覚があったらしい。それはそれなりに晴れがましい気分ではあったが、百合はやがて病んでいった。いまにも泣きだしそうな、責めるような、急くような目で直樹を見た。

 ある夜、百合が急に直樹の上にかぶさって口を合わせてきた。

 女の腕とも思えない力で直樹を押さえつける百合は、直樹にはおそろしかった。白目の部分が、焚き火の炎を真っ黄色に映していた。

 思わず邪険に振りほどくと、その拍子に百合は岩に頭を打ち付けて死んだ。あたりの土が血を吸って重たくぬかるんだ。瞳がっと直樹を見ていた。


 その日も直樹は酒場でしこたま飲んだ。

「勇者様、大丈夫ですか?」看板を仕舞う酒屋の主人に、

「大丈夫、ぼくは勇者だぜ」直樹は笑顔を作ると千鳥足で帰途についた。

 実際のところ、宿屋の喧噪をうしなうことは彼に罪を思いださせた。早く宿屋について倒れるように眠りたかった。

 そろそろ村はずれの宿屋に着くという頃合いだった。手に持ったランタンが、自分のものではない影を映した。

「畜生!」直樹はランタンを地面にほうると、腰に帯びた刀を抜いた。ところが周囲を見ても、だれもいない。

「いいかげんにしろ、出歯亀め! でてこい、勇者様が叩っ斬ってやる!」

 すると、普段ならものいわない影が、くすくすと葉擦れのような笑い声を立てるのである。直樹は頭に血がのぼるのを感じた。まるで初心者の勇者がするように、めくらめっぽう刀を振り回した。

「ぼくを責めるのか? 馬鹿にしているのか? 殺してやるぞ!」

 逆上していたせいで、すぐそばが沼になっていることに気がつかなかった。

 あッ、と思う瞬間には足を泥にからめとられていた。直樹は防具の重みで浮かび上がることができなかった。また、泥が深く堆積しているようで、けば藻搔くほど深みにはまってゆく。

「助けてくれ」

 水を飲みながら叫んだが、村の中途半端な場所のことで、だれにも届く気配はない。影の気配も、いつのまにか消えてしまっていた。暗い村に眩暈の光だけが繰り返し明滅した。

「これで終わりなのか」直樹は悲しくなってきた。

「こんな異世界で、ひとりぼっちで死んでゆくのか」

 直樹はおいおい泣いた。泣きながら、足のほうからずるずると沈んでいった。その泥が、百合の血が染みたあの土と同じように重たかった。

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