佐渡新話 参
毎朝、雪の降りしきる庭に出て、呪文を唱えた。船の上でも唱えたが、心の中で小さくだ。なぜだか、大声で唱えなかった。この屋敷では、誰にでも聞こえるように大声を上げた。
この屋敷には、多くの人が働いていた。死んだはずの少年が突然現れたのだ。不信の目を向けるのは当然だ。
「何をしているのか?」と問われれば、「皆さまの健康を祈っています」と応える。
「
毎朝、朝日に向かって、生活を整え正し、四柱神の加護を頂き周囲との聖別をし、五陽霊神に願い奉るご挨拶である。
みんなの幸を願うのとは少し違う気がするが、兎丸は、この祈祷しか諳んじていない。
初めて祈祷を行った朝、庭を見渡し、池の水際に建つ石灯籠の前に膝を付いた。昨夜の雪がサラサラと少し冷たいが我慢した。
翌日、庭に出ると石灯籠の前に、円座が置かれていた。有難く円座の上に膝を付いた。
次の日は、円座の上に温かい丸布が置いてあった。有難くその上に膝を付く。
瞬時の祈祷だが、雪の日も雨の日も続けた。みんなの幸を祈るのだが、一番に願うのは、
商える物は、何でも商う
雪解けを待ちきれぬと凍てつく道を必死に歩いて、熱が下がらぬ赤子を抱いた母親がやって来た。
「ご祈祷で、この児を救って下さいませ」
志乃は、奥へ飛び込み、解熱の薬草を煎じ出した。
兎丸は、赤子を抱きしめ、優しく祈祷した。何時もの朝の祈祷だが、きっと治ると心を込める。
囲炉裏の薪もパチパチと手助けし、暖かい気持ちに満たされた屋内で、赤子はすやすやと眠っている。疲れ果てた母親も久しぶりの安心にうとうと。
兎丸がそっと囁く。
「母さまの薬湯が効きました」
「いいえ、そなたの祈祷が効いたのです」
覗きに来た新右衛門が、微笑みを隠して踵を返す。後ろ姿の肩の辺りが安堵安堵と少し揺れた。
氷の下の水流が騒ぎ出し、春草が雪の下で、もごもご云い出した。
静々と近づいて来る春の気配に、朝の祈祷場も賑やかだ。赤子の解熱を聞いた人々が集まりだし、新右衛門は少し困惑したが、生まれつきお嬢さまの志乃の決断は早い。裏庭の木戸の内側に大きな屋根を作り、その下を近隣の人々に開放したのだ。屋根の奥は、裏庭の池の端で、池を隔てた向こうには石灯籠が見え隠れ、朝の祈祷が聞こえる。
気の利いた者は、朝の挨拶を素早く覚え、共に祈った。
路がぬかるみ、嬉し気に春がやって来た。
そんなある朝、椿事が起こった。祈祷を終えた兎丸が朝餉に戻って来ない。志乃は胸騒ぎを覚え、池の端へ向かうと兎丸が誰かと話している。相手の姿は、見えないが、志乃の足は止まってしまった。
「どうぞ、気をつけてお戻り下さい」
吐息をついた志乃が兎丸に近づいた。
「どなたとお話ししていたのですか」
「ああ、母さま。えーと、佐渡院さまだって」
「なんと‥‥‥」
「山の向こうから来られたそうです。母さまは、佐渡院さまを知っていますか」
「この佐渡で、佐渡院さまを知らない者はおりませんよ。されど、あのお方は、山の向こう」
「だから、山の向こうから来たのだと‥‥‥」
「お供は居たのですか? もうお帰りになったと‥‥‥ お姿が見えませんでしたが」
「うーん、お気持ちだけ来たのでしょう」
「‥‥‥ それで、それで、そなたに何かお頼みか」
「うーん、別に特別には。朝の挨拶の時、佐渡院さまの幸も祈ることを約束しました」
「お寂しいのであろうな。祈祷の噂が聞こえ、そなたに会いに来たのであろう」
「はい、そのように云っていました。穏やかで、優しげな方でした。あの方は誰ですか」
「あのお方は、この佐渡に配流になった院さま。元は、天皇さまですよ」
「へぇー、偉い方なのに、流されて来たのですね。誰がそんなことをしたのでしょう」
「大きな声では云えませんが、鎌倉の執権北条義時さまですよ」
「ああぁ」
「ご存知か?」
「爺さまが仕えています」
「‥‥‥ さあ、ご飯にしましょう」
志乃は、(この子は、わが息子だと信じているが、もう銀丸とは呼ばない)
多くの人が、兎丸と呼ぶが、それは聞かなかったことにして、家内を仕切り、夫を援けている。
忘れていた乙女の頃のように、すこぶる元気だ。
日本海の島にも本格的な春が訪れ、あっと云う間に山々が萌えだし、すでに初夏の風情だ。
度々、訪れる佐渡院から、「わたしの供をいたせ」と命が下った。
「はぁ」虚空を見つめる兎丸に、志乃が「如何いたした?」と声をかけた。
「母御か、ちと兎丸を借りるぞ」
志乃は、初めて佐渡院の御声を聞いた。「ははぁぁ」と畏まり、否やの言葉を失った。
三尺(一メートルほど)ばかりの上空に留まる佐渡院に、両手を差し出した兎丸だが、浮遊することは出来ない。
「院さま、わたしは飛べません」
「わたしが出来るのだから、そなたなら難なく飛べよう。さあ、出来ると思うのだ。きっと出来ると」
きっと出来る、きっと出来ると念じて飛んでみるが、両手を挙げたまま飛べば、せいぜい五寸(十五センチほど)がいいとこだ。
「すみません。飛べません。お供出来ません」
「そなたは、陰陽師であろう。飛べるはずじゃ、鎌倉に向かって飛ぶのじゃぞ」
「えっ、鎌倉へ行くのですか」
「さあ、もう一度、心を込めて飛べ。
さすが佐渡院。穏やかな生活の底に秘めた思いがあふれ出て、強い口調となった。
院は、後鳥羽上皇の第三皇子であるが、嫡男であった土御門天皇が後鳥羽上皇に迫られ退位をすると、その後を襲い第八十四代天皇となった。院政をしく後鳥羽上皇の意向であった。
倒幕を決意した父上皇の意を受け、早々に譲位をした順徳天皇は、後鳥羽上皇と共に戦い、敗れ、この佐渡島に配流となった。
何事も、父親の意向に従ってきた佐渡院は、鎌倉へ何をしに行くのか。
知る由もない兎丸は、それでも佐渡院に従おうと両手を院に差し出した。
院の背中が、薄っすらと光背の様に輝き出した。やがて光は円形を結び、佐渡院と共に兎丸を包み込んだ。
「でかした兎丸。それでこそ、陰陽師。褒めてつかわす。鎌倉へ急げ」
二人を包み込んだ丸い光は、白虹か。
鎌倉上空に白虹が、初めて出現したのは、兎丸が生まれた時だ。
誰が植え込んだのか、御家人も下人も男も女も共に幸を得ることの出来る世が、真っ当な世だと平等な考え方をもって生まれた白虹が、遍歴の末、己が生み出した人の姿の兎を何処へ導こうと云うのか。
院も兎も、不思議な丸い光を疑うこともなく、身を委ねた。
白虹は、ゆっくりと上昇し、やがて山脈を越え、日本列島を横断して行く。
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