鎌倉通信 参

 三年前、承久三年(1221年)五月に承久の乱が起こり、完敗した後鳥羽上皇は、隠岐島に配流となった。

 眠れぬ夜を刻み、千々に途切れる午睡の中で、上皇は東を目指す。聞くだに蛮勇な野卑の国は、もちろん見たことがない。行ってみたいと思ったわけでもない。それでも憤懣やるかたない、情けない恨みはムクムクと育ち東へ飛んだのだ。日々、刻々、乱れ打ちに鎌倉を目指し、執権北条義時邸の上に暗雲となって溜まった。

 じっと見つめる。悔しいかなそれ以上の力はない。

 我が世の春を謳歌する義時は、若い女子に児など産ませて、皺だれてきた頬を更に緩める。

 三年も経てば、上皇の怨念も疲れてくる。何を恨んでいるのかも忘れてしまいそうな暑い夏だ。

 死霊であれば、暑さなど物ともしないだろうが、生霊であるから疲れが溜まり暑さが応え、なぜにこんな東国の海辺の小さな町の上空にいるのかと、ぼんやりしてくる。

(むむむむぅ、何だ、何が起こった)

 足元の屋敷が騒めいている。

(やや、義時が病か、隙が出来たぞ。わしの怨念が入り込む隙が)

 義時目指して、暗雲が降りて来る。必死の加持祈祷が、後鳥羽上皇の生霊を阻む。

 陰陽師の祓いなど何するものぞ。蹴散らして踏みつけて、消し去ってやる。

(苦しい。気持ちが萎えて、意識が薄れていく)

 義時屋敷に急ぐ安倍親職は、屋根を覆っていた黒雲が、薄れていくのを見た。

(祓え、祓え、悪意の念を吹き飛ばせ)

 陰陽師としての矜持を深めた親職は、薄れていく黒雲が上空に消えて行くのを確かめて、義時屋敷に入って行った。


「お、おもうさま」

 思わず、幼児に返ってたどたどしく呼ぶ声に、閉じた目蓋を虚ろに開いた上皇おもうさまは、俄かに覚醒した。

「おぅ、おぅ、支援に参ったか。遠路大義であった。にっくき義時が弱っておる。今が、今が好機じゃ。力を合わせ、一気に恨みを晴らそ、う、ぞ‥‥‥」

 喘ぎながらも、嬉々として興奮する上皇を小さな白虹の中に取り込んだ。

 二体の生霊と一匹の兎を抱え込んだ白い光は、円形を崩し兎の長い耳がはみ出している。

「おもうさま、あのような下賤の者に関わってはなりません。復讐が生み出すものは、‥‥‥」

「‥‥‥」

(わたしは、何を云っているのか)

 佐渡院は飛び出してくる言葉に自ら驚いてしまった。おもうさまを援け、にっくき北条を討つために佐渡島を抜け出して来たのに、「なりません」と蛮勇をお止めして何とする。

 日ノ本の最高位に上ったことのある親子は、互いに見つめ合い、言葉を失った。

 佐渡院は白虹の中で、白虹の魂の叫びに触れたのだ。

「なりません」と、復讐を諦めるよう言葉で説得されたのではない。

 目に耳に鼻に舌に、そして意識に、じわりと沁み込んだ白虹の善道を尊ぶ心を我知らず、おもうさまに伝えたのだ。

「何を云う。わしの恨みを知らぬげに、戯けたことを申すな」

 震える声を励まして、幼子を叱りつけた父親の復讐の魔の手が愛息の首に伸び締め付けた。

 兎丸が悪魔の右腕に飛びついたが、上皇の右足が激しく動き、蹴り飛ばされた。

 白虹の円形が崩れ、歪んだ隙間から兎丸がこぼれ落ちたと見えたその時、白虹は兎丸を包んだまま鎌倉中の真っ只中に落ちて行く。虚空に押し出されたのは佐渡院と狂乱の父親だ。狂気の手が離れた上皇は、生霊の意思を失い地獄の果てへと落下する。取り残された佐渡院は、手を伸ばすが届かない。

 白虹が浮動し、兎丸の手が伸びた。慈悲に満ちた手が耳が長く長く伸び、由比ヶ浜の波打ち際で佐渡院の手を掴み、後鳥羽上皇の足を掴み、白虹の中に取り戻した。

 親子は、混乱した。

「復讐などと云う邪道に迷ってはいけませぬ」

 薄っすらと涙を浮かべて告げる息子を父親は驚きの目で見つめた。

 己が教え諭したことのない慈悲の心が息子から溢れて来る。


 六月十三日、執権北条義時が六十二歳で急死した。

 この頃、体調を崩していたが、それにしても急な臨終だ。

 前日には、あまたの陰陽師が卜筮を行い「大事には至りません」と等しく占ったのに何たることだ。

 快方に向かいますと云いながら、数々の御祈祷が行われた。親職も泰山府君祭を担当した。用いる道具なども何時もより念入りに様式どおりに整えた。

 それなのに、義時は危篤になり翌日には身罷った。

 陰陽師たちは、首を竦めるより方法がなかった。

 親職は、十八日の葬礼の取り計らいを命じられたが辞退した。

(どの面さげて葬儀の場を取り仕切ることなど出来よう)

 うつうつとして、引きこもった。

 義時屋敷の上空にあった暗雲は去ったではないか。

 今少し、黒雲を見上げていれば、そこに小さな白虹を認めることが出来たかもしれない。しかし、何やら知れぬ切迫感があり、もどかしいほどの焦りが背中を押し、屋敷に駆け込んでしまった。常の親職であれば、兎丸の気配を感じることも出来たはずだ。抜かりがあったと云うほかはない。


 後鳥羽上皇は、執権義時の訃報を配流先で聞いた。何やら疲れて喜びさえ浮かばなかった。

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