ダックマンのこと

 子供の頃、近所にいつもあひるを連れている初老の男性がいて、あだ名をダックマンといった。

 同級生のというのがあるとき彼をそう呼んで、子供のあいだでふざけて呼ばわっているうちに、いつのまにか定着したのである。以前の彼がなにマンだったのかは知らないが、とりあえず本人に嫌がる雰囲気はなかった。

 大人が彼をなんと覚えていたのかといえば「あのあひるの」とかであって、どこか胡散くさげに見ていたようだ。彼はちいさな韓国語教室をひらいて生計を立てていて、そのわりには、目をみはるような屋敷に住んでいた。その屋敷というのが公園のとなりにあるので、いつも彼のあひるたちをそこで散歩させていたのである。

 僕らは彼を悪人ではないと思っていた。子供たちになつかれるのはうれしそうだったし、彼のあとを頼りなげについて歩くあひるどもは可愛い。ただ、母親がドイツで占い師をやっているとか、長男がNASAにいて次の宇宙船に乗る予定だとか、着地点と真実のよくわからないグローバルなことをたまにいうのだった。

 彼には二十ほどものはなれた若い奥さんが(まあ、これは本当に)いて、いちど、仲睦まじく歩いているところをみたことがある。ダックマンはそのときはあひるを連れておらず、パナマ帽なんかをかぶってちょっと気障なおしゃれをしていたように思う。

 そんなダックマンを公園でめっきりみかけなくなったと思ったら、なんでもアメリカの長男のところへ奥さんとふたりで越したのだという。

 日本を発つまえの彼と奥さんにに会った愛里沙が

「アメリカのどのへん」ときくと、

「火星さ」とダックマン。

「あひるはどうするの」

「しばらくは、いらん」といっていたとか。

「元気でね」と愛里沙がいうと、彼はいつも子供たちに向けるやわらかい表情でなにかを答えたが、それは日本語でも英語でも韓国語でもない不思議な響きだったそうだ。

 ダックマンのやたら広い屋敷はしばらくはそのままだったが年がける頃には周囲とまとめて取り壊され、マンションが建って翌年は転入生がたくさんきた。

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