兎丸の新歩 弐
寒さが緩み、山々が萌えだすと身体中がムズムズした。暴れ出したくなり辺りを転げ回ると、今度は眠気がフワフワと漂い出し、ネズミと青虫の側でうつらうつらする。穏やかな春の日々に、佐紀の威厳に満ちた声が紛れ込む。
「遅いくらいでございます」
遊んでばかりの兎丸に、
「もう、七歳になったのですから読み書きを始めましょう」
兎丸は(読み書きって何だーぁ)と、思ったが声には出さない。佐紀は、ちょっと怖い。でも好き。
実の母親の記憶は、薄れてしまった。優しかったような気がするが、丸太屋の加奈と同じで、声が小さい。
声が大きいのは、丸太屋の梅だが、佐紀と梅では何かが違う。
(梅はおれを嫌いなのだ。なぜ? おれが梅を嫌いだからか??? おれって、梅が嫌いなのか?
梅も佐紀と同じ目をすることがある。やんちゃをする丸太屋のお嬢様澪を見つめる時だ。うーん、難しいなぁ。お腹空いた)
佐紀の指南で、筆を持つ。その前に墨を刷る。その前に両袖を括る。
真剣に、筆を持ち、貴重な紙に文字を認める。
「安倍秀隆」
いずれ、元服の折には然るべき名前を頂けようが、何かの問い合わせに兎丸ではまずかろうと佐紀と弥助で命名した。
「うへぇー、兎丸、うーさーぎー」
筆に集中していた息を吐き出したところで、裏庭から叫び声が飛んで来た。
兎丸は、慌てて飛び出す。
「あれ、若さま。何処へ‥‥‥」
裏の竹林に飛んで行くと小屋の入り口に大きな猫が中を覗き込んでいる。
何処からやって来たのか、大きな
「ああぁ、駄目、駄目。お腹が空いているなら餌をあげるよ」
兎丸の声に振り向いた猫は、不満気な顔でのそりと動く。
「おまえ、名前は?」
返事はない。
「なんだ、おまえ口がきけないのかい。忠吉はネズミだけど、しゃべれるぞ」
「わたしだとて、口はきけます。が、理解してくれるご仁がこの日の本では極めて少のうございます」
「あっ、しゃべった。おれは、お前を理解したよ」
「それは、それは、貴重なお方にお会い出来た」
「喜んでくれて、おれも嬉しいよ。忠吉と青虫はおれの友達だから、食べたら駄目だよ」
「畏まりました。それでは、餌などお与え下さいませ」
「うん、付いておいで」
唐猫を従え、兎丸は屋敷へ向かう。
唐猫は、宋からの輸入猫だ。船のネズミ退治をしながら日の本にやって来た。
裏口に、佐紀が待ち構えていた。
「若、如何致しました。勉学の途中で中座はなりません」
「はい、ごめんなさい。でもこの猫が、あっ名前は何だっけ?」
「宋子と申します」
猫は、「ねぇ、ネェ、にゃーお」と鳴いた。佐紀の耳にはそう聞こえた。
「ソウコって云うんだって、餌を上げて」
「若、今‥‥‥ 若は猫に名前をお尋ねになった?」
あっ、まずかったかなと首を竦める。
「そして、猫がソウコと答えた?」
仕方がないからこっくり頷く。
「弥助、弥助。ちょっと来ておくれ。奇妙が
「へーぃ、何でございましょう。佐紀さま」
「若が、若が、これなる猫としゃべった。これは
弥助は、少し困った顔を拵え、兎丸を見やる。
「はい、正しく陰陽師の才の片鱗かと存じます」
弥助は、驚かない。少し前から小屋に居ついたネズミと青虫に話しかけながら、餌を与える兎丸に気付いていた。
子供が小さい内は、こんなこともあろうと他言はしなかった。
佐紀は、舞い上がった。これぞ、安倍家の血筋がなせる業。誰かれなく云って回りたいほどだ。
猫の宋子も困った顔で、兎丸を盗み見る。
「佐紀、猫に餌をあげてもいい?」
「はい、何がお好みか聞いて下され」
「ねぇ、にゃあみゃあ」
宋子が嬉し気に答えた。
「何でもいいけど、魚の荒でもあればいいって」
「畏まりました。宋子どの、ちょうど腰越から生魚が届きました」
佐紀は、嬉々として囲炉裏の間に駆け込んだ。佐紀は、猫が気に入ったようで、宋子に敬称を付ける。
弥助が、兎丸に聞こえるように呟く。
「いずれ、小屋の方も何とかせねば」
さすが、弥助だと兎丸は感心する。しかし、猫はともかく、ネズミや青虫を佐紀が受け入れてくれるだろうか。佐紀は、大の虫嫌いだ。
初めて晴秀屋敷に駆け込んだ日。
「近頃は、晴秀さまが施して下さいました結界が緩み、青虫やゲジゲジなどが出入りします。どうぞ、驚かないで下さいませ」
「‥‥‥」
兎丸の目は思わず輝いてしまう。楽しそうな家だ。
「早く、陰陽道を極め、また結界を張って下さいませ」
「承知した」
兎丸は、ほころぶ口元を隠すため顔を俯けた。
隣が遠いこの屋敷は、人も少なく賑やかではないが楽しみが次々に生まれてくる。
あれから、四ケ月ほど経つが、友達が次々現れる。
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