絶望指南

 数週間ぶりに外へ出るとまだ明るかった。そのくせ街灯だけはぽつぽつとともっていた。

 夏は絶望するには環境が悪い。

 本当は夜を待つはずだった。だが煙草を切らしてしまった。これでもずいぶん我慢した。何事にも作法というものがある。絶望するにはなるべく暗く、静かな環境で、そして手の届く場所に煙草が必要だ。酒はよくない。あれは悪魔の水である。

 大脳のような雲の、野放図に繁茂する草花の、無駄に解像度の高い砂利の、なんと散漫でやかましいことか。悪いことをするでもなし、こちらは黙って膝を抱えているだけなのに、夏のほうからうざがらみしてくる。

 独房を借りたい。拘置所は三畳らしいが一畳もいらない。自分の輪郭と同じ部屋があればもっとも好ましい。どこでそんなものを売っているだろう。ゾゾタウン?

 むろん、公共料金さえ滞納している自分には笑止な夢想にすぎなかった。そんな自分をいじましいとさえ思っていた。

 母親とその小さな子どもが道の脇ではしゃいでいた。努めて自分のつま先だけを眺めて隣をすりぬけた。足が自分よりもさきへ進むように感じた。私と子どもの影が近づくと、一瞬膨らんで吸いつくようにくっついた。

 見てはいけないのではない。見られてはいけないのだ。子どもに悲しいものを見せてはいけない。それくらいの慎みの持ちあわせはある。

 で、とおりすぎざま、目端にひさしぶりに彼を見た。

 彼らは絶望の権化みたいなものだ。というとおおげさだが、実際はどの場所にもいくらでもいる。ひさしぶりに、というのはたんに私が引きこもっていたからにすぎない。

 彼らは暗がりを好み、絶望、悲観、無気力、疲労、倦怠感、肩こりその他もろもろを輪郭の内側に含む。

 私には昔から親戚の人のような感じを覚えるが、正常な大人は視野から排除してしまっている。絶望と真剣に向きあうとくたびれるからだ。

 彼らは絶望を手懐けている。そうして今日もいちおう服を着て生活している。その点では彼らは私の先輩格ということになる。

 ふと顔をあげると、たかだか数百メートル程度のコンビニまでの道程に、かなりの数の人間が活動していることに急に気がついた。背に緊張が走った。エンカウント率の高いロープレかよと思った。

 ……セブンイレブンにつくと、途端に汗が噴きだした。店内にはかすかに異臭が漂っていた。甲殻類、卑近な例でいえば海老を煮だした汁のにおいに酷似していた。見るともなしに店内を一周する頃には、汗は迅速に乾燥していた。同時に、その異臭を自分が発していることにも気がついた。

 が、実際にどこまで臭うのか、他人にもわかるのか、もしくは頭の中なかする臭いなのか、冷静には区別がつかなかった。

 知らないうちに煙草が値上がりしていた。

 結局部屋に戻ったあと、いつもの床のいつもの位置に横たわったにすぎなかった。いつか医師に強迫性緩慢というと教えられたが、正式な名称が必ずしも意味を持つものではない。私はいまだにそれを手懐けることができないでいる。

 甲殻類の臭いはまだしていた。それどころか、両手から糞便の臭いすら漂いはじめた。

 するとかえって冷静になって、脳の誤作動説が確定的だったが、どうあれ知覚していることはほんとうなので気が滅入った。帰途で視線を感じた気がするのも、それは心のなかの目だった。だからこそ執拗だった。

 湯でもかぶれば軽減するのかも知れなかったが、気力はとうに使い果たしていた。それから陽は迅速に暮れていった。口から生えた煙草に火が行き来するのをいつまでもっと眺めていた。

 暗い部屋は気配が密だ。その気配にふいに割り込むものがあった。

 が、それはけっして異質なものではなかった。煙草の煙のように空気にやわらかくほどけ、混じり、隣接した影と影とが接続するように、すぐに私と重なった。私はようやく、すでに私が彼と同質のものであることに気がついた。

「よう」私は笑顔で彼を迎えた。

「教えてほしいことが山ほどあるんだ」

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