尾行をすると桶屋が儲かる

 そのとき風が吹いた。わたくしは「しまった!」と思った。私の気配が、風に乗って、あの女に伝わるのではないか。

 さいわい、女が私に気づいた様子はなかった。不意のことに驚いた心臓をなだめる。だが、いまの風にも収穫はあった。けている私を尾けている男の存在である。

 女が感づいて頼んだのか、勝手な正義感から動いているのか……ある丁字路に差しかかると、私はあえて女が曲がったのと正反対に折れてやった。

 そうして一軒の家の陰に隠れた。塀の節に空いた穴からのぞくと、間抜けそうな男がきょときょとと首を回しているのがみえた。そのさまがあまりに無様だったので、私は思わずちいさく吹きだしてしまった。

「にゃ〜ご」

 軽くフォローしてそそくさと庭をぬけた。じつはその家の庭を回りこむと、女の進路の脇腹に連絡するのだ。もっとも、家と家との隙間の薄暗い場所なので、女には思いもよらないだろう。

 っと息を静めて女がくるのを待った。案の定、女の足音が次第に近づいてきた。私は脳裡にすでにあの女の死体を思い描いていた。ひとめぼれだった。私は何年もずっとこうして待っていた。

 目のまえを女が過ぎた。長い美しい髪が残像のように横切った。明るいところへ乗りだすと、とたんに衝撃がはしって私は気をうしなった。

 水をぶっかけられて目を覚ました。私は手足を縛られていた。後頭部がずきずきと痛む。

 そんな私をみおろす、少年とも青年ともつかない若い男があった。鳥打ち帽が顔をかげらせているが、切れ長の目が冴えざえとひかっていた。

「おまえ、すごく馬鹿だな。探偵があんなに簡単に撒かれるものかよ」

 そこではじめて奸計に気がついた。まんまと撒いたと思ったのは、探偵の罠だった。

 やがて、ぞろぞろとひとが集まってきた。探偵とはあべこべに、いずれも品のない、屈強な男どもである。

 そのなかに彼女のすがたもあった。

さん、この男で間違いありませんね」

「はい、間違いありません。残酷に殺してやってください」

 悔しくて滅茶苦茶に泣くと、男たちが黄色い歯を剝きだして笑った。男たちは全員が手におおげさな刃物を持っている。

「そうだ。汚いから、いじめるまえに器を用意しておこう」

 そうして探偵は男たちのひとりに、数個の桶を買いにはしらせた。私は叫んだが、猿ぐつわをされていて声にならない。

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